Hitosaji Memo

2024年8月

面影は遠く

研修先のパリでばったりサロモンと出くわす來潜(非恋愛)。無い話。潜以外がずっと勘違いしてる。Tempo Lubatoの前段のつもりで書いたけど蛇足かも。
#エイトリ #來潜


 今回の研修は潜とペアだった。
 行き先はフランスだ。來人も何度か訪れたことがあるし、潜にとって欧州は第二の故郷のようなものらしい。互いにいまさらガイドなど不要なのだが、そのくらい旅慣れた人間の目線で視察をしてくるように、というのが社長命令だった。
 端から見れば折り合いの悪い二人ではあるが(そして実際に潜は何かと難癖をつけてくるのだが)そもそもが寮では同室だ。二人きりの旅行もそれほど気詰まりなものではなかった。
 もちろん和気あいあいとはいかなかったが。
 現地ではガイドがついているし、観光ではなく研修である。スケジュールはきっちり決まっていて、レポートも提出しなければならない。
 少し目を離すと姿をくらまそうとする潜のお目付け役も任されていて、いざ蓋を開けるとなかなか不自由な旅だった。しかしその不自由さも新鮮ではある。
 二日目の午前はノートルダム大聖堂に立ち寄ることになっていた。來人が生まれる十年以上前に焼け落ちてしまったという大聖堂は、今ではすっかり修復されていて、火災の痕跡を感じさせない。荘厳な雰囲気にはさすがに圧倒された。
 あの潜ですら、どこか感じ入るように聖堂を見上げていたくらいだ。
 立ち寄った際に、たまたまオルガニストの練習に立ち会えたのも幸運だった。ガイドによると火災の前とまったく同じ音響ではなくなってしまったという話だが、深く厳かな音色は來人の胸を打った。
 壊れてしまったものを完全に復元することは不可能だ。
 それでも、喪失を惜しんで取り戻そうとするのは、人間の業であり、同時に祈りなのだろう。
 そんな感慨に耽っていると、いつの間にか潜の姿が見えなくなっていた。
(あいつはまた……)
 気ままな同行者に苦笑が浮かぶ。
 來人はガイドに断りを入れて、潜を探すために大聖堂の外へと出た。
 辺りを見回すと、柱の陰から見覚えのある黒衣の裾がひらめいている。潜だ。
 気づかれて逃げられないようにと足音を忍ばせて近づくうちに、かすかに話し声が聞こえてきた。どうやら誰かと一緒らしい。
『こんな場所で再会するなんて奇遇だね、クグリ』
『うるさい』
 潜の尖った声音に、來人は思わず足を止める。
 漏れ聞こえる会話は、フランス語ではなくドイツ語のようだった。
 旅先でも地元でも、潜は見知らぬ人間と気軽に話をするタイプだった。來人に対してはそっけないが、それ以外の人間には存外穏やかに話しかける。己が優位にあると示すように、あやすような話し方をするのだ。來人に対してさえ、こんな風に不機嫌さをあらわにすることは滅多にない。
 柱の陰になっていて潜の姿は見えないが、彼が話している相手は見えた。
 茶髪に青い瞳の、どこか気怠げに笑う男。
 会話を聞く限り、旧知の仲なのだろう。しかし潜が気安さゆえに取り繕わないのか、本当に邪険にしているのか、來人には判断しかねた。
 わずかに迷ってから、來人は意を決して物陰に近づいた。
『失礼。俺の連れが何か?』
 ドイツ語も日常会話程度なら何とかなるだろう。
 そう考えながら話しかけると、男は驚いたように來人を見た。潜も弾かれたように振り向く。
「來人……」
 苦々しげに潜が呟く。
 見知らぬ男は來人の顔をまじまじと見つめてから、潜に目を遣って、もう一度來人を見た。
 ワオ、と面白がるように口角を上げる。
 ニヤニヤと意地悪く笑う様は、なんとなく潜に似ていた。面立ちはさほど似ていないのだが纏う雰囲気は兄弟のようだ。
『へえ……、君がクグリの第二奏者(セコンド)ってわけか』
『――二番目(セカンド)?」
『違う』
 潜が間髪入れずに否定する。
『この男はそんなのじゃない』
 不愉快さを隠そうともせずに、潜は言った。
 そんなの、が何を指すのかまるでわからない。
 内心困惑する來人を余所に、男は「ふうん?」と意味深に笑う。
 潜は舌打ちをしてから、來人の手を取った。
「行こう、來人。もうここには用はないんだから」
「いいのか? 知り合いなんだろう。午後の予定ならキャンセルしても構わないが」
 旅先で古い知り合いに会うという偶然もそうそうないだろう。スケジュールを変更しても、事情を話せば可不可や主任もわかってくれるはずだ。しかし潜はにべもなく吐き捨てた。
「知り合いでも何でもない。さあ、行くよ」
 背に腹は替えられないとでも言うように、來人の腕を掴んだまま潜が歩き出す。
 戸惑いながらも、來人も後に続いた。
『じゃあね、タッジオ。また、どこかで』
 笑みを含んだ声が後ろから聞こえる。
 潜は振り返らなかった。
 
 ガイドと合流して、移動用に手配した車に乗り込む。車は次の目的地へと向かって走り始めた。
 後部座席に並んで座りながら、二人の間には何とも言えない沈黙が横たわっていた。潜はつまらなそうに車窓を眺めている。ひとつため息を吐いてから、來人は同乗者に視線を向けた。
「なあ、潜。本当によかったのか? ずいぶん親しそうだったのに」
「しつこいな、お前も」
 うんざりしたように、潜が振り向いた。
 その瞳の奥に哀しみが揺れているように見えて、來人はぎくりと身をこわばらせた。
 これまで自分に好意を伝えてきた相手も、同じように哀しげな瞳をしていた。
 ――キミのことは嫌いじゃない。だけど、その気持ちは受け取れない。
 そう謝ると裏切られたような顔をされた。
 どうして、と涙に揺れる瞳を見るたびに罪悪感でいっぱいになった。どうしてと言われても同じものを返せないからだ。けれど、説明したところで理解して貰えないことも学んでいた。
 その苦しさを思い出す。
「……」
 見つめ合っていたのは、ほんの一瞬だった。
 瞬きをするうちに、潜はいつものように皮肉めいた微笑を浮かべていた。夜の海に似た瞳に哀しみの色はなく、冷たく輝く星のように静かだ。
 傷ついて見えたのは、錯覚だったのだろうか?
(いや……)
 來人は胸のうちで否定する。
 見間違いではないはずだ。潜の中の失望と哀しみを確かに垣間見た。けれど、それは自分に向けられたものではなかったのかもしれない。
 ――君がクグリの二番目(セコンド)?
 再び車窓を眺める潜を目で追いながら、名前すら知らない男の言葉を反芻する。
 自分が二番目(セコンド)だとしたら、他に誰か一番目(プリモ)がいたということだろうか。その『誰か』の面影を來人の中に見ていたのかもしれない。
(尋ねたところで答えてはくれないだろうな)
 潜のことをもっと理解したいとは思っているが、心のやわらかなところまで暴き立てたいわけではなかった。彼との間に欲しいものは信頼で、信じてもらうためには、相手を信じるしかない。
 冴えた月のような横顔には、控えめに微笑んでいた少年の面影などなかった。けれど、潜の記憶にもあの日の思い出は残っているらしい。それならば、いつか再び手を取り合う日も来るだろう。
 楽観的だと笑われるのかもしれないが、それはさほど遠くない未来のように思えた。
「ワイナリー、楽しみだな」
 次の目的地は潜がリクエストしたワイナリーだ。
 少しは機嫌を直してくれるといいが。
 そう思いながら声をかけると、潜は呆れたような顔で何か言いかけて、結局面倒になったのか黙って肩をすくめた。

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Tempo Lubato

暗くて辛気くさい來潜(順不同・非恋愛)。軽めの性描写あり。AロマAセクの來人さんがひどい目に遭う話。
#エイトリ #來潜



「愛のないセックスってやつをしようよ」
 どろどろに煮詰めた砂糖のように甘ったるい声で、潜が囁いた。
 研修として訪れたパリの夜。それぞれ部屋を取っていたはずが、手違いでツインになっていた。もともと寮では同室の相手だ。小さなハプニングを気にすることもなくチェックインし、片方のベッドに腰掛けて持参した小説を読んでいた。
 シャワールームから戻ってきた潜はナイトガウンだけを纏ったまま、來人のベッドに乗り上げた。手にした小説を取り上げてサイドボードに放る。非難する間もなく、そのままベッドに押し倒されていた。
 來人は軽く瞠目して、己の上に乗る男を見上げた。
 義手の重さなのか、潜は見た目よりも重量があった。とはいえ押し除けられないほどの重さではない。しばし逡巡して、來人は抵抗をやめた。相手の意図が読めないので、まずは様子を伺うことにしたのだ。
 力を抜いた來人に、一瞬傷ついたような顔をしてから、潜はすぐに艶やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、來人。心配しないで。僕はお前を愛していないし、これからも愛さない」
 お前が、死ぬまで。
 冷たい手のひらがそっと頬に触れる。そのまま首筋をたどり、鎖骨を撫でてから、シャツの釦を器用に外しはじめた。
「……潜」
 名前を呼ぶと、目が合った。
 夜の海を写し取ったような瞳に、自分が映っている。そう思う間も無く、近づいてきた唇に己のそれを塞がれる。舌を差し込まれて上顎を舐められると、ぞくりと背筋が震えた。
 嫌悪感こそないものの、このまま流されるには困惑が勝った。潜の身体を押しやり、睨みつける。
「何が……っ、したいんだ、キミは」
「おや、最初に言ったはずだけど?」
 聞いていなかったのかい。出来の悪い生徒を諭すように微笑んで、潜の手がシャツの下へともぐりこむ。冷たい指先が蛇のように肌を這っていくのに眉を顰めると、ああごめん冷たかったねと上擦った声が囁いた。
「でもすぐに熱くなるから」
 その手を掴んで、來人は潜を見つめた。
「どうして、俺としたいんだ」
 こんな状態で理由を問うのもいささか間が抜けているかもしれない。そう思ったが、問い質さなければ話が先に進まない。
 潜は苛立ったように眉を顰めてから、目を眇めて來人を見下ろした。
「僕が壊してあげるよ、來人。……ずっとそう言ってるだろ」
「こんなことで、俺は壊されないよ」
 別に初めてでもないし、と胸中で付け加える。
 相手に期待させたくないだけで不能というわけでもない。『愛のないセックス』なんて、とっくの昔に経験済みだった。身体だけでもいいから、思い出を残してほしいから――そう縋られて、言われるがままに流されたことが何度かあった。
 結局いつも後悔だけが残るとしても。
 その懺悔が聞こえたわけでもないだろうが、潜は少し困ったように、あるいは痛みを堪えるように、曖昧に笑う。
「そうかもね。……だけど、君は確実に傷つく。自覚はないのだろうけれど」
 その傷がやがて罅となって、いつか粉々に砕けるかもしれない。そう呟く潜のほうが、どこか傷ついているように見えた。
 來人を使って自分を傷つけたいのかもしれない。
 突拍子もない考えが頭に浮かんで、そしてそれは妙に説得力があるように思えた。
「……それでキミの気が済むなら付き合うさ」
 何にせよ今までの相手とは違う。なし崩しに枕を共にしたとしても、潜は自分から離れていかないはずだ。その打算ゆえに、來人はひとまず流されることにした。
 目的を果たすまで、彼は去らない。それなら、こんな手段は無駄なのだと納得してもらうほうが早い。
 來人の返答をどう捉えたのか、潜は失意と嘲みの混じった眼差しを向けた。冷たい手が再び來人の肌を弄り始める。
「愚かだね、君は」
「……っ、」
 その手管に熱が高められるのを感じながらも、心は冷めていくばかりだった。身体の火照りとは裏腹に、砂でも噛んでいるような心地がする。
 愛があろうとなかろうと、セックスが來人を満たすことはなかった。恋愛と同じように、自分には楽しめないものだと痛感させられるばかりだ。
 たとえば、凪とツーリングに出かけたり、あく太をラーメン屋に連れていくほうがよほど充足感があった。
「僕としてる時に考え事なんて、随分と余裕だね」
 嘲笑と共に深く口付けられる。
 酸欠で思考が鈍る。夜の底へと溺れていくようだ。
 どこか他人事のように考えた。
 荒い吐息も、卑猥な水音も、啜り泣くような嬌声も、すべてが膜を隔てたように遠く感じる。掴んだ手首は冷たく、触れる肌は燃えるように熱い。ちぐはぐで、馬鹿らしくて、現実味に乏しかった。
 こんな風に互いに傷つけ合わなくても、心を寄せ合う方法はあるはずなのに。
(でも、どうやって?)
 断末魔のような掠れた悲鳴は、どちらのものだったのだろうか。
 それすらわからないまま、夜に沈んでいく。



 夜明け前の部屋は、暗く静かだった。
 潜は身を起こして、じっと目を凝らす。
 暗闇に徐々に慣れてきた目が、隣に眠る男の輪郭をどうにか捉えた。息をひそめて見つめていると、憎らしいほど安らかな寝息が聞こえてくる。
(あんなに苦しそうにしていたくせに)
 潜が気まぐれに情けを与えてやれば、感極まって泣く者もいるというのに。この男ときたら苦行に耐える僧侶のような顔をしていた。
 まあ、だからこそ押し倒してやったのだけれど。
「愛のないセックスってやつをしようよ」
 くだらない誘い文句を思い出して、自分で笑いそうになった。
 何事も嫌味なほど卒なくこなす男は当然のようにセックスも巧く、もっと初心なのだろうと想像していた潜は肩透かしを食った気分になった。
 愛のないセックスは嫌いじゃない。
 というより、潜は心を通わせた相手と寝たことがなかった。厳密に言えば心を通わせる相手が必要だと思ったことがない。他人と交わるのは相手を籠絡するための手段に過ぎず、同時に得られる肉体的な快楽はただの副産物だ。
 肉体と心は別々に動く。だから心の通わない相手と寝ても素直に快楽を享受できた。実際のところ、來人とのセックスも悪くはなかったように思う。
(だけど、想像よりつまらなかったな)
 本当はもっと嫌悪に歪む顔が見たかった。
 けれど來人は苦痛に耐えるような顔をしただけで、嫌悪のあまり吐いたり、拒絶して潜を突き飛ばすようなこともなかった。正直なところ拍子抜けだ。
 おそらくもっと心を込めて愛してやるべきだったのだろう。そのほうがこの男を傷つけることができた。
 心を込めて、たおやかに。
 鍵盤に触れる時のように優しく。
 瞼の裏に冬の夜を思い浮かべる。
 静かに降り頻る雪のように、雑音を掻き消してしまえればよかった。世界に二人だけになってしまったように。
 宵闇はいつしか日暮れの情景に移ろっていた。
 西陽射す部屋には真白いグランドピアノ。燃え尽きるような陽光を透かした金の髪が揺れる。柔らかく辿々しい音色のLiebestraume No.3――導くように音を添えてやれば、二人の心は混じり合ってひとつになるのかもしれない。
(馬鹿馬鹿しい)
 吐き捨てるように胸の内で呟いて、くだらない空想を打ち消した。
 たしかにそうやって愛してやれば、來人は深く傷ついたのかもしれない。その愛は、彼には知り得ないものだから。
 だが、この心と繋がっていたはずの指先は神に奪われて久しい。機械仕掛けの紛い物では、かつてのように鍵盤を操ることはできないだろう。だから共にピアノを奏でる日など二度と来ない。
 潜は手を伸ばして、眠る男の頬に触れてみた。
 その温もりも柔らかさも脳には伝わらない。ただ視覚の情報から触れたと理解するだけだ。
 は、と吐息で笑って、潜はベッドに倒れ込んだ。
 今は何も考えずに、ただ眠りたかった。
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哀れなるものたち

潜ノベル5話までネタバレあり。サロ潜?
サロモンに舌ピ空けてもらう潜の話。
#エイトリ



「空港で、君が来るのを待っているよ」

 あんな約束をしなければ、フレデリクは今もピアノを弾いていたのかな。

 舌を出して、と促されるままに従った。
 今の自分はきっと、飢えて皿を舐める犬のように哀れだろう。
 いい子だね、クグリ。耳元で甘ったるく囁く男の声が、どこか遠く聞こえる。
 瞼の裏には雪がちらついていた。田園の美しい緑に降りかかるように、やわらかな金の睫毛に積もる雪。
 あの夜、彼について行かなければ。
 待ち合わせの約束をしなければ。
 そもそも、彼の演奏に心奪われてプロフェッサーの誘いに乗らなければ。潜は母親の元で今も言われるがままにピアノを弾いていたのだろう。
 フレデリクとは、どこかのコンクールですれ違うこともあったかもしれない。彼がその美しい瞳に自分を映して微笑むことはなかっただろうけれど。
 あの日から何度も繰り返し思い描く『もしも』の世界。けれど、その想像には何の意味もなかった。壊れてしまったものは、元には戻らない。ただの逃避だ。そんなことはわかっていた。
「じっとしていて」
 サロモンの指と冷たい金属の先端が舌に触れる。
 返事をするのも億劫で、潜は目を伏せたまま動かずにいた。数秒後、鈍い痛みと共に、ニードルはあっさりと舌を貫通する。想像よりもずっとあっけない。
 身体を穿たれる痛みは、少しのあいだ潜を現実へと引き戻した。サロモンは手慣れた様子でニードルを抜き去り、舌には不恰好なファーストピアスが残される。
「しばらくは腫れて、固形物も食べられなくなるから」
 そう言い残して、サロモンは部屋から出て行った。
 ソファにもたれかかったまま、潜は天井を眺めた。
 今日は抱かれないのか、とぼんやりと考える。
 舌にピアスを刺したばかりで、キスができないからかもしれない。

 行くあてのなかった潜は、初めてピアスを空けてもらって以来サロモンの部屋に居候していた。寮の自室にも病院にも戻る気になれなかったからだ。
 時が経つにつれてピアスの穴は増え、その合間にサロモンに抱かれたり、サロモンが連れてきた男に抱かれたりした。あるいは、サロモンが見知らぬ男と抱き合っている時に、余興だと言ってベッドに引き摺り込まれることもあった。
「別にクグリを男娼にしたいわけじゃないけど」
 右耳に三つ目のピアスを開けた時、サロモンはそんなふうに言って笑った。
「生きていくには糧がいる。ピアノを弾かない君が糧を得るなら、こういう方法が手っ取り早いから」
 サロモンの言葉に悪意はなく、ただ事実を淡々と語っているだけだった。確かにそうだろうな、と潜は納得する。ピアノを弾くこと以外、何も知らずに生きてきた。手を傷つけるようなことは禁じられていたから、皿洗いひとつしたことがない。サロモンが働くような場末の酒場ですら雇ってはもらえないだろう。
「プロフェッサーも糧なの?」
 目の前の男が、師の愛人と呼ばれていたことを思い出す。何の気もなしに尋ねると、サロモンは気を悪くしたふうもなく「そうだね」と答えた。
「あの人は上客だったな、ピアノも弾かせてくれたし。でも今は駄目だね。すっかり気落ちしちゃって面倒くさい。なにせ目を掛けていた弟子を二人も喪ったもんだから」
 自分とフレデリクのことだ。
 そういえばプロフェッサーも一度も見舞いに現れなかったが、どうやら心労で寝込んでいたらしい。その事実を知っても、何の感慨も浮かばなかったが。
「まあ、次の子が見つかれば元気になるだろうけど」
 ――次の子。
 サロモンが続けた言葉の意味を咀嚼して、目の前が暗くなった。
「……フレデリクの代わりなんて」
 あの日以来、心では想っても口にできなかった名前を舌に乗せると、喉が震えた。サロモンは軽く目を見開いてから、哀れむように潜を見つめる。
「かわいそうなタッジオ」
 タッジオ、と呼ばれたのはひさしぶりだった。
「フレデリクは君の初めての恋だったんだね」
「……恋?」
 思いもよらない言葉に、潜は瞠目する。
 そんなこと考えたこともなかった。
 けれど、その言葉と共に、パーティの夜を思い出していた。人生で一番幸せだった気がする夜。
 フレデリクのようになりたくて、彼の瞳に映りたくて、彼と二人きりになりたくて、心を込めて弾いた。あの音色。魂を震わせた何か――あれが恋?
 サロモンはそれ以上は何も言わなかった。ただ哀れみだけを込めて、空けたばかりの潜の耳朶の傷を撫でていた。

 あれからまたピアスの穴は増えて、次はどこに空けたい? と問われた潜は舌に空けてもらうことにした。
 真新しいピアスは杭のように舌に刺さっている。
 微かに血の味がした。

 ――フレデリクは君の初めての恋だったんだね。

 誰もいない部屋で、サロモンの言葉を思い出しながら、潜は知らずに微笑んでいた。
(Nein)
 舌に刺さるピアスが邪魔で、言葉は音にならない。
 いいえ、ともう一度、ここにはいない男に答える。
 それから、この薄汚れた箱庭から出ていくことを決めた。生きるための糧を得る術は覚えた。ならば、この場に留まる理由もない。

(さて、どこへ行こうか)

 あの歓びと哀しみが、希望と絶望が恋ならば、あれは最後の恋だった。
 この胸に咲くことは二度とない。

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つま先に星を散らして

來潜(順不同・非恋愛)習作、手癖100%。Aロマの來人さん。メインストーリー後(区ノベのバレは多分ない)
 #エイトリ #來潜



(lieb,so lang du lieben kannst!)

 恋を知らないわけじゃなかった。
 これまでの人生で何度も向けられてきたものだから、どんな形をしているのかは、たぶん知っている。
 ただ俺が、それを持ち合わせていないだけで。
 好きです。愛してる。付き合ってください。
 ――差し出される言葉が、熱に浮かされたような眼差しが、俺には剥き出しのナイフのように思えた。あるいは、花束のようにラッピングされて喉元に突き付けられる、得体の知れない何か。
「ただ受け取ってくれればいいんだよ」
「それしか望まないから」
「同じものを返してほしいだなんて期待しないから」
 そう告げられて、そしてそれを馬鹿正直に真に受けて、告白してきた友人と交際したこともある。
 俺には恋がわからないけれど、付き合っているうちに相手を好きになれるかもしれないと期待もした。
 たとえば、手を繋ぐ時に胸がときめいたり、不意にキスをしてみたくなったり、その相手が他の誰かを見ていると苛立つようになるのかもしれない。ごく普通の人間らしく。
 けれど、それらの試みはことごとく失敗に終わった。俺は相手の期待に応えられず、やがて相手が耐えきれなくなって離れていく。その繰り返しだった。
「やっぱり、好きになってはくれないんだね」
 裏切り者を見るような目で、恨めし気に言われて、それきりだ。友人だと思っていたし、出来る限り大切にしていたつもりだった。けれど、それでは『恋人』失格らしい。
(受け取るだけでいいと言ったくせに)
 そう失望する自分にも嫌気が差した。
 あるいは恋ができないのは、死の予言のせいだろうかと考えたこともあった。
 遠からず死ぬことが決まっているから、恋をしても無駄だから、俺は誰かを愛せないのだろうか。そう考えるほうが楽だったのだ。けれど、予言のせいではないことは、俺自身が一番わかっていた。
 会社を立ち上げた時も、抗争をまとめた時も、「やろう」と思って出来ないことはひとつもなかった。すぐに飽きて放り出したのは事実だが、すぐに飽きてしまうくらい、大抵のことは俺にはたやすかったのだ。
 けれど誰かを恋しく思うことだけは、最初から出来なかった。だから途方に暮れた。自分の中に無いものは、どうやったって芽吹くことはない。
 俺は死ぬまで誰かに恋することはないのだろう。
 その事実を認めることは苦しかった。誰かと親しくなりすぎないようにして、苦しみから目を背けていた。死を宣告されたことすら、俺にとっては、愛せないことの言い訳になっていた。
 そして、転機が訪れる。
 Ev3nsとして活動するようになって、人生を共に生きる『戦友』のような相手を諦めなくていいと言われた。そのおかげで、俺も少しは変わることができたのかもしれない。
 けれど、たとえばその『戦友』が恋した相手と結婚したら、パートナーや家族よりも俺を優先してはくれないだろう。配偶者よりも特別な相手を作るのは、世間から後ろ指を差されるような不道徳な行いだからだ。少なくとも俺が生きているこの世界では、そういうことになっている。
 それでも、俺なりに心を傾ければ、恋ではないやり方で誰かを愛せるのかもしれない。
 そう思えたことが嬉しかった。



 観光区長の仕事以外にも、俺はいくつか会社を持っていて、その日は自分の会社の雑務で外に出ていた。幸いと言うべきか、俺が自分がいなくなってからも会社が存続するように前から根回ししていた。そのおかげで収監されている間も問題なく回っていたのだが、やはり自分で動いたほうが話は早い。
 Ev3nsの活動も軌道に乗りはじめているし、そろそろ会社を本格的に整理して、手放せるものは手放してしまおうか。それはかつてのような投げやりな気持ちからではなく、可能な限りEv3nsとしての活動に集中するためだ。いざという時に可不可たちの助けになるような事業はなるべく残しておきたいところだが、少しずつ売却していこうと決意する。
(だが話の持っていき方を間違えると、また生行に怒られそうだな)
 他人からはまるで身辺整理のように見えてしまうかもしれない。それを否定するには、俺には『前科』が多すぎた。
 そんなことを考えながら建物の外へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
 最後の打合せ場所は17区にあり、『BAR夢十夜』にも歩いて行ける距離だった。せっかくだから軽く飲んで帰ろうと思い立つ。十分ほど歩くと、馴染みのバーに着いた。
 ドアを押し開け、中に入ったところで軽く瞠目した。
「……潜」
 カウンター席に座っていた先客は、同室の男だった。
 癖のある銀糸の髪に、風変わりな黒い服。黄昏時の影のようにひっそりと佇む時もあれば、目を離せないような存在感を放つ時もある。
 ユーカーのジャック。
 見間違えるはずもない。
 ちらりとこちらを振り向いた潜は、一瞬だけ不愉快そうに顔を顰めてから、すぐに皮肉めいた微笑を浮かべた。
 俺と遭遇したことは気に食わないが、俺にペースを乱されたと思われるほうが度し難い、と言ったところか。何を考えているのかわからない男だが、俺に対する態度は一貫していて、そういう意味では案外わかりやすい。
「やあ、來人。いらっしゃい」
 店主である夜鷹さんはカウンターの向こうではなく、ボックス席のソファに寝そべっていた。この店ではごく普通の光景だ。そして挨拶を済ませた後は、睡魔に抗う気もないのか、瞼を閉じてしまう。これもいつものことだった。
 俺はボックス席の横を通り過ぎ、潜の隣のスツールを引く。
 潜の肩がぴくりと跳ねた。
 他にいくらでも席はあるだろうに、とでも思っているんだろうな。
 構わずスツールに腰掛けて、潜の手元を見る。
 長い指が支える綺麗に磨かれたグラスの中で、艶やかな紅が揺れていた。
「あ~、ご注文は?」
 どことなく朝班の添に似た雰囲気のバーテンダーに問われて、潜の手元を指差した。
「彼と同じものを」
「……は?」
 剣呑な応えを返したのはバーテンダーではなく潜だった。
 冷ややかな眼差しに、苦笑が浮かぶ。千弥たちには甘やかすような素振りさえ見せるのに、俺にはこれだ。
「別にお前だけの酒じゃないだろ」
「ふん……」
 これ以上会話を続ける気にもならないのか、潜は鼻を鳴らしてグラスのワインを煽った。空のグラスを突き出して、バーテンダーに向かって優雅に微笑む。
「同じものを」
「はぁい」
 バーテンダーはいささか軽薄な愛想笑いを浮かべて、俺と潜の前にワイングラスを差し出した。
 赤ワインは普段好んで飲むことも少ないが、潜が気に入っているくらいだから味は確かだろう。
 乾杯のつもりでグラスを掲げてみたが、案の定、潜には無視された。肩を竦めてひと口飲むと、芳醇な香りが鼻に抜ける。
「美味いな」
「当然だね。僕が夜鷹に仕入れさせたんだから」
「ああ、なるほど」
 このバーにはHAMAツアーズの同僚たちもよく訪れる。秘密主義なところのある潜は、他に行きつけのバーがいくつかあるようで、『夢十夜』にはあまり寄り付かない。その彼がわざわざ訪れるのは、目当てがあったからなのだろう。
「確かに夜鷹さんにねだりたくなるのもわかる」
「……」
 潜は返事をしなかった。瞼を軽く伏せて、己の手元を見つめている。
 グラスに揺れる紅を見ているのか、黒く塗った爪を見ているのか。
 バーの照明をきらきらと弾いて、つま先は星を散らしたように光る。白い指先と黒い爪は、彼が『壊れてしまった』と呟いたピアノの鍵盤を連想させた。
 俺は視線を上げて、その横顔をじっと眺めた。
 ぎこちなく微笑んでいた幼い少年の面影はどこにもない。あの日のことを思い出せなかったことへの言い訳のようだが、別人かと思うほどに彼は変わってしまった。災害によって腕を失ったことが原因なのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。俺には知り得ないことだ。
 連弾をした日のすぐ後に、潜は母親と共に渡欧していた。再会の約束は果たされないまま、中学に進学した俺はあの『予言』を受けることになる。それからは一分一秒も無駄にしたくなくて、がむしゃらに生きていた。過去を振り返る暇などなかったから、一度一緒にピアノを弾いただけの幼い少年のことなど、記憶の片隅にすっかり追いやっていたのだ。
 潜が『災害』に巻き込まれて腕をなくしたのは、彼が十七歳の時らしい。彼の行方を調べるうちに、海外の古いニュースの記事を見つけた。しかし、それから潜がどこで何をしていたのかは判然としない。少なくとも簡単に探せるようなオープンネットには潜の足跡はなかった。
 フランツ・リストの生まれ変わりと讃えられた天才ピアニストは、腕と共にその将来を断たれて、表舞台から姿を消した。

(O lieb,so lang du lieben magst!)

 気がつくと、俺は潜の指先を捕まえていた。
 触れた指は冷たかった。
 魔法のように鍵盤を操っていた、あの幼い指ではない。けれど、この冷たい手が生行の命を救ってくれた。それは、俺を救ってくれたのと同じことだ。
 潜は弾かれたようにこちらを向いた。
 痛覚はないはずだが、激しい痛みをこらえるように、彼は薄い唇を噛みしめる。射干玉の瞳は怒りに燃えて、星のように煌めいていた。青褪めた顔をして、俺を睨みつける。
 火花が散る瞳の中には、ひとかけらの愛もない。
 天地がひっくり返ったって、この男は俺に恋をしないだろう。
 本当は愛してほしいのだと俺に期待してしまうことも、その期待が失望に変わることもない。
(そのことに俺がどれだけ安堵するのか、きっとお前にはわからないだろうが)
 潜は罅割れた仮面のような微笑を頬に貼り付けて、歌うように囁いた。
「穴が開くほど見つめてくれたお礼に、その唇にキスでもしてあげようか」
 どうやら捨て身の嫌がらせをするつもりらしい。
 俺は思わず吹き出した。そのまま笑いを堪え切れずに、少し噎せてしまう。潜は機嫌の悪さを隠そうともせずに舌打ちした。
「余裕だね、冗談だとでも思ってるのかな」
「本気でも構わないさ。キスされたくらいじゃ、キミが期待するほど俺は傷つかない」
「……強がりも大概にしたら」
「強がってなんかいない。だって、潜は俺に恋しないだろ」
「……」
「少し想像してみたが、たぶん鳥に啄まれるようなものだと思う」
 鳥は俺に恋しない。それならば、耐えがたいような苦痛にはならないのだ。触れ合っていても同じ想いを返せないことに、罪悪感を覚えずにすむのだから。
 愛もなく唇に触れるだけの熱なんて、ただの温もりに過ぎない。あるいは、彼の指先のように冷たいのだろうか。それはそれで悪くない気がした。
 蔑むように俺を睨んでから、潜はため息を吐いた。
 それから俺の脛を軽く蹴る。
「痛いな」
「……もう帰るよ。ああ、支払いはこの男がするから」
 後半部分はバーテンダーに向けての言葉だ。返事も聞かずに席を立ち、潜は店から出て行ってしまった。
 どうせ同じ部屋に帰るのにな、と少しおかしく思う。いや、あの調子じゃ今夜は帰って来ないかもしれないが。
 潜を見送るついでに、ボックス席に目を遣る。
 夜鷹さんはすっかり寝入っているようだ。彼が起きていたら一緒に飲み直してもよかったが、寝ているのを起こすのはしのびない。そろそろ退散することにしよう。
 俺はバーテンダーを見上げて、二人分の支払いをすることを伝えた。青年は唇の片端を持ち上げて笑う。やはりどこか添に似ているなと思った。
「ま、何でもいいスけど、痴話喧嘩なら余所でやってくださいね〜」
「ああ、気をつけよう」
 もちろん痴話喧嘩なんて誰ともしたことがない。
 冗談じみた揶揄を笑って流せる自分に内心驚きながら、支払いを済ませて店を出た。

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2024年7月

2024.7.1 12:51にWEB拍手をくださった方

メッセージをありがとうございます。
お読みいただくだけでも嬉しいですが、ジュンブラで出す意味があると仰っていただけて、こちらこそ励みになりました。
魔法のない現実の世界も少しずつ良くなってほしいなと思っていたので、そのあたりをくみ取っていただけたのも嬉しかったです。
同性婚の支援も表明してくださって嬉しいです。わたしも引き続きわずかながら支援しつつ、よりよい社会にする努力をしていきたいです。

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2024.6.30. リンゾさん

まずはお読みいただきありがとうございます。
ほとんど自分のために書いた話だったので、メッセージを送っていただいてとても嬉しかったです。
色々と反省点もあるのですが、いただいたお言葉を励みに、細々とこんなかんじの話を書いていきたいです。

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2024年6月

6/30JUNEBRIDEFES新刊「話してくれ、雨のように」全文公開
https://k-r.moo.jp/hitosaji/works/text/4...
事前告知したとおり、サイト上に全文を公開しました。
PixivとXfolioでも同じ形で公開するかは検討中です。WEBだと少々読みづらいため、近いうちにE-PUB版を頒布するかもしれません。
もともと無料配布してしまおうかとも考えていたのですが、今回は同性婚の法制化支援のために参加と頒布を決めたので、有料頒布としました。


イベント当日お手に取ってくださった方はありがとうございました。
予想外にあたたかいお言葉や差し入れをいただき、感謝しています。
イベントは途中で切り上げて、途中から「ジュンブラ同性婚スタンディング」に参加しました。少しでもにぎやかしになれば…と思っていましたが、こちらも予想以上にたくさんの方が参加していて、和やかな雰囲気で楽しかったです。自分ではプロテストの手段がサークル参加くらいしか思いつかなかったので、主催の方のおかげで貴重な経験ができてよかったです。

売上8冊×500円=4,000円に1,000円足して合計5,000円をMarriage for all Japanに寄付しました。
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cheers!

2周年ストあたりのマブダチ度を想定。AロマのファウストとAlloロマのネロがランチデートしてるだけの話。
#まほやく #東保護者


――――――

 子供たちは昨日からブランシェット領に帰っていて、畢竟、本日の授業は休講となった。珍しく任務の予定も討伐の依頼もない。
 ならば図書室に引き籠って一日中読書でもしようかと考えてから、授業で使う魔法薬の材料が不足しているのを思い出した。
 昼日中に王都まで足を運ぶのは気が進まなかったが、こまごまとした日用品も買い足したい頃合いである。せっかく天気も良いことだしと己に言い聞かせて魔法舎を出ようとしたところで、年上の友人に呼び止められた。
「先生もこれから出かけんの?」
「そうだけど」
 話を聞けば、ネロも王都の市場へ買い出しに行くところだったらしい。
「どうせなら一緒に行こうぜ。ついでに昼飯でも食って帰ろう」
「いいよ」
 ファウストは二つ返事で頷いた。
 昔の自分であればにべもなく断っていただろう。それを言ったら、昔のネロだってこんな時に誰かに声をかけたりしなかっただろうけれど。
「実は最近市場の近くにできた飯屋で評判いいとこあってさ。一度行ってみたかったんだよな」
「店選びはきみに任せるよ」
 魔法舎が誇る腕利きのシェフは、己の技量に驕ることなく日々研究に余念がない。街へ出る機会があれば、評判のカフェやレストランで食事をして、どんなレシピが流行っているのかこっそり調べているらしい。もちろん自分で再現するためだ。趣味と実益を兼ねたお遊びのようなものだと、いつだったか言っていた。
 その『お遊び』の恩恵を日々享受している身としては、付き合うのはもちろんやぶさかではないし、むしろたまには奢らせてもらいたいくらいだった。ネロが嫌がるので、大抵は割り勘になるけれど。
 王都の市場はいつものように賑わっていた。
 それぞれ買い物をすませてから広場で待ち合わせて、目当てのレストランへ向かう。
 ちょうどランチの客が入れ替わるタイミングだったようで、並ばずに入ることができた。出る時には店の前に行列ができていたから、運が良かったのだろう。
 ランチメニューは肉と魚の二種類あって、ファウストは宇宙鷄のポワレ、ネロはビネガーフィッシュのムニエルを注文した。しばらくすると出来立ての料理が運ばれてきた。半分ほど切り分けて、お互いの皿に移す。こうすれば両方味見ができるので、一緒に食事をする時にはなんとなく暗黙の了解になっていた。
 ――こんなふうに食事を分かち合うような友人なんて、二度と作らないつもりだったのに。
 奇妙な感慨と共に咀嚼したムニエルは、肝のソースが癖になるとの評判どおりで、ワインが欲しくなる味だった。
 これは飲まなければ損だろう。
 顔を上げると、琥珀色の瞳と目が合った。
 その瞬間、心が通じ合ったように、ネロがそっとワインのリストを差し出した。ファウストは頷いてそれを受け取り、店員を呼ぶ。
 子供たちがいないのをいいことに、昼からワインをボトルで注文してしまった。ヒースクリフやシノと一緒に食事をする時は、子供たちの手前ほとんど飲まないようにしているが、ネロと二人きりなら互いに気兼ねする理由もない。
「美味いな、これ」
「ほんとだ。重すぎないから飯にも合うし」
 店員に勧められたワインは手頃な値段ながら飲みやすく、ついラベルの銘柄を確認してしまった。今度市場で探してみよう、と頭の片隅に書き留める。
 他愛もない話をしながらそれぞれ手酌で酒を飲む。食事を終える頃には、ボトルはすっかり空になっていた。
 店を出た二人は、酔いを覚ますために通りを少し歩くことにした。
「あのソース、あんた結構好きだったろ。酒が進む味だから、騎士さんあたりもきっと好きだよな。お子ちゃまたちには早い気がするけど」
「たしかに、リケやミチルは苦手だろうな」
「だよなあ。使ってるスパイスやハーブは何となくわかったから、そこそこ近い味を再現できると思う。今度、部屋飲み用に作ってみてもいい?」
「楽しみにしておくよ」
「任せといて。あ、そのハーブを買うから俺はもう一度市場に寄るけど、先生はどうする? 疲れてるなら先に帰っててもいいぜ」
 おそらくは人混みが嫌いなファウストへの気遣いだろう。
 ネロはいつもそんな風にさりげなく気を配ってくれる。甘やかされすぎているな、と思うこともあったが、正直なところ悪い気はしない。
 ファウストは顎に手を当てて少しのあいだ考え込んだ。
 たしかに市場の人混みは不得手だが、ネロが買い物をしている姿には少し興味がある。
「きみの邪魔にならないなら、僕もついて行こうかな。荷物持ち程度にしかならないけど」
「邪魔じゃねえけど、先生に荷物持ちなんかさせたら羊飼いくんに叱られそう。ファウスト様に箒より重いものを持たせるなんて――とかなんとか」
「なんだそれは。僕だっていざという時は魔法を使わなくてもおまえくらい担げるぞ。ミスラはさすがに難しいかもしれないが」
「あんたがミスラ抱えようとしてるの想像したら酔いが覚めたんだけど……」
 くだらない軽口の応酬に、顔を見合わせて笑う。
 そんな与太話をしておきながら、午前中に買った荷物は魔法で小さくして鞄にしまっておいたので二人ともほとんど手ぶらだった(こういう時、魔法というのは実に便利だ)。食後の散歩のつもりで、人混みの中を泳ぐように歩く。
 食材や調味料を売る店が建ち並ぶエリアは、ファウストにはあまり馴染みがない場所だった。露店に並ぶ野菜や果物を物珍しく眺めていると、ネロがときおり足を止めて、この野菜は今が旬だとか、油で炒めると美味いのだとか、丁寧に説明してくれる。
 結局、目当てのハーブを買う前に、ネロは旬の野菜や果物をいくつか買い足していた。ファウストも通りがかった酒屋で先ほど飲んだ銘柄のワインを何本か買っておいた。これでしばらく部屋飲みには困らないだろう。
 買い物を終えた二人は、市場の外へ出てから箒に乗った。
 東の国と違って、中央では魔法使いだからといっていきなり通報されたり石を投げられるようなことは滅多にない。面倒ごとを気にせずに箒に乗れるのは悪くなかった。
 わずかに西へと傾き始めた陽の光はやわらかく、頬を撫でる風は穏やかだ。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
 帰路を急いでいるわけでもないし、と思い立ち、ファウストは小さく呪文を唱えた。
 魔法で取り出した二脚のグラスに、買ったばかりのワインを注ぐ。
 片方のグラスが海月のように空を泳いで、ネロの手元に届いた。
 琥珀の瞳に揶揄うような色が浮かぶ。グラスを受け取りながら、年上の友人は片目を瞑って笑ってみせた。
「なんだよ、先生。まだ飲み足んねえの?」
「味見だよ。いらないなら返してくれ」
「いやいや、ありがたくいただきますとも」
 緩やかに並走する箒に腰掛けたまま手を伸ばして、互いのグラスのふちを軽く合わせる。
 涼しい音色が、昼下がりの長閑な空に響いた。

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5年ぶり?くらいにオフイベントに参加するので逆に何を用意すればいいのかわからずぼんやりしています。
とりあえず入稿と入金は済ませ、個人サイトを手直しし、Xfolioのポートフォリオを公開し、お品書きをCanvaで作りました。
サンプルは土曜にはUPできそう。
原稿中の逃避で書いてたSSの校正もしたのでこれは金曜あたりにUPできる気がします。
カウリスは…がんばる…!
(日記というよりは自分用の覚書)