Hitosaji Memo

ラスト・ノート
#エイトリ
ペア研修TOXIC×NEIGHBORイベストおよび潜区長ノベルのネタバレSS。潜→フレデリク。



 はじめに声を忘れるのだと言う。
 人間の脳はそのようにできているらしい。
 聴覚、視覚、触覚、味覚、そして嗅覚。その順番で人は誰かを忘れていく。
 しかし、カフェの古びた蓄音機から流れてきた旋律に、潜は瞠目した。
 彼の――フレデリクの奏でた音とはまるで違う「ポロネーズ第5番Op.44嬰へ短調」。その落差がはっきりとわかるのは、フレデリクのピアノを一欠片も忘れていないからだった。
 幾たび季節を繰り返しても、こうして鮮明に思い出せる。
 はじめに忘れるのが音ならば、今もその音を忘れられない自分は、彼のすべてを生涯忘れないのだろうか。
(いや……)
 視界の隅で、絵筆を持った青年が軽薄に笑っている。けれど、潜の意識は遠い日のコンクール会場にあった。
 フレデリクのピアノをはじめて聴いた場所。
 潜にとって、フレデリクとは彼が奏でるピアノそのものだった。
 彼の声、彼の微笑、彼の指、彼の舌先、彼の匂い。すべては音の波として押し寄せ、潜の魂を削いでいった。あの日からずっと、潜は五感のすべてでフレデリクを記憶している。その声が色褪せてしまったとしても、彼が奏でたポロネーズ第5番は、忘れ得ぬ残り香のように潜を包んでくれた。
(その心は、あなたの指と繋がっていた?)
 問いかけに、答えは返らなくても。

「――潜さん?」

 深く沈み込む意識が、わずかに引き戻される。
 感情を映さない黒い双眸が探るように潜を見ている。興味はなくとも、弱味に繋がるものは知っておきたい性分なのだろう。そういう彼の抜け目のなさを理解しつつも、潜にとっては瑣末なことだった。剥き出しの心を覗き見られたところで、恥じる必要もない。フレデリクの音に削り取られていった傷痕は、潜を美しく彩っているだけだ。
(「脱いだ時喜ばれたほうがお互いテンション上がりますし?」)
 ふと雨の車中で聴いた戯言を思い出す。
 すべてが嘘だと潜が承知していることを察しているくせに、悪びれもなく軽やかに嘘をつく。温度の篭らない言葉は通りすぎる雨のように味気なく、その空虚さが気楽ではあった。
 だからこそ提案に乗ってやった。
 その思惑など知ったことではなかったが、添もそれなりに満足したようだった。
 静寂の中で、フレデリクの音に浸っていてもよかったのだけれど、それはいつでもできることだと思い直した。
 彼の音にはいつでも逢える。
 煉獄の山の頂にフレデリクはいないが、彼の奏でるポロネーズがきっと鳴り響いていることだろう。

「それで、懐かしいのは治りました?」

 帰国して寮に戻り、テラスで酒を飲んでいたら、ビール瓶とグラスを手に添がやってきた。旅の思い出を分かち合おうなどと思ってはいないだろう。ただ飲みたい気分だったのかもしれない。
 グラスのビールを空にしてから、添が目を細めて笑った。どうやらワインは本当に苦手らしい。この良さがわからないなんて哀れなものだ。
 潜は肩をすくめてみせた。
「さあ、どうだろうね」
 風邪でも拗らせたかのように揶揄されても、そう不快ではない。本気で腹を探り合うほどの情熱が添にはなく、潜も添に興味がなかった。ただの社交辞令に目くじらを立てるほど狭量ではない。けれど、耳の奥に残る音の波のことを答えてやる義理もない。
 真珠のように泡立ち、触れれば雪のように消えてしまう美しい旋律を真似て、彼の心をなぞろうとした夜。優しく微笑んでくれた緑の瞳。確かに触れた指先。舌を湿らすために煽ったシャンパンの味。雪に混じった彼の残り香。
 世界に音が溢れている限り、潜は何度でもあの夜を思い出すだろう。

close
Scars of Love
2025.01.13ドゥトリ無配
AロマAセクの來人とゲイロマパンセクの潜という解釈の微妙〜な距離感のプリモSSです。
合意のないキスの描写あり
#エイトリ #來潜




 ステージには熱気が渦巻いている。
 降り注ぐスポットライト。
 興奮冷めやらぬファンの歓声。
 それらは海を焦がす残照のように、來人の眼に焼きついた。
 ライブは終盤に差し掛かるほど盛り上がりを見せた。
 情動をマイクに叩きつけるように歌う。
 こうしてステージに立って、歌い、踊ることになるなんて、少し前まで想像もしていなかった。それを言うなら傷害罪で逮捕されることも、観光区長になることも、予想だにしない未来だったが。
 先なんか見えないほうが、人生は面白い。
 そんなことを口にすれば生行は露骨に嫌な顔をするだろうが、それは紛れもなく來人の本心だった。
 幾成の歌声がマイクを通して会場に広がっていく。
 透き通るような歌を奏でるのがアンドロイドだとは誰も気づかないだろう。
 利き足を軸にして、ターンを決める。
 こめかみに汗が伝う。
 振付を覚えるのに苦労はしなかった。運動神経には自信があったし、組手の型を覚えるのと要領は同じだ。武術と違うのは、一人だけ先走ると不揃いで不恰好になってしまうことだろう。
 他のメンバーと呼吸を合わせ、指先まで神経を研ぎ澄ます。自分以外の他人に合わせるために集中する。それだけのことが來人にとっては新鮮だった。
 ファイトチームをまとめたり会社を経営する時は、他人の能力を見極めて適切に采配することが求められたが、ステージの上では來人も駒のひとつだ。
 それが面白い。
 來人は潜とペアになる振付が多かった。
 潜は気まぐれな性格だ。そのうえ來人のことが気に食わないと言って何かと突っ掛かってくる。けれど完璧主義なところがあるせいか、練習も最低限は参加するし、なんだかんだきちんと合わせてくれる。根が真面目なのかもしれない。
 ステージに立つ潜は、遠い昔に聴いた彼のピアノの旋律を思い出させた。
 機械のように精密で、それでいてどこか情熱的でもある。
 おそらくそれが、彼の本質なのだろう。
 射干玉の瞳がスポットライトの熱を弾いて煌めく。それは冷たく燃える星のようで、その瞳に射抜かれるたびに、來人は不思議な感慨を覚えた。
(俺の何が、お前を繋ぎ止めているんだろう)
 自惚れではなく、自分がいるから潜はEv3nsに残ったのだと自覚していた。
 その憎しみにも似た執着の正体はわからないが、來人がいる限り、潜がステージから降りることはない。
 視線が交錯する。
 不意に、潜の瞳が揺らいだ。彼の足元がふらついたのだと気づくより先に、咄嗟に肩を抱き寄せるように捕まえていた。
 客席から黄色い悲鳴が上がる。
 ちょうど二人のパートだったから、観客はきっとアドリブだと思ってくれただろう。
 アクシデントの気配を感じ取ったのか、こちらを見る千弥の目には緊張が走っている。問題ないと伝える代わりに來人が軽く目配せすると、ほっとしたように眉尻を下げて、千弥は客席を向いた。切り替えの速さはさすがのものだ。
 潜は微かに眉を顰めたが、すぐに涼しい顔で自分のパートを歌い上げた。
 彼が不調を見せたのはその一瞬だけで、そこからはラストナンバーまで普段通りのパフォーマンスを見せていた。そのままアンコールまで走り抜け、拍手と歓声が鳴り止まない中、舞台から去っていく。いつもの人を食ったような微笑みは絶やさずに。
(まったく……)
 半ば呆れながら、來人は潜の後を追った。
 呆れているのは潜に対してではなく、自分に対してだ。
 どこか呼吸が合わない。それは、ほんの僅かな違和感でしかなかった。
 それなのに、潜の不調に気づいてしまった。つまりはそれだけ彼を見ていたということで、裏を返せば、今までの自分がどれだけ他人が見えていなかったのか思い知らされるようでもあった。きっとこれまでにも、見ようとしないまま見過ごしてきたものがたくさんあるのだろう。
 舞台袖に戻るや否や、來人は潜を抱え上げた。
「何のつもり……」
「医務室に連れて行く。いいな?」
「……」
 普段なら猛烈に嫌がりそうなところだが、反論する気力もないのか、不機嫌そうな表情のまま目を伏せる。潜の体は衣装越しでもわかるほど発熱していた。ライブの熱気が残っている、などとは誤魔化せないほどに。
 楽屋裏で待機していた生行が、驚いたように目を瞬かせた。
「何事ですか」
「潜の様子がおかしかったんだが、どうも熱があるらしい」
「來人」
 背後から呼ばれて足を止めると、幾成が脈を計るように潜の首に触れた。薄いラヴェンダー色の双眸がじっと潜に向けられている。不思議な明滅を繰り返すのは、生体スキャンをしているからだろう。
「どうだ?」
「三十八度六分。脈はやや速いが、呼吸音は正常。外傷はなし」
「……っ、プルシュは悪い子だね。断りもなく、僕を裸にしようだなんて」
 腕のなかで、潜が嘲笑を浮かべる。無断でスキャンを走らせたことに対する嫌味のようだが、この場合は幾成の判断が正しい。
「要するに、風邪か?」
 來人の問いかけに、幾成は首を横に振った。
「わからない。自分には医学的な診断機能までは備わっていない。念のため病院に搬送することを推奨する」
「救急車を呼んできます。裏口で待機していてください」
 幾成の言葉を聞いて、間髪入れず生行が指示を出す。わかったと答えて、潜を抱え直すと、幾成が両腕を差し出した。
「自分が運ぼう。そのほうが効率的だ」
 潜は長身で体格も良い。確かにアンドロイドである幾成のほうが安定して運べるだろう。來人は軽く頷いて、幾成の腕に潜を預けた。
「……ふふ、優しく運んでおくれよ」
 重い吐息と共に、かすかな囁きがこぼれた。
 頭でも痛むのか、あるいは熱に浮かされているからか、うっすらと開いた瞼の下、黒い瞳の端に涙が滲んでいる。
 そんな状態でも軽口を叩こうとするのが、この男らしかった。
 苦笑を浮かべて、來人は背後を振り返る。
 事態を見守っていた太緒と千弥は、不安そうな表情を浮かべていた。
「くぐりぬ、ライブ前から具合悪かったのかな」
「昼はちゃんと食ってたみたいすけどね」
 普段は飄々としている潜の弱った姿を見て少なからず衝撃を受けているようだった。特に千弥は潜に懐いているようだったから余計に気にかかるのかもしれない。
 來人は努めて明るく笑ってみせた。
「ライブでも歌い切っていたし、きっと大丈夫だろう。二人は先に寮に帰っていてくれないか。みんなの荷物を持ち帰ってほしい」
 沈痛な面持ちをわずかに緩めて、太緒が「わかりました」と頷いた。不安そうに口籠る千弥の手を引いて歩き出す。
 こういう時には何か役割を与えられたほうが、気が紛れるはずだ。手持ち無沙汰だと余計なことを考えすぎて心が疲弊していく。
 ほどなくして救急車が到着し、生行が救急隊員を連れて戻ってきた。
 サイレンの音はない。
 ライブが終わったばかりの会場にはまだ大勢の観光客が残っている。余計な心配や憶測を生まないようにという配慮だろう。
 付き添いのために救急車に乗り込もうとした生行を、來人は引き留めた。
「俺が同行するから、お前は千弥たちについて寮に戻ってくれないか」
「……これはマネージャーの仕事だろ」
「俺はリーダーの役目だと思う」
 生行の目には苛立ちと困惑が浮かんでいた。
 マネージャーとしてメンバーの体調不良に気づかなかった自責と、來人の言葉や態度に対する反発があるのだろう。同時に、不安そうに立ち竦んでいた千弥のケアも必要だということは理解しているはずだ。
 やがて、根負けしたように視線を逸らして、生行が吐き捨てた。
「勝手にしろ」
「千弥たちのフォローを頼む。幾成もな」
「オーダーを受理。マネージャーに同行する」
 來人が救急車に乗り込むと、やはりサイレンを鳴らすことなく車が動き出した。行き先は大黒病院――可不可の根回しに違いない。
 意識を失っているのか、瞼を伏せた潜は静かだ。
 來人の脳裏に、千弥の青褪めた顔が浮かぶ。
 おそらく生行が刺された時のことを思い出していたのだろう。
 状況がまったく違うし、幾成の言葉を聞く限り潜に命の危険はない。
 サイレンも鳴らさずに走る救急車がそれを裏付けていた。
 しかし、あの一件が千弥にとって少なからず心理的外傷となっていることは薄々感じ取っていた。千弥には何ひとつ責任はないのに、原因の一端が自分にあると思い込んでいるようだった。
 來人はといえば、事件の前後の記憶がほとんどない。
 今と同じように救急車に同乗していたはずだが、そのあたりの記憶が抜け落ちていて、気がつけば病室にいた。
 ただ、ずっと取り乱して、怯えたように生行の名前を呼んでいたのは覚えている。あんな風に錯乱したのは、生まれて初めてだったかもしれない。
 己の死を予言された時ですら、もっと静かに受け止めていたはずだ。
 本当は恐ろしさのあまりわめき散らしたかったのかもしれないが、まだ子どもだった來人は、己の死に顔を前にして取り乱すこともできなかった。
 今は素直に恐ろしい。
 自分という存在が消える日のことを想像すると、膝から頽れそうになる。
 子どものように泣きわめいて、うずくまってしまいたい。後悔のないように生きると決めていたのに、何をどれだけ成し遂げたら後悔がなくなるのかわからなかった。
 この孤独を。
 この、さみしさを。
 自分以外の人間は、どうやってやり過ごしているのだろう。
 誰かと愛し合うことができれば、寂しさは埋められるのか?
 恋しい相手とやらが出来れば、孤独は癒やされるのだろうか。
 恋ではなくとも、誰かに心を傾けることが愛なのだと諭されて、「愛している」という言葉を躊躇いなく口にすることができるようになった。かつては声に出そうとするだけで、罪悪感のあまり吐き気すら覚えたが、今は違う。
 けれど一方で、來人がいくら愛を告げても、同じものを返されることはないのだと気づいていた。
「お前が囁く張りぼての愛なんて、誰も欲しがってはいないのさ」
 いつだったか、潜はそう嘲笑った。
 來人は眠る男の顔を眺めた。
(だったらキミは、どんな愛が欲しいんだ)
 独白に答えは返らない。
 車窓から差し込む街灯の光が、蒼白む瞼を撫でるように過ぎ去っていった。



 『災害』の後しばらくは幻肢痛に悩まされた。
 喪ったはずの指先が痛くてたまらない。病院のベッドの上で歯を食いしばり、ナースコールを押そうとして、肘から先に何もないことに気づく。
 鎮痛剤を打ってもらっても効果はなかった。本来ないはずの痛みなのだから当然だ。
 ぐったりと枕に沈み込み、天井を見上げながら、潜は腱鞘炎になりかけた時のことを思い出した。小学校に上がる前だったか、鍵盤を叩くたび手首に痺れるような痛みが走るようになったのだ。
 ピアノを弾くと手首が痛むことを恐る恐る告げると、母親は怒りに任せて潜の頬を打った。彼女が潜を罰する時は決まって頬を打つ。指や腕はもってのほかで、足だってペダルを踏むために大切にしなければならない。その点、息子の顔なんて彼女にとってはどうでもよかったのだ。ピアノを弾くためには必要ではないから。
「どうしてもっと早く言わないの。ピアノが弾けなくなったらどうするつもり?」
 それは息子を案じての言葉ではなく、潜の腕が使い物にならなくなることを危惧しただけだったのだろう。練習のし過ぎで腕を故障し、挫折するピアニストはごまんといる。どれほど才能があっても、怪我のせいで続けられなくなることはあるのだ。
 その時の怪我は軽症で、すぐに練習を再開できた。
 それ以来、母親に命じられて、潜はアスリートのような生活を送った。食生活に気を遣い、身体を鍛え、セルフケアする方法を学んだ。
 しかしそんな努力も一瞬で無に帰したわけだ。
 潜が病院に運び込まれてから、母親が見舞いに来ることは一度もなかった。
 『災害』についてはJPNでも大々的に報じられただろうし、潜が入院しているという報せは病院から行っているはずだ。
 けれど、ピアノを弾けない息子など彼女にとってはなんの価値もないのだろう。
 母親の中で、潜は死んだも同然に違いない。
 そんな母親に対する失望もなかった。本当は薄々気がついていたのだ。潜は母親にとって都合の良い人形でしかなかった。壊れた人形は捨てられるのが道理だ。
 医師の勧めに従い安物の義手を装着してからは、幻肢痛の頻度は格段に減った。
 しかし時折、ないはずの腕が焼けるような痛みに苛まれる朝があった。
 それはきまってピアノを弾いている夢を見た夜明けのことだ。
 静かに雪の降る夜の底で、潜はピアノを弾いていた。
 凍てつくような寒さも、潜の指を止めはしない。なめらかに鍵盤の上をすべり、紡がれた旋律は闇に吸い込まれていく。
 すぐ傍らに、金髪の青年が立っていた。
 若葉のように瑞々しい、美しい瞳が潜を見つめている。
 顔を上げなくてもわかる。
 彼はきっと、優しい微笑みを浮かべているのだろう。あの夜のように。
「     」
 名前を呼んだ。
 その瞬間、両腕が炎を上げて焼け落ちていく。
 赤々とした炎は瞬く間に燃え広がり、いつしかピアノも燃え尽きていた。あのひとも黒く炭化して闇の中に消えた。残ったのは、腕をなくした燃え滓のような己だけ。
 かみさま、と喉元に込み上げた悲鳴をどうにか飲み込む。
 神などいない。
 いたとしても、それは潜からすべてを奪っていった。祈る言葉などあるものか。
 神が目の前に現れたら、殺してやりたいくらいだ。

「……潜?」

 誰かが囁く声がして、それに引きずられるように夢は途切れた。
 瞼を押し上げると、まずは無機質な天井が見えた。消毒薬の匂い。カーテンレールに区切られたベッド。吊るされた点滴。嫌というほど見慣れた病室の景色だ。
 気配を感じて視線を巡らすと、傍らに人影があった。ベッドのすぐ傍に用意された椅子に誰かが腰掛けている。視線を上げて、目を凝らした。
 木洩れ陽を紡いだような金の髪に、鮮やかな新緑の瞳。
 フレデリク。
 咄嗟に名前を呼ぼうとして、しかし声にはならなかった。唇は乾いてひび割れている。錆びた鉄の味がした。心臓の音が早鐘のように頭蓋に響く。
 どうして、と瞬きを繰り返すうちに、長い夢から醒めたのだと気がついた。
「……來人」
 この男はフレデリクではない。
 髪と瞳の色が同じだけで、まるで似ていない。
 いくら寝惚けていたからと言って、見間違えるなんてどうかしていた。
 潜は苛立ちを抱えたまま眉を顰めた。そもそもどうして病院に運ばれたのだったか――思考を巡らせるうちに己の失態を思い出し、ますます不愉快な気分になる。
 ライブの最中に古傷が疼いて、それをよりにもよって來人に気取られたのだ。
 パフォーマンスは最後までやり遂げたはずだ。あのまま寮に帰らず、どこかで適当に休むつもりだったのに、この男のせいでとんだ醜態を晒してしまった。
「大丈夫か? ずいぶん魘されていたが」
 來人の指先が潜の額に触れる。
 そのまま汗で額に張りついた前髪を撫でつけるようにして払われた。
「熱は下がったみたいだな」
「……余計なことをしてくれたね」
 幻肢痛はコントロールできない。
 どういうタイミングで発症するのかは潜自身にもわからなかった。
 だが、もう長年のことで慣れているし、自分だけで対処はできたのだ。むしろ医者に見せたところでどうにもならない。鎮痛剤はまるで効かないから手負いの獣のように息を潜めてやり過ごすだけだった。
 來人がしたことは、潜にとっては迷惑なだけだった。
 嫌味を言ったところでこの男には響かないだろうが、また同じことをされてはたまらない。次からは放っておいてくれと釘を刺すと、來人は苦笑を浮かべてみせた。
「そうは言ってもな。具合が悪いのに気づいたら、心配はするだろう」
「それが迷惑だと言ってるんだ。お前に心配される謂れはないよ」
「キミを心配するのに理由が必要なのか?」
 來人は困惑したように眉根を寄せた。
 馬鹿馬鹿しい。胸の内で吐き捨てて、潜は己の右腕を伸ばした。
 紛い物の腕は持ち主に従順だった。
 先ほどまでの痛みが嘘のようだ。
 いま使っている義手は最新式のオーダーメイド品で、生身の腕とほとんど同じように動かせる。その分こまめなメンテナンスを要するが、食事をしたり、ハンドルを握ったり、あるいはステージの上でダンスをする際にも不自由は感じない。
 だが、どれだけ本物に似せて作っても、これはただの模倣品だ。
 人並みにピアノを鳴らすことはできても、かつてのように自在に鍵盤を操ることはできない。だから、潜はこの先もう二度とピアノに触れるつもりはなかった。
 この男と『愛の夢』を連弾する日など来ることはない。
 潜は身を起こしてベッドから降りた。
 手を伸ばし、來人の頬に触れる。
 指先には高性能のセンサーが埋め込まれて、やわらかな輪郭と体温は、数値として脳に伝達される。
 だがこれは、ぬくもりと呼べるだろうか?
「――潜?」
 こちらを見上げる來人の瞳には戸惑いが浮かんでいる。
 困惑と、かすかな警戒。
 潜は喉奥で笑った。いつもは傲岸不遜な男が、どこか不安そうに自分を見る。それがひどく滑稽だ。きっと、触れられることに碌な思い出がないのだろう。
 たとえば、無理をして作った『恋人』に、こんなふうに迫られたことがあったのかもしれない。
「哀れだね、來人」
 期待には応えてやらなければ。
 そう決めて、顔を近づける。
 ぎくりと体を強張らせて、來人は息を呑んだ。視界の端に、戸惑ったように揺れる瞳が映る。穏やかな風に梢を鳴らす新緑の匂いを思い出した。
 羽のような軽さで、唇を奪う。
 薄い皮膚に触れてみたところで、ぬくもりと呼べるほどの熱は感じられない。
 少しかさついた、やわらかな感触があるだけだ。
「……ハハ、酷い顔」
 だが、ほんの一瞬の交接は多少なりとも嫌がらせにはなったようだ。
 舌も差し込まない児戯のような口づけさえ、來人の顔を強張らせていた。
 荒野の果てで誘惑に耐える聖職者にでもなったつもりだろうか。
 ようやく溜飲が下がった心地がして、潜は微笑んだ。
「今夜は帰らないから」
 そう言い捨てて病室を後にする。
 呼び止める声はなかった。
 軽やかなステップを踏むようにして、潜は夜の街へ向かった。



 潜が寮に戻らないのは、よくあることだった。
 むしろ部屋に戻ってくる夜のほうが珍しいかもしれない。だから、ライブ後にふらりとどこかへ出かけたようだ、という方便を誰も疑わないだろう。
 先に帰寮した太緒から届いたメッセージによると、潜はいつもの夜遊び、來人は急な仕事が入ったのでそれを片付けてから帰る、ということになっているようだ。
 もちろん可不可や楓には生行から報告が行っているだろうが、他の班のメンバーにまで余計な心配をかける必要はない。
 家族でもない來人は詳しい説明を聞かされなかったが、病院に搬送された時点で潜の容体は安定していた。目を覚ましたら帰っても問題ないだろうと言われ、大事はなさそうだと生行に報告した。潜が目を覚ましたら寮に連れ帰るつもりでいた。
 しかし、嘘から出た真実とでも言えばいいのか、目を覚ました潜は本当にどこかへ出かけてしまった。
「今夜は帰らないから」
 そう言って病室を後にした潜を、引き止められなかった。
 退院の手続きも取らずに抜け出した潜の代わりに病院の窓口でお叱りを受けたが、まあそれも些細な話だ。
 自動運転のタクシーが夜の街をすべるように走る。
 後部座席から街並みを眺めながら、來人は無意識に唇を撫でた。
 
「……ハハ、酷い顔」

 病室で突然キスをされた。
 憐れむようなその微笑みを見て、緊張のあまり息を詰めていたのだと気づく。
 よほど間の抜けた顔をしていたのだろう。
 触れるだけのキスなんて、別に初めてというわけでもないのに。
 自分は普通の人間なのだと思いたくて、過去に何度か『恋人』を作ったことがあった。作ったと言っても、単に好きだと告白されて、それを受け入れてみただけの話だ。そして『恋人』に請われるままに手を繋ぎ、肩を抱き、キスをした。熱っぽい視線を向けられて、嬉しいと告げられて、呆然と立ち尽くしたことを覚えている。
 何が嬉しいのか、まるでわからなかったからだ。
 互いの熱を分け合う行為に、何の意義も見出せなかった。二人でいることに喜びはなく、逢瀬の時間が終わるとほっとした。会いたいと言われることを重荷に感じ、だんだんと理由をつけて約束を反故にすることが多くなった。そのうちに、相手のほうが耐えきれなくなって別れを切り出すのが常だった。
 なんて薄情で不実な人間だろうか。
 そう後悔しながらも一度の失敗では諦めきれずに、來人は同じ過ちを繰り返した。
 そんな愚かな過去のことなどすっかり忘れたつもりでいたのに、あの一瞬の口づけのせいで、苦い記憶が蘇った。
 子どもが読むような童話でさえ、キスは呪いを解いてくれるものとして語られる。だが、來人にとっては口づけこそが呪いだ。
 寮に戻る頃には午前三時を過ぎていた。さすがに皆寝ているだろう。とはいえ夜鷹が店から戻るには少し早い時間だ。
 來人は静かな足取りで廊下を歩き、すぐに足を止めた。リビングの入り口から灯りが漏れていたからだ。寮の照明はすべてAIで管理されているから、リビングが無人であれば自動的に消灯するはずだ。
 リビングを覗くと、案の定ソファに腰掛けた生行がタブレットを弄っていた。來人の気配には気づいているのだろうが、顔をあげようともしない。
「ただいま。まだ起きていたのか」
「悠長に眠れるわけがないでしょう。――百目鬼さんは?」
「すっかり元気になって、どこかへ出掛けて行った。今夜は戻らないらしい」
 生行はようやく顔を上げた。
「はあ? お前は何のために付き添いしてたんだ」
「そうは言うがな、潜が素直に俺の言うことを聞くわけがないだろう」
「開き直るな」
 呆れたように嘆息して、生行はソファから立ち上がった。
 マネージャーとしての責任感から二人の帰りを待っていたのだろう。しかし肝心の潜がいないのだから、生行が呆れるのも当然かもしれない。
「俺はもう休みます。朝になったら夏焼くんや主任にきちんと報告してください。特に夏焼くんはすごく心配してましたから」
「わかってる。おやすみ、生行」
 返事はなく、生行は黙ってリビングを出て行った。
 シャワーを浴びて自室に戻ると、幾成が静かに眠っていた。
 部屋着に着替えてベッドに潜り込む。泥のような疲労感が体に重くのしかかったが、そのぶん目は冴えていた。
 少しでも眠ろうと瞼を閉じれば、間近に見えた黒い瞳が脳裏に浮かんでくる。
 戯れじみた口付けよりも、冴えざえと夜を映したような瞳に気を取られていたのかもしれない。
 潜の眼差しは、心の奥底に閉じ込めていたどす黒い感情を暴いていく。
 病室を抜け出す背中を呼び止めることもできなかったのは、口づけに驚いたからでも、傷ついたからでもない。ずっと抱え込んでいた怒りや嫉妬が溢れ出しそうだったからだ。
 潤んだ瞳で「好きだよ」と言われる度に。
 手を繋いで、抱きしめてと請われる度に。
 そうやって誰かを好きになれる人間を心底羨ましいと妬んでいたのだ。
 愛を抱ける人間になりたかった。正しく恋を受け取って同じものを返せる人間なら、世界から爪弾きにされたような心細さを感じることもなかったはずだ。
(――なんて、我ながら拗ねた子どもみたいだな)
 天井を見つめながら、苦く笑う。
 潜の言葉はいつだって鏡のように、來人の弱さを映し出す。
 張り付けた笑顔の下に必死で隠した醜さを暴かれてしまいそうで、最初は彼のことが苦手だった。いたぶるように傷つけられて、憎しみさえ覚えた。人を愛せない自分が、人を憎むことはできるのかと自嘲したものだ。
 けれど一度すべてを曝け出してしまえば、毒のような言葉を恐れる理由もなくなる。
 潜が來人に突っかかるのは、それだけ來人のことを見ているからだ。その執着の理由はわからないが、恋や愛ではないことだけはわかる。潜の眼差しは、今まで來人に愛を告げてきた人たちとはまるで違った。
 それがどれだけ嬉しいことか、潜にはきっとわからないだろう。
 恋ではなくても誰かと繋がることができるかもしれない。そう思えたことは、來人にとっては紛れもなく希望だった。
(潜が帰ってきたら、話をしよう)
 キミのことが知りたい。
 どうして俺を壊したいのか。
 キミが本当は何を求めているのか。
 それを俺は与えられるのか。
 尋ねたところで、はぐらかされるだけかもしれない。
 けれど、答えを知りたいなら諦めずに足掻き続けるしかない。終着点がどこだとしても、それまでにできる限り足掻いておきたかった。
 いつか二人で『愛の夢』を弾くために。



 適当な巣穴を選んで夜を明かした。
 潜の気を引くために奉仕したがる人間などいくらでもいる。夜中に突然訪れた潜のために食事と衣服とベッドを用意して、傅いて褒美を待つような愚かな子羊たち。
 いい子だね、と顎を撫でてやるだけで、感極まって足もとに縋りつく。犬であれば千切れるほど尾を振っていただろう。
 その献身を愛らしく思うこともあれば、煩わしいと思うこともあった。いずれにせよ、潜にとっては義手と同じ、替えの利く道具でしかない。愛を囁くのも、施しを与えるのも、関節をなめらかに動かすために油を差すようなものだった。
 愛とは欲望に過ぎず、しかし欲望は生きていくための糧でもある。
 満たされたいという欲望は、原始的で、単純で、人間らしい。それを恋と名付けて美しく飾り立てたところで、一皮剥けば同じこと。
 その瞳に自分だけを映してほしい。
 口づけて、抱きしめてほしい。
 あなたの特別になりたい。
 どんなに綺麗な言葉にしたところで、それは他人の心や体を侵略したいという支配欲に過ぎない。一部であれ、すべてであれ、他者を欲しがるとはそういうことだ。
(まあ、いじらしいとは思うけれどね)
 潜は己に向けられる欲望を操り、利用しながら生きてきた。
 それを悪行だとも恥ずべきことだとも思わない。利用するだけではなく、愛を与えて、夢を見せてやった。向けられる愛をただ拒絶してきたあの男とは違う。
「……」
 目が覚めた時には日が暮れていた。
 スマートフォンには千弥からのメッセージが何件も届いていた。
『大丈夫?』『元気?』『はやく帰ってきてね』
 健気なものだと呆れつつ、アプリを閉じる。既読がついたことで、潜がメッセージを読んだことは伝わるはずだ。
 このまましばらく寮に帰らなくてもいいかと思っていたが、この調子だと一度戻らなければ面倒なことになりそうだ。また失踪したと騒がれて捜索でもされたら、そのほうが煩わしい。
 ねぐらから寮まではさほど遠くない。車を手配するのも面倒だったので、潜は歩いて帰ることにした。
 外へ出ると、しんと冷たい冬の空気が頬を撫でた。墨を流したような暗い空から、ひらりひらりと白い雪片が降ってくる。傘を差すほどの雪ではなかった。地面に降り積もることもなく、すぐに融けてしまうだろう。
 雪の夜は静かだ。
 外の音が吸い込まれて、世界が無音になる。
(「世界中から隠れて、ピアノを弾きたいな」)
 歩きながら、遠い夜を思い出す。
 すべてを失うとも知らずに、ささやかな幸福に胸を躍らせていた夜。

「潜!」

 名前を呼ばれて、足を止めた。
 振り返るまでもなく聞き覚えのある声だ。よく通る、自信に満ちた声。それでもつい振り返ってしまったのは、思い出に浸っていたせいだろうか。
 潜と目が合うと、來人は明るく笑った。早足で潜の隣にやってくる。
 金の睫毛に雪が積もっているのが見えて、思わず息を呑んだ。
「おかえり。千弥が心配してたぞ」
 立ち竦んだ潜には気づかず、來人は微笑んだ。昨日の晩のことなど忘れているかのような屈託のなさだ。もっと気まずそうにしていると思っていたのに。
(つまらない男)
 ちらりと視線をやると、來人は買い物袋を持っていた。葱だか何だか、所帯じみた中身が見え隠れする。こんな夜中に散歩かと思えば、どうやらスーパーに出かけていたらしい。
 潜の視線に気がついて、來人は荷物を掲げてみせた。
「そろそろキミが帰ってくるころだと思ってな。ラーメンの具材を買ってきた」
「僕のために作るみたいなポーズやめてくれる? 頼んでないし、僕は食べない」
 心外とでも言いたげに、來人は瞠目した。
「どうして」
「逆にどうして僕が食べると思うんだよ」
 この男と二人きりで話していると心底疲れる。
 うんざりとした気分で、潜は寮へ向かった。
 嫌がらせにキスをしたくらいじゃ、まるで割に合わない。こうやって話しかけてくるということは、それだってたいしたダメージになっていないようだし。誤算もいいところだ。
「潜の好みに合わせて、塩ラーメンにしたんだが」
「勝手に僕の好みを捏造するな」
「だが、きっと気にいると思うぞ。奮発して鯛と魚介で出汁を取って――」
「その不快なお喋りをやめないなら、もう一度キスして口を塞いであげようか」
 潜が睨みつけると、來人は眉尻を下げて困ったように笑った。
「それは遠慮しておこうかな。キミとの距離は、今のままが心地良いんだ」
 呆気に取られて、思わず足を止めてしまった。
 どうした? と振り返る來人を、じっと見つめる。
 この男はやはりどうかしている。だが、このままでは言い負かされたようで癪だ。
 溜息を吐いて、歩き出す。潜を待つように立っていた來人の襟元を掴んで、力任せに引き寄せた。
 そのまま唇を合わせる。
 昨日よりもゆっくりと、感触を確かめるように口づけた。冷え切った唇にじわりと体温が滲んでいく。舌を入れなかったのは、そういう気分じゃなかったから。
 どさりと買い物袋が地面に落ちる音がした。
 ハ、と吐息で笑いながら顔を離す。ざまあみろ。
「酷い顔」
 にこりと笑って、立ち尽くす男に背を向けた。そのままひとりで歩き出す。
「まったく、キミってやつは……」
 ぼやくような來人の声に胸がすくようだった。
 この男にとって心地良い存在になるなんてごめんだ。それなら來人の心臓に深く突き刺さるような棘でありたい。優しい思い出などではなく、いつまでもじくじくと痛む傷として、この男の記憶に残るほうがずっといい。
『愛の夢』には程遠いが、自分たちには似合いだろう。

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世界の果てまで

クラスメイツ雪風カドスト読了前提の來潜。
#エイトリ #來潜


 潜は基本的に他人にペースを乱されることがない。
 自分が先に、相手のペースを乱すからだ。情報を手に入れるための手駒はたくさん持っているし、相手の行動を読むのもたやすい。
 それなのに、この男だけはいつも例外だった。
「……來人」
 義手の定期メンテナンスの帰りにお気に入りのバーに立ち寄ると、カウンターには嫌というほど見知った姿があった。陽の光を紡いだような金髪に、すらりとした体躯。オーダーメイドのスーツを嫌味なく着こなす、いかにも貴公子然とした男。
 レッスンの後、投資家としての仕事があるのだとか言っていたのは記憶していたが、まさかこんなところで鉢合わせるとは。
「潜、奇遇だな!」
 トカイの貴腐ワインは諦めて店を出ようと踵を返しかけたのだが、わずかに手遅れだったらしい。無駄によく通る声で名前を呼ばれ、潜は舌打ちした。
「せっかくだから一緒に飲もう。キミが好きそうなワインもあるぞ」
「……知ってるよ」
 なにせ常連だ。
 はあ、とため息をついて、潜はカウンターに腰掛けた。美酒を愉しむために訪れたのだ。よく考えたら來人のせいでそれを諦めるのも業腹である。
(この男のことは無視しよう)
 そう決めてカウンター席に座り、バーテンダーに「いつもの」と告げた。
 わざわざ二つ席を空けたのに、來人はお構いなしだった。飲みかけのグラスを手に、潜の隣りに座り直す。およそ遠慮というものを知らない男なのだ。潜が不愉快さを隠すことなく眉を顰めてみせても、まったく気にしていない。
 この店には楓や添も連れてきたことがあるし、彼らにも口止めはしなかった。
 確かに他の人間に紹介してもいいとも言ったが、よりによって來人に教えたのはどちらだろうかと考えていると、來人自身があっさり犯人の名を明かした。
「潜もこの店によく来るのか? 俺は先日、添に教わって雪風と来たんだ」
 添のほうか。來人との確執を察していないわけでもないだろうに。先日ワインを少し飲ませたことへの意趣返しあたりかもしれない。しかしながらワインに罪はない。不快感は美酒で流し込んでしまえとばかりに、潜はグラスを傾けた。
「いい飲みっぷりだ」
 すぐによくわからない賞賛が飛んでくる。
 來人のほうも既に気に入りの銘柄を見つけたようで、どうやらボトルをキープしているらしい。このバーの存在がHAMAハウス中に広まるのも時間の問題だろう。
 ほとぼりが冷めるまで、別の店に通うのもいいかもしれない。
「そういえば、明日の午後空いてるか?」
「……仮に空いてたとしても、それをお前に言うと思う?」
 質問には答えずそう返すと、來人は叱られた犬のような顔をした。
 まさか、潜が「空いてる」と答えるとでも思っていたのだろうか。それでよくもまあ「キミのことを理解したい」などと言えたものだ。
 來人は顎に手を当てて、深刻そうな顔をした。
 いかにもシリアスな雰囲気だが、おそらく碌でもないことしか言わないだろうな、と潜は経験則から予想した。
「実は好きなSF小説が映画化されて、その試写会のペアチケットを貰ったんだ。それが明日の午後なんだが……」
「お前と映画なんて、絶対に嫌だね」
「だが、実話が基だと言われる地底人との邂逅がテーマの映画で――」
「どうしてその映画に僕が興味を持つと思うわけ? チィツァに振られのたなら、プルシュとでも行きなよ」
 にべもなく跳ねつけると、來人はむっと顎を引いた。
「確かに、主任には出張が入ったからと断られたし、幾成にも見せてやりたいが、俺は潜と親交を深めたいんだ」
「僕は深めたくない」
 それ以前に、そんな怪しげな映画を観て深まるのは親交ではなく心の溝だろう。
 仮に恋愛ができる人間だったとしても初デートで振られるタイプだろこいつ、と胡乱な眼差しを隣りに向けたが、当の本人は真剣な表情で話しを続けた。
「先日、雪風と研修旅行に行ったんだが、一緒に出掛けることで相手を理解するきっかけになると学んでな」
「だから僕と出かけたら、僕を理解できるかもって?」
 馬鹿らしい。
 潜は肩をすくめた。呆れて、嘲笑すら浮かばない。
 空になったグラスを押しやって、潜は頬杖をついた。バーテンダーが静かにグラスを片付けるのを目で追う。
「世界の果てまで二人で旅しても、お前に僕は理解できないよ」
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面影は遠く

研修先のパリでばったりサロモンと出くわす來潜(非恋愛)。無い話。潜以外がずっと勘違いしてる。Tempo Lubatoの前段のつもりで書いたけど蛇足かも。
#エイトリ #來潜


 今回の研修は潜とペアだった。
 行き先はフランスだ。來人も何度か訪れたことがあるし、潜にとって欧州は第二の故郷のようなものらしい。互いにいまさらガイドなど不要なのだが、そのくらい旅慣れた人間の目線で視察をしてくるように、というのが社長命令だった。
 端から見れば折り合いの悪い二人ではあるが(そして実際に潜は何かと難癖をつけてくるのだが)そもそもが寮では同室だ。二人きりの旅行もそれほど気詰まりなものではなかった。
 もちろん和気あいあいとはいかなかったが。
 現地ではガイドがついているし、観光ではなく研修である。スケジュールはきっちり決まっていて、レポートも提出しなければならない。
 少し目を離すと姿をくらまそうとする潜のお目付け役も任されていて、いざ蓋を開けるとなかなか不自由な旅だった。しかしその不自由さも新鮮ではある。
 二日目の午前はノートルダム大聖堂に立ち寄ることになっていた。來人が生まれる十年以上前に焼け落ちてしまったという大聖堂は、今ではすっかり修復されていて、火災の痕跡を感じさせない。荘厳な雰囲気にはさすがに圧倒された。
 あの潜ですら、どこか感じ入るように聖堂を見上げていたくらいだ。
 立ち寄った際に、たまたまオルガニストの練習に立ち会えたのも幸運だった。ガイドによると火災の前とまったく同じ音響ではなくなってしまったという話だが、深く厳かな音色は來人の胸を打った。
 壊れてしまったものを完全に復元することは不可能だ。
 それでも、喪失を惜しんで取り戻そうとするのは、人間の業であり、同時に祈りなのだろう。
 そんな感慨に耽っていると、いつの間にか潜の姿が見えなくなっていた。
(あいつはまた……)
 気ままな同行者に苦笑が浮かぶ。
 來人はガイドに断りを入れて、潜を探すために大聖堂の外へと出た。
 辺りを見回すと、柱の陰から見覚えのある黒衣の裾がひらめいている。潜だ。
 気づかれて逃げられないようにと足音を忍ばせて近づくうちに、かすかに話し声が聞こえてきた。どうやら誰かと一緒らしい。
『こんな場所で再会するなんて奇遇だね、クグリ』
『うるさい』
 潜の尖った声音に、來人は思わず足を止める。
 漏れ聞こえる会話は、フランス語ではなくドイツ語のようだった。
 旅先でも地元でも、潜は見知らぬ人間と気軽に話をするタイプだった。來人に対してはそっけないが、それ以外の人間には存外穏やかに話しかける。己が優位にあると示すように、あやすような話し方をするのだ。來人に対してさえ、こんな風に不機嫌さをあらわにすることは滅多にない。
 柱の陰になっていて潜の姿は見えないが、彼が話している相手は見えた。
 茶髪に青い瞳の、どこか気怠げに笑う男。
 会話を聞く限り、旧知の仲なのだろう。しかし潜が気安さゆえに取り繕わないのか、本当に邪険にしているのか、來人には判断しかねた。
 わずかに迷ってから、來人は意を決して物陰に近づいた。
『失礼。俺の連れが何か?』
 ドイツ語も日常会話程度なら何とかなるだろう。
 そう考えながら話しかけると、男は驚いたように來人を見た。潜も弾かれたように振り向く。
「來人……」
 苦々しげに潜が呟く。
 見知らぬ男は來人の顔をまじまじと見つめてから、潜に目を遣って、もう一度來人を見た。
 ワオ、と面白がるように口角を上げる。
 ニヤニヤと意地悪く笑う様は、なんとなく潜に似ていた。面立ちはさほど似ていないのだが纏う雰囲気は兄弟のようだ。
『へえ……、君がクグリの第二奏者(セコンド)ってわけか』
『――二番目(セカンド)?」
『違う』
 潜が間髪入れずに否定する。
『この男はそんなのじゃない』
 不愉快さを隠そうともせずに、潜は言った。
 そんなの、が何を指すのかまるでわからない。
 内心困惑する來人を余所に、男は「ふうん?」と意味深に笑う。
 潜は舌打ちをしてから、來人の手を取った。
「行こう、來人。もうここには用はないんだから」
「いいのか? 知り合いなんだろう。午後の予定ならキャンセルしても構わないが」
 旅先で古い知り合いに会うという偶然もそうそうないだろう。スケジュールを変更しても、事情を話せば可不可や主任もわかってくれるはずだ。しかし潜はにべもなく吐き捨てた。
「知り合いでも何でもない。さあ、行くよ」
 背に腹は替えられないとでも言うように、來人の腕を掴んだまま潜が歩き出す。
 戸惑いながらも、來人も後に続いた。
『じゃあね、タッジオ。また、どこかで』
 笑みを含んだ声が後ろから聞こえる。
 潜は振り返らなかった。
 
 ガイドと合流して、移動用に手配した車に乗り込む。車は次の目的地へと向かって走り始めた。
 後部座席に並んで座りながら、二人の間には何とも言えない沈黙が横たわっていた。潜はつまらなそうに車窓を眺めている。ひとつため息を吐いてから、來人は同乗者に視線を向けた。
「なあ、潜。本当によかったのか? ずいぶん親しそうだったのに」
「しつこいな、お前も」
 うんざりしたように、潜が振り向いた。
 その瞳の奥に哀しみが揺れているように見えて、來人はぎくりと身をこわばらせた。
 これまで自分に好意を伝えてきた相手も、同じように哀しげな瞳をしていた。
 ――キミのことは嫌いじゃない。だけど、その気持ちは受け取れない。
 そう謝ると裏切られたような顔をされた。
 どうして、と涙に揺れる瞳を見るたびに罪悪感でいっぱいになった。どうしてと言われても同じものを返せないからだ。けれど、説明したところで理解して貰えないことも学んでいた。
 その苦しさを思い出す。
「……」
 見つめ合っていたのは、ほんの一瞬だった。
 瞬きをするうちに、潜はいつものように皮肉めいた微笑を浮かべていた。夜の海に似た瞳に哀しみの色はなく、冷たく輝く星のように静かだ。
 傷ついて見えたのは、錯覚だったのだろうか?
(いや……)
 來人は胸のうちで否定する。
 見間違いではないはずだ。潜の中の失望と哀しみを確かに垣間見た。けれど、それは自分に向けられたものではなかったのかもしれない。
 ――君がクグリの二番目(セコンド)?
 再び車窓を眺める潜を目で追いながら、名前すら知らない男の言葉を反芻する。
 自分が二番目(セコンド)だとしたら、他に誰か一番目(プリモ)がいたということだろうか。その『誰か』の面影を來人の中に見ていたのかもしれない。
(尋ねたところで答えてはくれないだろうな)
 潜のことをもっと理解したいとは思っているが、心のやわらかなところまで暴き立てたいわけではなかった。彼との間に欲しいものは信頼で、信じてもらうためには、相手を信じるしかない。
 冴えた月のような横顔には、控えめに微笑んでいた少年の面影などなかった。けれど、潜の記憶にもあの日の思い出は残っているらしい。それならば、いつか再び手を取り合う日も来るだろう。
 楽観的だと笑われるのかもしれないが、それはさほど遠くない未来のように思えた。
「ワイナリー、楽しみだな」
 次の目的地は潜がリクエストしたワイナリーだ。
 少しは機嫌を直してくれるといいが。
 そう思いながら声をかけると、潜は呆れたような顔で何か言いかけて、結局面倒になったのか黙って肩をすくめた。

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Tempo Lubato

暗くて辛気くさい來潜(順不同・非恋愛)。軽めの性描写あり。AロマAセクの來人さんがひどい目に遭う話。
#エイトリ #來潜



「愛のないセックスってやつをしようよ」
 どろどろに煮詰めた砂糖のように甘ったるい声で、潜が囁いた。
 研修として訪れたパリの夜。それぞれ部屋を取っていたはずが、手違いでツインになっていた。もともと寮では同室の相手だ。小さなハプニングを気にすることもなくチェックインし、片方のベッドに腰掛けて持参した小説を読んでいた。
 シャワールームから戻ってきた潜はナイトガウンだけを纏ったまま、來人のベッドに乗り上げた。手にした小説を取り上げてサイドボードに放る。非難する間もなく、そのままベッドに押し倒されていた。
 來人は軽く瞠目して、己の上に乗る男を見上げた。
 義手の重さなのか、潜は見た目よりも重量があった。とはいえ押し除けられないほどの重さではない。しばし逡巡して、來人は抵抗をやめた。相手の意図が読めないので、まずは様子を伺うことにしたのだ。
 力を抜いた來人に、一瞬傷ついたような顔をしてから、潜はすぐに艶やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、來人。心配しないで。僕はお前を愛していないし、これからも愛さない」
 お前が、死ぬまで。
 冷たい手のひらがそっと頬に触れる。そのまま首筋をたどり、鎖骨を撫でてから、シャツの釦を器用に外しはじめた。
「……潜」
 名前を呼ぶと、目が合った。
 夜の海を写し取ったような瞳に、自分が映っている。そう思う間も無く、近づいてきた唇に己のそれを塞がれる。舌を差し込まれて上顎を舐められると、ぞくりと背筋が震えた。
 嫌悪感こそないものの、このまま流されるには困惑が勝った。潜の身体を押しやり、睨みつける。
「何が……っ、したいんだ、キミは」
「おや、最初に言ったはずだけど?」
 聞いていなかったのかい。出来の悪い生徒を諭すように微笑んで、潜の手がシャツの下へともぐりこむ。冷たい指先が蛇のように肌を這っていくのに眉を顰めると、ああごめん冷たかったねと上擦った声が囁いた。
「でもすぐに熱くなるから」
 その手を掴んで、來人は潜を見つめた。
「どうして、俺としたいんだ」
 こんな状態で理由を問うのもいささか間が抜けているかもしれない。そう思ったが、問い質さなければ話が先に進まない。
 潜は苛立ったように眉を顰めてから、目を眇めて來人を見下ろした。
「僕が壊してあげるよ、來人。……ずっとそう言ってるだろ」
「こんなことで、俺は壊されないよ」
 別に初めてでもないし、と胸中で付け加える。
 相手に期待させたくないだけで不能というわけでもない。『愛のないセックス』なんて、とっくの昔に経験済みだった。身体だけでもいいから、思い出を残してほしいから――そう縋られて、言われるがままに流されたことが何度かあった。
 結局いつも後悔だけが残るとしても。
 その懺悔が聞こえたわけでもないだろうが、潜は少し困ったように、あるいは痛みを堪えるように、曖昧に笑う。
「そうかもね。……だけど、君は確実に傷つく。自覚はないのだろうけれど」
 その傷がやがて罅となって、いつか粉々に砕けるかもしれない。そう呟く潜のほうが、どこか傷ついているように見えた。
 來人を使って自分を傷つけたいのかもしれない。
 突拍子もない考えが頭に浮かんで、そしてそれは妙に説得力があるように思えた。
「……それでキミの気が済むなら付き合うさ」
 何にせよ今までの相手とは違う。なし崩しに枕を共にしたとしても、潜は自分から離れていかないはずだ。その打算ゆえに、來人はひとまず流されることにした。
 目的を果たすまで、彼は去らない。それなら、こんな手段は無駄なのだと納得してもらうほうが早い。
 來人の返答をどう捉えたのか、潜は失意と嘲みの混じった眼差しを向けた。冷たい手が再び來人の肌を弄り始める。
「愚かだね、君は」
「……っ、」
 その手管に熱が高められるのを感じながらも、心は冷めていくばかりだった。身体の火照りとは裏腹に、砂でも噛んでいるような心地がする。
 愛があろうとなかろうと、セックスが來人を満たすことはなかった。恋愛と同じように、自分には楽しめないものだと痛感させられるばかりだ。
 たとえば、凪とツーリングに出かけたり、あく太をラーメン屋に連れていくほうがよほど充足感があった。
「僕としてる時に考え事なんて、随分と余裕だね」
 嘲笑と共に深く口付けられる。
 酸欠で思考が鈍る。夜の底へと溺れていくようだ。
 どこか他人事のように考えた。
 荒い吐息も、卑猥な水音も、啜り泣くような嬌声も、すべてが膜を隔てたように遠く感じる。掴んだ手首は冷たく、触れる肌は燃えるように熱い。ちぐはぐで、馬鹿らしくて、現実味に乏しかった。
 こんな風に互いに傷つけ合わなくても、心を寄せ合う方法はあるはずなのに。
(でも、どうやって?)
 断末魔のような掠れた悲鳴は、どちらのものだったのだろうか。
 それすらわからないまま、夜に沈んでいく。



 夜明け前の部屋は、暗く静かだった。
 潜は身を起こして、じっと目を凝らす。
 暗闇に徐々に慣れてきた目が、隣に眠る男の輪郭をどうにか捉えた。息をひそめて見つめていると、憎らしいほど安らかな寝息が聞こえてくる。
(あんなに苦しそうにしていたくせに)
 潜が気まぐれに情けを与えてやれば、感極まって泣く者もいるというのに。この男ときたら苦行に耐える僧侶のような顔をしていた。
 まあ、だからこそ押し倒してやったのだけれど。
「愛のないセックスってやつをしようよ」
 くだらない誘い文句を思い出して、自分で笑いそうになった。
 何事も嫌味なほど卒なくこなす男は当然のようにセックスも巧く、もっと初心なのだろうと想像していた潜は肩透かしを食った気分になった。
 愛のないセックスは嫌いじゃない。
 というより、潜は心を通わせた相手と寝たことがなかった。厳密に言えば心を通わせる相手が必要だと思ったことがない。他人と交わるのは相手を籠絡するための手段に過ぎず、同時に得られる肉体的な快楽はただの副産物だ。
 肉体と心は別々に動く。だから心の通わない相手と寝ても素直に快楽を享受できた。実際のところ、來人とのセックスも悪くはなかったように思う。
(だけど、想像よりつまらなかったな)
 本当はもっと嫌悪に歪む顔が見たかった。
 けれど來人は苦痛に耐えるような顔をしただけで、嫌悪のあまり吐いたり、拒絶して潜を突き飛ばすようなこともなかった。正直なところ拍子抜けだ。
 おそらくもっと心を込めて愛してやるべきだったのだろう。そのほうがこの男を傷つけることができた。
 心を込めて、たおやかに。
 鍵盤に触れる時のように優しく。
 瞼の裏に冬の夜を思い浮かべる。
 静かに降り頻る雪のように、雑音を掻き消してしまえればよかった。世界に二人だけになってしまったように。
 宵闇はいつしか日暮れの情景に移ろっていた。
 西陽射す部屋には真白いグランドピアノ。燃え尽きるような陽光を透かした金の髪が揺れる。柔らかく辿々しい音色のLiebestraume No.3――導くように音を添えてやれば、二人の心は混じり合ってひとつになるのかもしれない。
(馬鹿馬鹿しい)
 吐き捨てるように胸の内で呟いて、くだらない空想を打ち消した。
 たしかにそうやって愛してやれば、來人は深く傷ついたのかもしれない。その愛は、彼には知り得ないものだから。
 だが、この心と繋がっていたはずの指先は神に奪われて久しい。機械仕掛けの紛い物では、かつてのように鍵盤を操ることはできないだろう。だから共にピアノを奏でる日など二度と来ない。
 潜は手を伸ばして、眠る男の頬に触れてみた。
 その温もりも柔らかさも脳には伝わらない。ただ視覚の情報から触れたと理解するだけだ。
 は、と吐息で笑って、潜はベッドに倒れ込んだ。
 今は何も考えずに、ただ眠りたかった。
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哀れなるものたち

潜ノベル5話までネタバレあり。サロ潜?
サロモンに舌ピ空けてもらう潜の話。
#エイトリ



「空港で、君が来るのを待っているよ」

 あんな約束をしなければ、フレデリクは今もピアノを弾いていたのかな。

 舌を出して、と促されるままに従った。
 今の自分はきっと、飢えて皿を舐める犬のように哀れだろう。
 いい子だね、クグリ。耳元で甘ったるく囁く男の声が、どこか遠く聞こえる。
 瞼の裏には雪がちらついていた。田園の美しい緑に降りかかるように、やわらかな金の睫毛に積もる雪。
 あの夜、彼について行かなければ。
 待ち合わせの約束をしなければ。
 そもそも、彼の演奏に心奪われてプロフェッサーの誘いに乗らなければ。潜は母親の元で今も言われるがままにピアノを弾いていたのだろう。
 フレデリクとは、どこかのコンクールですれ違うこともあったかもしれない。彼がその美しい瞳に自分を映して微笑むことはなかっただろうけれど。
 あの日から何度も繰り返し思い描く『もしも』の世界。けれど、その想像には何の意味もなかった。壊れてしまったものは、元には戻らない。ただの逃避だ。そんなことはわかっていた。
「じっとしていて」
 サロモンの指と冷たい金属の先端が舌に触れる。
 返事をするのも億劫で、潜は目を伏せたまま動かずにいた。数秒後、鈍い痛みと共に、ニードルはあっさりと舌を貫通する。想像よりもずっとあっけない。
 身体を穿たれる痛みは、少しのあいだ潜を現実へと引き戻した。サロモンは手慣れた様子でニードルを抜き去り、舌には不恰好なファーストピアスが残される。
「しばらくは腫れて、固形物も食べられなくなるから」
 そう言い残して、サロモンは部屋から出て行った。
 ソファにもたれかかったまま、潜は天井を眺めた。
 今日は抱かれないのか、とぼんやりと考える。
 舌にピアスを刺したばかりで、キスができないからかもしれない。

 行くあてのなかった潜は、初めてピアスを空けてもらって以来サロモンの部屋に居候していた。寮の自室にも病院にも戻る気になれなかったからだ。
 時が経つにつれてピアスの穴は増え、その合間にサロモンに抱かれたり、サロモンが連れてきた男に抱かれたりした。あるいは、サロモンが見知らぬ男と抱き合っている時に、余興だと言ってベッドに引き摺り込まれることもあった。
「別にクグリを男娼にしたいわけじゃないけど」
 右耳に三つ目のピアスを開けた時、サロモンはそんなふうに言って笑った。
「生きていくには糧がいる。ピアノを弾かない君が糧を得るなら、こういう方法が手っ取り早いから」
 サロモンの言葉に悪意はなく、ただ事実を淡々と語っているだけだった。確かにそうだろうな、と潜は納得する。ピアノを弾くこと以外、何も知らずに生きてきた。手を傷つけるようなことは禁じられていたから、皿洗いひとつしたことがない。サロモンが働くような場末の酒場ですら雇ってはもらえないだろう。
「プロフェッサーも糧なの?」
 目の前の男が、師の愛人と呼ばれていたことを思い出す。何の気もなしに尋ねると、サロモンは気を悪くしたふうもなく「そうだね」と答えた。
「あの人は上客だったな、ピアノも弾かせてくれたし。でも今は駄目だね。すっかり気落ちしちゃって面倒くさい。なにせ目を掛けていた弟子を二人も喪ったもんだから」
 自分とフレデリクのことだ。
 そういえばプロフェッサーも一度も見舞いに現れなかったが、どうやら心労で寝込んでいたらしい。その事実を知っても、何の感慨も浮かばなかったが。
「まあ、次の子が見つかれば元気になるだろうけど」
 ――次の子。
 サロモンが続けた言葉の意味を咀嚼して、目の前が暗くなった。
「……フレデリクの代わりなんて」
 あの日以来、心では想っても口にできなかった名前を舌に乗せると、喉が震えた。サロモンは軽く目を見開いてから、哀れむように潜を見つめる。
「かわいそうなタッジオ」
 タッジオ、と呼ばれたのはひさしぶりだった。
「フレデリクは君の初めての恋だったんだね」
「……恋?」
 思いもよらない言葉に、潜は瞠目する。
 そんなこと考えたこともなかった。
 けれど、その言葉と共に、パーティの夜を思い出していた。人生で一番幸せだった気がする夜。
 フレデリクのようになりたくて、彼の瞳に映りたくて、彼と二人きりになりたくて、心を込めて弾いた。あの音色。魂を震わせた何か――あれが恋?
 サロモンはそれ以上は何も言わなかった。ただ哀れみだけを込めて、空けたばかりの潜の耳朶の傷を撫でていた。

 あれからまたピアスの穴は増えて、次はどこに空けたい? と問われた潜は舌に空けてもらうことにした。
 真新しいピアスは杭のように舌に刺さっている。
 微かに血の味がした。

 ――フレデリクは君の初めての恋だったんだね。

 誰もいない部屋で、サロモンの言葉を思い出しながら、潜は知らずに微笑んでいた。
(Nein)
 舌に刺さるピアスが邪魔で、言葉は音にならない。
 いいえ、ともう一度、ここにはいない男に答える。
 それから、この薄汚れた箱庭から出ていくことを決めた。生きるための糧を得る術は覚えた。ならば、この場に留まる理由もない。

(さて、どこへ行こうか)

 あの歓びと哀しみが、希望と絶望が恋ならば、あれは最後の恋だった。
 この胸に咲くことは二度とない。

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つま先に星を散らして

來潜(順不同・非恋愛)習作、手癖100%。Aロマの來人さん。メインストーリー後(区ノベのバレは多分ない)
 #エイトリ #來潜



(lieb,so lang du lieben kannst!)

 恋を知らないわけじゃなかった。
 これまでの人生で何度も向けられてきたものだから、どんな形をしているのかは、たぶん知っている。
 ただ俺が、それを持ち合わせていないだけで。
 好きです。愛してる。付き合ってください。
 ――差し出される言葉が、熱に浮かされたような眼差しが、俺には剥き出しのナイフのように思えた。あるいは、花束のようにラッピングされて喉元に突き付けられる、得体の知れない何か。
「ただ受け取ってくれればいいんだよ」
「それしか望まないから」
「同じものを返してほしいだなんて期待しないから」
 そう告げられて、そしてそれを馬鹿正直に真に受けて、告白してきた友人と交際したこともある。
 俺には恋がわからないけれど、付き合っているうちに相手を好きになれるかもしれないと期待もした。
 たとえば、手を繋ぐ時に胸がときめいたり、不意にキスをしてみたくなったり、その相手が他の誰かを見ていると苛立つようになるのかもしれない。ごく普通の人間らしく。
 けれど、それらの試みはことごとく失敗に終わった。俺は相手の期待に応えられず、やがて相手が耐えきれなくなって離れていく。その繰り返しだった。
「やっぱり、好きになってはくれないんだね」
 裏切り者を見るような目で、恨めし気に言われて、それきりだ。友人だと思っていたし、出来る限り大切にしていたつもりだった。けれど、それでは『恋人』失格らしい。
(受け取るだけでいいと言ったくせに)
 そう失望する自分にも嫌気が差した。
 あるいは恋ができないのは、死の予言のせいだろうかと考えたこともあった。
 遠からず死ぬことが決まっているから、恋をしても無駄だから、俺は誰かを愛せないのだろうか。そう考えるほうが楽だったのだ。けれど、予言のせいではないことは、俺自身が一番わかっていた。
 会社を立ち上げた時も、抗争をまとめた時も、「やろう」と思って出来ないことはひとつもなかった。すぐに飽きて放り出したのは事実だが、すぐに飽きてしまうくらい、大抵のことは俺にはたやすかったのだ。
 けれど誰かを恋しく思うことだけは、最初から出来なかった。だから途方に暮れた。自分の中に無いものは、どうやったって芽吹くことはない。
 俺は死ぬまで誰かに恋することはないのだろう。
 その事実を認めることは苦しかった。誰かと親しくなりすぎないようにして、苦しみから目を背けていた。死を宣告されたことすら、俺にとっては、愛せないことの言い訳になっていた。
 そして、転機が訪れる。
 Ev3nsとして活動するようになって、人生を共に生きる『戦友』のような相手を諦めなくていいと言われた。そのおかげで、俺も少しは変わることができたのかもしれない。
 けれど、たとえばその『戦友』が恋した相手と結婚したら、パートナーや家族よりも俺を優先してはくれないだろう。配偶者よりも特別な相手を作るのは、世間から後ろ指を差されるような不道徳な行いだからだ。少なくとも俺が生きているこの世界では、そういうことになっている。
 それでも、俺なりに心を傾ければ、恋ではないやり方で誰かを愛せるのかもしれない。
 そう思えたことが嬉しかった。



 観光区長の仕事以外にも、俺はいくつか会社を持っていて、その日は自分の会社の雑務で外に出ていた。幸いと言うべきか、俺が自分がいなくなってからも会社が存続するように前から根回ししていた。そのおかげで収監されている間も問題なく回っていたのだが、やはり自分で動いたほうが話は早い。
 Ev3nsの活動も軌道に乗りはじめているし、そろそろ会社を本格的に整理して、手放せるものは手放してしまおうか。それはかつてのような投げやりな気持ちからではなく、可能な限りEv3nsとしての活動に集中するためだ。いざという時に可不可たちの助けになるような事業はなるべく残しておきたいところだが、少しずつ売却していこうと決意する。
(だが話の持っていき方を間違えると、また生行に怒られそうだな)
 他人からはまるで身辺整理のように見えてしまうかもしれない。それを否定するには、俺には『前科』が多すぎた。
 そんなことを考えながら建物の外へ出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
 最後の打合せ場所は17区にあり、『BAR夢十夜』にも歩いて行ける距離だった。せっかくだから軽く飲んで帰ろうと思い立つ。十分ほど歩くと、馴染みのバーに着いた。
 ドアを押し開け、中に入ったところで軽く瞠目した。
「……潜」
 カウンター席に座っていた先客は、同室の男だった。
 癖のある銀糸の髪に、風変わりな黒い服。黄昏時の影のようにひっそりと佇む時もあれば、目を離せないような存在感を放つ時もある。
 ユーカーのジャック。
 見間違えるはずもない。
 ちらりとこちらを振り向いた潜は、一瞬だけ不愉快そうに顔を顰めてから、すぐに皮肉めいた微笑を浮かべた。
 俺と遭遇したことは気に食わないが、俺にペースを乱されたと思われるほうが度し難い、と言ったところか。何を考えているのかわからない男だが、俺に対する態度は一貫していて、そういう意味では案外わかりやすい。
「やあ、來人。いらっしゃい」
 店主である夜鷹さんはカウンターの向こうではなく、ボックス席のソファに寝そべっていた。この店ではごく普通の光景だ。そして挨拶を済ませた後は、睡魔に抗う気もないのか、瞼を閉じてしまう。これもいつものことだった。
 俺はボックス席の横を通り過ぎ、潜の隣のスツールを引く。
 潜の肩がぴくりと跳ねた。
 他にいくらでも席はあるだろうに、とでも思っているんだろうな。
 構わずスツールに腰掛けて、潜の手元を見る。
 長い指が支える綺麗に磨かれたグラスの中で、艶やかな紅が揺れていた。
「あ~、ご注文は?」
 どことなく朝班の添に似た雰囲気のバーテンダーに問われて、潜の手元を指差した。
「彼と同じものを」
「……は?」
 剣呑な応えを返したのはバーテンダーではなく潜だった。
 冷ややかな眼差しに、苦笑が浮かぶ。千弥たちには甘やかすような素振りさえ見せるのに、俺にはこれだ。
「別にお前だけの酒じゃないだろ」
「ふん……」
 これ以上会話を続ける気にもならないのか、潜は鼻を鳴らしてグラスのワインを煽った。空のグラスを突き出して、バーテンダーに向かって優雅に微笑む。
「同じものを」
「はぁい」
 バーテンダーはいささか軽薄な愛想笑いを浮かべて、俺と潜の前にワイングラスを差し出した。
 赤ワインは普段好んで飲むことも少ないが、潜が気に入っているくらいだから味は確かだろう。
 乾杯のつもりでグラスを掲げてみたが、案の定、潜には無視された。肩を竦めてひと口飲むと、芳醇な香りが鼻に抜ける。
「美味いな」
「当然だね。僕が夜鷹に仕入れさせたんだから」
「ああ、なるほど」
 このバーにはHAMAツアーズの同僚たちもよく訪れる。秘密主義なところのある潜は、他に行きつけのバーがいくつかあるようで、『夢十夜』にはあまり寄り付かない。その彼がわざわざ訪れるのは、目当てがあったからなのだろう。
「確かに夜鷹さんにねだりたくなるのもわかる」
「……」
 潜は返事をしなかった。瞼を軽く伏せて、己の手元を見つめている。
 グラスに揺れる紅を見ているのか、黒く塗った爪を見ているのか。
 バーの照明をきらきらと弾いて、つま先は星を散らしたように光る。白い指先と黒い爪は、彼が『壊れてしまった』と呟いたピアノの鍵盤を連想させた。
 俺は視線を上げて、その横顔をじっと眺めた。
 ぎこちなく微笑んでいた幼い少年の面影はどこにもない。あの日のことを思い出せなかったことへの言い訳のようだが、別人かと思うほどに彼は変わってしまった。災害によって腕を失ったことが原因なのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない。俺には知り得ないことだ。
 連弾をした日のすぐ後に、潜は母親と共に渡欧していた。再会の約束は果たされないまま、中学に進学した俺はあの『予言』を受けることになる。それからは一分一秒も無駄にしたくなくて、がむしゃらに生きていた。過去を振り返る暇などなかったから、一度一緒にピアノを弾いただけの幼い少年のことなど、記憶の片隅にすっかり追いやっていたのだ。
 潜が『災害』に巻き込まれて腕をなくしたのは、彼が十七歳の時らしい。彼の行方を調べるうちに、海外の古いニュースの記事を見つけた。しかし、それから潜がどこで何をしていたのかは判然としない。少なくとも簡単に探せるようなオープンネットには潜の足跡はなかった。
 フランツ・リストの生まれ変わりと讃えられた天才ピアニストは、腕と共にその将来を断たれて、表舞台から姿を消した。

(O lieb,so lang du lieben magst!)

 気がつくと、俺は潜の指先を捕まえていた。
 触れた指は冷たかった。
 魔法のように鍵盤を操っていた、あの幼い指ではない。けれど、この冷たい手が生行の命を救ってくれた。それは、俺を救ってくれたのと同じことだ。
 潜は弾かれたようにこちらを向いた。
 痛覚はないはずだが、激しい痛みをこらえるように、彼は薄い唇を噛みしめる。射干玉の瞳は怒りに燃えて、星のように煌めいていた。青褪めた顔をして、俺を睨みつける。
 火花が散る瞳の中には、ひとかけらの愛もない。
 天地がひっくり返ったって、この男は俺に恋をしないだろう。
 本当は愛してほしいのだと俺に期待してしまうことも、その期待が失望に変わることもない。
(そのことに俺がどれだけ安堵するのか、きっとお前にはわからないだろうが)
 潜は罅割れた仮面のような微笑を頬に貼り付けて、歌うように囁いた。
「穴が開くほど見つめてくれたお礼に、その唇にキスでもしてあげようか」
 どうやら捨て身の嫌がらせをするつもりらしい。
 俺は思わず吹き出した。そのまま笑いを堪え切れずに、少し噎せてしまう。潜は機嫌の悪さを隠そうともせずに舌打ちした。
「余裕だね、冗談だとでも思ってるのかな」
「本気でも構わないさ。キスされたくらいじゃ、キミが期待するほど俺は傷つかない」
「……強がりも大概にしたら」
「強がってなんかいない。だって、潜は俺に恋しないだろ」
「……」
「少し想像してみたが、たぶん鳥に啄まれるようなものだと思う」
 鳥は俺に恋しない。それならば、耐えがたいような苦痛にはならないのだ。触れ合っていても同じ想いを返せないことに、罪悪感を覚えずにすむのだから。
 愛もなく唇に触れるだけの熱なんて、ただの温もりに過ぎない。あるいは、彼の指先のように冷たいのだろうか。それはそれで悪くない気がした。
 蔑むように俺を睨んでから、潜はため息を吐いた。
 それから俺の脛を軽く蹴る。
「痛いな」
「……もう帰るよ。ああ、支払いはこの男がするから」
 後半部分はバーテンダーに向けての言葉だ。返事も聞かずに席を立ち、潜は店から出て行ってしまった。
 どうせ同じ部屋に帰るのにな、と少しおかしく思う。いや、あの調子じゃ今夜は帰って来ないかもしれないが。
 潜を見送るついでに、ボックス席に目を遣る。
 夜鷹さんはすっかり寝入っているようだ。彼が起きていたら一緒に飲み直してもよかったが、寝ているのを起こすのはしのびない。そろそろ退散することにしよう。
 俺はバーテンダーを見上げて、二人分の支払いをすることを伝えた。青年は唇の片端を持ち上げて笑う。やはりどこか添に似ているなと思った。
「ま、何でもいいスけど、痴話喧嘩なら余所でやってくださいね〜」
「ああ、気をつけよう」
 もちろん痴話喧嘩なんて誰ともしたことがない。
 冗談じみた揶揄を笑って流せる自分に内心驚きながら、支払いを済ませて店を出た。

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6/30JUNEBRIDEFES新刊「話してくれ、雨のように」全文公開
https://k-r.moo.jp/hitosaji/works/text/4...
事前告知したとおり、サイト上に全文を公開しました。
PixivとXfolioでも同じ形で公開するかは検討中です。WEBだと少々読みづらいため、近いうちにE-PUB版を頒布するかもしれません。
もともと無料配布してしまおうかとも考えていたのですが、今回は同性婚の法制化支援のために参加と頒布を決めたので、有料頒布としました。


イベント当日お手に取ってくださった方はありがとうございました。
予想外にあたたかいお言葉や差し入れをいただき、感謝しています。
イベントは途中で切り上げて、途中から「ジュンブラ同性婚スタンディング」に参加しました。少しでもにぎやかしになれば…と思っていましたが、こちらも予想以上にたくさんの方が参加していて、和やかな雰囲気で楽しかったです。自分ではプロテストの手段がサークル参加くらいしか思いつかなかったので、主催の方のおかげで貴重な経験ができてよかったです。

売上8冊×500円=4,000円に1,000円足して合計5,000円をMarriage for all Japanに寄付しました。
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cheers!

2周年ストあたりのマブダチ度を想定。AロマのファウストとAlloロマのネロがランチデートしてるだけの話。
#まほやく #東保護者


――――――

 子供たちは昨日からブランシェット領に帰っていて、畢竟、本日の授業は休講となった。珍しく任務の予定も討伐の依頼もない。
 ならば図書室に引き籠って一日中読書でもしようかと考えてから、授業で使う魔法薬の材料が不足しているのを思い出した。
 昼日中に王都まで足を運ぶのは気が進まなかったが、こまごまとした日用品も買い足したい頃合いである。せっかく天気も良いことだしと己に言い聞かせて魔法舎を出ようとしたところで、年上の友人に呼び止められた。
「先生もこれから出かけんの?」
「そうだけど」
 話を聞けば、ネロも王都の市場へ買い出しに行くところだったらしい。
「どうせなら一緒に行こうぜ。ついでに昼飯でも食って帰ろう」
「いいよ」
 ファウストは二つ返事で頷いた。
 昔の自分であればにべもなく断っていただろう。それを言ったら、昔のネロだってこんな時に誰かに声をかけたりしなかっただろうけれど。
「実は最近市場の近くにできた飯屋で評判いいとこあってさ。一度行ってみたかったんだよな」
「店選びはきみに任せるよ」
 魔法舎が誇る腕利きのシェフは、己の技量に驕ることなく日々研究に余念がない。街へ出る機会があれば、評判のカフェやレストランで食事をして、どんなレシピが流行っているのかこっそり調べているらしい。もちろん自分で再現するためだ。趣味と実益を兼ねたお遊びのようなものだと、いつだったか言っていた。
 その『お遊び』の恩恵を日々享受している身としては、付き合うのはもちろんやぶさかではないし、むしろたまには奢らせてもらいたいくらいだった。ネロが嫌がるので、大抵は割り勘になるけれど。
 王都の市場はいつものように賑わっていた。
 それぞれ買い物をすませてから広場で待ち合わせて、目当てのレストランへ向かう。
 ちょうどランチの客が入れ替わるタイミングだったようで、並ばずに入ることができた。出る時には店の前に行列ができていたから、運が良かったのだろう。
 ランチメニューは肉と魚の二種類あって、ファウストは宇宙鷄のポワレ、ネロはビネガーフィッシュのムニエルを注文した。しばらくすると出来立ての料理が運ばれてきた。半分ほど切り分けて、お互いの皿に移す。こうすれば両方味見ができるので、一緒に食事をする時にはなんとなく暗黙の了解になっていた。
 ――こんなふうに食事を分かち合うような友人なんて、二度と作らないつもりだったのに。
 奇妙な感慨と共に咀嚼したムニエルは、肝のソースが癖になるとの評判どおりで、ワインが欲しくなる味だった。
 これは飲まなければ損だろう。
 顔を上げると、琥珀色の瞳と目が合った。
 その瞬間、心が通じ合ったように、ネロがそっとワインのリストを差し出した。ファウストは頷いてそれを受け取り、店員を呼ぶ。
 子供たちがいないのをいいことに、昼からワインをボトルで注文してしまった。ヒースクリフやシノと一緒に食事をする時は、子供たちの手前ほとんど飲まないようにしているが、ネロと二人きりなら互いに気兼ねする理由もない。
「美味いな、これ」
「ほんとだ。重すぎないから飯にも合うし」
 店員に勧められたワインは手頃な値段ながら飲みやすく、ついラベルの銘柄を確認してしまった。今度市場で探してみよう、と頭の片隅に書き留める。
 他愛もない話をしながらそれぞれ手酌で酒を飲む。食事を終える頃には、ボトルはすっかり空になっていた。
 店を出た二人は、酔いを覚ますために通りを少し歩くことにした。
「あのソース、あんた結構好きだったろ。酒が進む味だから、騎士さんあたりもきっと好きだよな。お子ちゃまたちには早い気がするけど」
「たしかに、リケやミチルは苦手だろうな」
「だよなあ。使ってるスパイスやハーブは何となくわかったから、そこそこ近い味を再現できると思う。今度、部屋飲み用に作ってみてもいい?」
「楽しみにしておくよ」
「任せといて。あ、そのハーブを買うから俺はもう一度市場に寄るけど、先生はどうする? 疲れてるなら先に帰っててもいいぜ」
 おそらくは人混みが嫌いなファウストへの気遣いだろう。
 ネロはいつもそんな風にさりげなく気を配ってくれる。甘やかされすぎているな、と思うこともあったが、正直なところ悪い気はしない。
 ファウストは顎に手を当てて少しのあいだ考え込んだ。
 たしかに市場の人混みは不得手だが、ネロが買い物をしている姿には少し興味がある。
「きみの邪魔にならないなら、僕もついて行こうかな。荷物持ち程度にしかならないけど」
「邪魔じゃねえけど、先生に荷物持ちなんかさせたら羊飼いくんに叱られそう。ファウスト様に箒より重いものを持たせるなんて――とかなんとか」
「なんだそれは。僕だっていざという時は魔法を使わなくてもおまえくらい担げるぞ。ミスラはさすがに難しいかもしれないが」
「あんたがミスラ抱えようとしてるの想像したら酔いが覚めたんだけど……」
 くだらない軽口の応酬に、顔を見合わせて笑う。
 そんな与太話をしておきながら、午前中に買った荷物は魔法で小さくして鞄にしまっておいたので二人ともほとんど手ぶらだった(こういう時、魔法というのは実に便利だ)。食後の散歩のつもりで、人混みの中を泳ぐように歩く。
 食材や調味料を売る店が建ち並ぶエリアは、ファウストにはあまり馴染みがない場所だった。露店に並ぶ野菜や果物を物珍しく眺めていると、ネロがときおり足を止めて、この野菜は今が旬だとか、油で炒めると美味いのだとか、丁寧に説明してくれる。
 結局、目当てのハーブを買う前に、ネロは旬の野菜や果物をいくつか買い足していた。ファウストも通りがかった酒屋で先ほど飲んだ銘柄のワインを何本か買っておいた。これでしばらく部屋飲みには困らないだろう。
 買い物を終えた二人は、市場の外へ出てから箒に乗った。
 東の国と違って、中央では魔法使いだからといっていきなり通報されたり石を投げられるようなことは滅多にない。面倒ごとを気にせずに箒に乗れるのは悪くなかった。
 わずかに西へと傾き始めた陽の光はやわらかく、頬を撫でる風は穏やかだ。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
 帰路を急いでいるわけでもないし、と思い立ち、ファウストは小さく呪文を唱えた。
 魔法で取り出した二脚のグラスに、買ったばかりのワインを注ぐ。
 片方のグラスが海月のように空を泳いで、ネロの手元に届いた。
 琥珀の瞳に揶揄うような色が浮かぶ。グラスを受け取りながら、年上の友人は片目を瞑って笑ってみせた。
「なんだよ、先生。まだ飲み足んねえの?」
「味見だよ。いらないなら返してくれ」
「いやいや、ありがたくいただきますとも」
 緩やかに並走する箒に腰掛けたまま手を伸ばして、互いのグラスのふちを軽く合わせる。
 涼しい音色が、昼下がりの長閑な空に響いた。

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