Hitosaji Memo

Tempo Lubato

暗くて辛気くさい來潜(順不同・非恋愛)。軽めの性描写あり。AロマAセクの來人さんがひどい目に遭う話。
#エイトリ #來潜



「愛のないセックスってやつをしようよ」
 どろどろに煮詰めた砂糖のように甘ったるい声で、潜が囁いた。
 研修として訪れたパリの夜。それぞれ部屋を取っていたはずが、手違いでツインになっていた。もともと寮では同室の相手だ。小さなハプニングを気にすることもなくチェックインし、片方のベッドに腰掛けて持参した小説を読んでいた。
 シャワールームから戻ってきた潜はナイトガウンだけを纏ったまま、來人のベッドに乗り上げた。手にした小説を取り上げてサイドボードに放る。非難する間もなく、そのままベッドに押し倒されていた。
 來人は軽く瞠目して、己の上に乗る男を見上げた。
 義手の重さなのか、潜は見た目よりも重量があった。とはいえ押し除けられないほどの重さではない。しばし逡巡して、來人は抵抗をやめた。相手の意図が読めないので、まずは様子を伺うことにしたのだ。
 力を抜いた來人に、一瞬傷ついたような顔をしてから、潜はすぐに艶やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、來人。心配しないで。僕はお前を愛していないし、これからも愛さない」
 お前が、死ぬまで。
 冷たい手のひらがそっと頬に触れる。そのまま首筋をたどり、鎖骨を撫でてから、シャツの釦を器用に外しはじめた。
「……潜」
 名前を呼ぶと、目が合った。
 夜の海を写し取ったような瞳に、自分が映っている。そう思う間も無く、近づいてきた唇に己のそれを塞がれる。舌を差し込まれて上顎を舐められると、ぞくりと背筋が震えた。
 嫌悪感こそないものの、このまま流されるには困惑が勝った。潜の身体を押しやり、睨みつける。
「何が……っ、したいんだ、キミは」
「おや、最初に言ったはずだけど?」
 聞いていなかったのかい。出来の悪い生徒を諭すように微笑んで、潜の手がシャツの下へともぐりこむ。冷たい指先が蛇のように肌を這っていくのに眉を顰めると、ああごめん冷たかったねと上擦った声が囁いた。
「でもすぐに熱くなるから」
 その手を掴んで、來人は潜を見つめた。
「どうして、俺としたいんだ」
 こんな状態で理由を問うのもいささか間が抜けているかもしれない。そう思ったが、問い質さなければ話が先に進まない。
 潜は苛立ったように眉を顰めてから、目を眇めて來人を見下ろした。
「僕が壊してあげるよ、來人。……ずっとそう言ってるだろ」
「こんなことで、俺は壊されないよ」
 別に初めてでもないし、と胸中で付け加える。
 相手に期待させたくないだけで不能というわけでもない。『愛のないセックス』なんて、とっくの昔に経験済みだった。身体だけでもいいから、思い出を残してほしいから――そう縋られて、言われるがままに流されたことが何度かあった。
 結局いつも後悔だけが残るとしても。
 その懺悔が聞こえたわけでもないだろうが、潜は少し困ったように、あるいは痛みを堪えるように、曖昧に笑う。
「そうかもね。……だけど、君は確実に傷つく。自覚はないのだろうけれど」
 その傷がやがて罅となって、いつか粉々に砕けるかもしれない。そう呟く潜のほうが、どこか傷ついているように見えた。
 來人を使って自分を傷つけたいのかもしれない。
 突拍子もない考えが頭に浮かんで、そしてそれは妙に説得力があるように思えた。
「……それでキミの気が済むなら付き合うさ」
 何にせよ今までの相手とは違う。なし崩しに枕を共にしたとしても、潜は自分から離れていかないはずだ。その打算ゆえに、來人はひとまず流されることにした。
 目的を果たすまで、彼は去らない。それなら、こんな手段は無駄なのだと納得してもらうほうが早い。
 來人の返答をどう捉えたのか、潜は失意と嘲みの混じった眼差しを向けた。冷たい手が再び來人の肌を弄り始める。
「愚かだね、君は」
「……っ、」
 その手管に熱が高められるのを感じながらも、心は冷めていくばかりだった。身体の火照りとは裏腹に、砂でも噛んでいるような心地がする。
 愛があろうとなかろうと、セックスが來人を満たすことはなかった。恋愛と同じように、自分には楽しめないものだと痛感させられるばかりだ。
 たとえば、凪とツーリングに出かけたり、あく太をラーメン屋に連れていくほうがよほど充足感があった。
「僕としてる時に考え事なんて、随分と余裕だね」
 嘲笑と共に深く口付けられる。
 酸欠で思考が鈍る。夜の底へと溺れていくようだ。
 どこか他人事のように考えた。
 荒い吐息も、卑猥な水音も、啜り泣くような嬌声も、すべてが膜を隔てたように遠く感じる。掴んだ手首は冷たく、触れる肌は燃えるように熱い。ちぐはぐで、馬鹿らしくて、現実味に乏しかった。
 こんな風に互いに傷つけ合わなくても、心を寄せ合う方法はあるはずなのに。
(でも、どうやって?)
 断末魔のような掠れた悲鳴は、どちらのものだったのだろうか。
 それすらわからないまま、夜に沈んでいく。



 夜明け前の部屋は、暗く静かだった。
 潜は身を起こして、じっと目を凝らす。
 暗闇に徐々に慣れてきた目が、隣に眠る男の輪郭をどうにか捉えた。息をひそめて見つめていると、憎らしいほど安らかな寝息が聞こえてくる。
(あんなに苦しそうにしていたくせに)
 潜が気まぐれに情けを与えてやれば、感極まって泣く者もいるというのに。この男ときたら苦行に耐える僧侶のような顔をしていた。
 まあ、だからこそ押し倒してやったのだけれど。
「愛のないセックスってやつをしようよ」
 くだらない誘い文句を思い出して、自分で笑いそうになった。
 何事も嫌味なほど卒なくこなす男は当然のようにセックスも巧く、もっと初心なのだろうと想像していた潜は肩透かしを食った気分になった。
 愛のないセックスは嫌いじゃない。
 というより、潜は心を通わせた相手と寝たことがなかった。厳密に言えば心を通わせる相手が必要だと思ったことがない。他人と交わるのは相手を籠絡するための手段に過ぎず、同時に得られる肉体的な快楽はただの副産物だ。
 肉体と心は別々に動く。だから心の通わない相手と寝ても素直に快楽を享受できた。実際のところ、來人とのセックスも悪くはなかったように思う。
(だけど、想像よりつまらなかったな)
 本当はもっと嫌悪に歪む顔が見たかった。
 けれど來人は苦痛に耐えるような顔をしただけで、嫌悪のあまり吐いたり、拒絶して潜を突き飛ばすようなこともなかった。正直なところ拍子抜けだ。
 おそらくもっと心を込めて愛してやるべきだったのだろう。そのほうがこの男を傷つけることができた。
 心を込めて、たおやかに。
 鍵盤に触れる時のように優しく。
 瞼の裏に冬の夜を思い浮かべる。
 静かに降り頻る雪のように、雑音を掻き消してしまえればよかった。世界に二人だけになってしまったように。
 宵闇はいつしか日暮れの情景に移ろっていた。
 西陽射す部屋には真白いグランドピアノ。燃え尽きるような陽光を透かした金の髪が揺れる。柔らかく辿々しい音色のLiebestraume No.3――導くように音を添えてやれば、二人の心は混じり合ってひとつになるのかもしれない。
(馬鹿馬鹿しい)
 吐き捨てるように胸の内で呟いて、くだらない空想を打ち消した。
 たしかにそうやって愛してやれば、來人は深く傷ついたのかもしれない。その愛は、彼には知り得ないものだから。
 だが、この心と繋がっていたはずの指先は神に奪われて久しい。機械仕掛けの紛い物では、かつてのように鍵盤を操ることはできないだろう。だから共にピアノを奏でる日など二度と来ない。
 潜は手を伸ばして、眠る男の頬に触れてみた。
 その温もりも柔らかさも脳には伝わらない。ただ視覚の情報から触れたと理解するだけだ。
 は、と吐息で笑って、潜はベッドに倒れ込んだ。
 今は何も考えずに、ただ眠りたかった。
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