Hitosaji Memo

哀れなるものたち

潜ノベル5話までネタバレあり。サロ潜?
サロモンに舌ピ空けてもらう潜の話。
#エイトリ



「空港で、君が来るのを待っているよ」

 あんな約束をしなければ、フレデリクは今もピアノを弾いていたのかな。

 舌を出して、と促されるままに従った。
 今の自分はきっと、飢えて皿を舐める犬のように哀れだろう。
 いい子だね、クグリ。耳元で甘ったるく囁く男の声が、どこか遠く聞こえる。
 瞼の裏には雪がちらついていた。田園の美しい緑に降りかかるように、やわらかな金の睫毛に積もる雪。
 あの夜、彼について行かなければ。
 待ち合わせの約束をしなければ。
 そもそも、彼の演奏に心奪われてプロフェッサーの誘いに乗らなければ。潜は母親の元で今も言われるがままにピアノを弾いていたのだろう。
 フレデリクとは、どこかのコンクールですれ違うこともあったかもしれない。彼がその美しい瞳に自分を映して微笑むことはなかっただろうけれど。
 あの日から何度も繰り返し思い描く『もしも』の世界。けれど、その想像には何の意味もなかった。壊れてしまったものは、元には戻らない。ただの逃避だ。そんなことはわかっていた。
「じっとしていて」
 サロモンの指と冷たい金属の先端が舌に触れる。
 返事をするのも億劫で、潜は目を伏せたまま動かずにいた。数秒後、鈍い痛みと共に、ニードルはあっさりと舌を貫通する。想像よりもずっとあっけない。
 身体を穿たれる痛みは、少しのあいだ潜を現実へと引き戻した。サロモンは手慣れた様子でニードルを抜き去り、舌には不恰好なファーストピアスが残される。
「しばらくは腫れて、固形物も食べられなくなるから」
 そう言い残して、サロモンは部屋から出て行った。
 ソファにもたれかかったまま、潜は天井を眺めた。
 今日は抱かれないのか、とぼんやりと考える。
 舌にピアスを刺したばかりで、キスができないからかもしれない。

 行くあてのなかった潜は、初めてピアスを空けてもらって以来サロモンの部屋に居候していた。寮の自室にも病院にも戻る気になれなかったからだ。
 時が経つにつれてピアスの穴は増え、その合間にサロモンに抱かれたり、サロモンが連れてきた男に抱かれたりした。あるいは、サロモンが見知らぬ男と抱き合っている時に、余興だと言ってベッドに引き摺り込まれることもあった。
「別にクグリを男娼にしたいわけじゃないけど」
 右耳に三つ目のピアスを開けた時、サロモンはそんなふうに言って笑った。
「生きていくには糧がいる。ピアノを弾かない君が糧を得るなら、こういう方法が手っ取り早いから」
 サロモンの言葉に悪意はなく、ただ事実を淡々と語っているだけだった。確かにそうだろうな、と潜は納得する。ピアノを弾くこと以外、何も知らずに生きてきた。手を傷つけるようなことは禁じられていたから、皿洗いひとつしたことがない。サロモンが働くような場末の酒場ですら雇ってはもらえないだろう。
「プロフェッサーも糧なの?」
 目の前の男が、師の愛人と呼ばれていたことを思い出す。何の気もなしに尋ねると、サロモンは気を悪くしたふうもなく「そうだね」と答えた。
「あの人は上客だったな、ピアノも弾かせてくれたし。でも今は駄目だね。すっかり気落ちしちゃって面倒くさい。なにせ目を掛けていた弟子を二人も喪ったもんだから」
 自分とフレデリクのことだ。
 そういえばプロフェッサーも一度も見舞いに現れなかったが、どうやら心労で寝込んでいたらしい。その事実を知っても、何の感慨も浮かばなかったが。
「まあ、次の子が見つかれば元気になるだろうけど」
 ――次の子。
 サロモンが続けた言葉の意味を咀嚼して、目の前が暗くなった。
「……フレデリクの代わりなんて」
 あの日以来、心では想っても口にできなかった名前を舌に乗せると、喉が震えた。サロモンは軽く目を見開いてから、哀れむように潜を見つめる。
「かわいそうなタッジオ」
 タッジオ、と呼ばれたのはひさしぶりだった。
「フレデリクは君の初めての恋だったんだね」
「……恋?」
 思いもよらない言葉に、潜は瞠目する。
 そんなこと考えたこともなかった。
 けれど、その言葉と共に、パーティの夜を思い出していた。人生で一番幸せだった気がする夜。
 フレデリクのようになりたくて、彼の瞳に映りたくて、彼と二人きりになりたくて、心を込めて弾いた。あの音色。魂を震わせた何か――あれが恋?
 サロモンはそれ以上は何も言わなかった。ただ哀れみだけを込めて、空けたばかりの潜の耳朶の傷を撫でていた。

 あれからまたピアスの穴は増えて、次はどこに空けたい? と問われた潜は舌に空けてもらうことにした。
 真新しいピアスは杭のように舌に刺さっている。
 微かに血の味がした。

 ――フレデリクは君の初めての恋だったんだね。

 誰もいない部屋で、サロモンの言葉を思い出しながら、潜は知らずに微笑んでいた。
(Nein)
 舌に刺さるピアスが邪魔で、言葉は音にならない。
 いいえ、ともう一度、ここにはいない男に答える。
 それから、この薄汚れた箱庭から出ていくことを決めた。生きるための糧を得る術は覚えた。ならば、この場に留まる理由もない。

(さて、どこへ行こうか)

 あの歓びと哀しみが、希望と絶望が恋ならば、あれは最後の恋だった。
 この胸に咲くことは二度とない。

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