二次創作 2025/01/26 Sun ラスト・ノート#エイトリペア研修TOXIC×NEIGHBORイベストおよび潜区長ノベルのネタバレSS。潜→フレデリク。続きを読む はじめに声を忘れるのだと言う。 人間の脳はそのようにできているらしい。 聴覚、視覚、触覚、味覚、そして嗅覚。その順番で人は誰かを忘れていく。 しかし、カフェの古びた蓄音機から流れてきた旋律に、潜は瞠目した。 彼の――フレデリクの奏でた音とはまるで違う「ポロネーズ第5番Op.44嬰へ短調」。その落差がはっきりとわかるのは、フレデリクのピアノを一欠片も忘れていないからだった。 幾たび季節を繰り返しても、こうして鮮明に思い出せる。 はじめに忘れるのが音ならば、今もその音を忘れられない自分は、彼のすべてを生涯忘れないのだろうか。(いや……) 視界の隅で、絵筆を持った青年が軽薄に笑っている。けれど、潜の意識は遠い日のコンクール会場にあった。 フレデリクのピアノをはじめて聴いた場所。 潜にとって、フレデリクとは彼が奏でるピアノそのものだった。 彼の声、彼の微笑、彼の指、彼の舌先、彼の匂い。すべては音の波として押し寄せ、潜の魂を削いでいった。あの日からずっと、潜は五感のすべてでフレデリクを記憶している。その声が色褪せてしまったとしても、彼が奏でたポロネーズ第5番は、忘れ得ぬ残り香のように潜を包んでくれた。(その心は、あなたの指と繋がっていた?) 問いかけに、答えは返らなくても。「――潜さん?」 深く沈み込む意識が、わずかに引き戻される。 感情を映さない黒い双眸が探るように潜を見ている。興味はなくとも、弱味に繋がるものは知っておきたい性分なのだろう。そういう彼の抜け目のなさを理解しつつも、潜にとっては瑣末なことだった。剥き出しの心を覗き見られたところで、恥じる必要もない。フレデリクの音に削り取られていった傷痕は、潜を美しく彩っているだけだ。(「脱いだ時喜ばれたほうがお互いテンション上がりますし?」) ふと雨の車中で聴いた戯言を思い出す。 すべてが嘘だと潜が承知していることを察しているくせに、悪びれもなく軽やかに嘘をつく。温度の篭らない言葉は通りすぎる雨のように味気なく、その空虚さが気楽ではあった。 だからこそ提案に乗ってやった。 その思惑など知ったことではなかったが、添もそれなりに満足したようだった。 静寂の中で、フレデリクの音に浸っていてもよかったのだけれど、それはいつでもできることだと思い直した。 彼の音にはいつでも逢える。 煉獄の山の頂にフレデリクはいないが、彼の奏でるポロネーズがきっと鳴り響いていることだろう。「それで、懐かしいのは治りました?」 帰国して寮に戻り、テラスで酒を飲んでいたら、ビール瓶とグラスを手に添がやってきた。旅の思い出を分かち合おうなどと思ってはいないだろう。ただ飲みたい気分だったのかもしれない。 グラスのビールを空にしてから、添が目を細めて笑った。どうやらワインは本当に苦手らしい。この良さがわからないなんて哀れなものだ。 潜は肩をすくめてみせた。「さあ、どうだろうね」 風邪でも拗らせたかのように揶揄されても、そう不快ではない。本気で腹を探り合うほどの情熱が添にはなく、潜も添に興味がなかった。ただの社交辞令に目くじらを立てるほど狭量ではない。けれど、耳の奥に残る音の波のことを答えてやる義理もない。 真珠のように泡立ち、触れれば雪のように消えてしまう美しい旋律を真似て、彼の心をなぞろうとした夜。優しく微笑んでくれた緑の瞳。確かに触れた指先。舌を湿らすために煽ったシャンパンの味。雪に混じった彼の残り香。 世界に音が溢れている限り、潜は何度でもあの夜を思い出すだろう。close
#エイトリ
ペア研修TOXIC×NEIGHBORイベストおよび潜区長ノベルのネタバレSS。潜→フレデリク。
はじめに声を忘れるのだと言う。
人間の脳はそのようにできているらしい。
聴覚、視覚、触覚、味覚、そして嗅覚。その順番で人は誰かを忘れていく。
しかし、カフェの古びた蓄音機から流れてきた旋律に、潜は瞠目した。
彼の――フレデリクの奏でた音とはまるで違う「ポロネーズ第5番Op.44嬰へ短調」。その落差がはっきりとわかるのは、フレデリクのピアノを一欠片も忘れていないからだった。
幾たび季節を繰り返しても、こうして鮮明に思い出せる。
はじめに忘れるのが音ならば、今もその音を忘れられない自分は、彼のすべてを生涯忘れないのだろうか。
(いや……)
視界の隅で、絵筆を持った青年が軽薄に笑っている。けれど、潜の意識は遠い日のコンクール会場にあった。
フレデリクのピアノをはじめて聴いた場所。
潜にとって、フレデリクとは彼が奏でるピアノそのものだった。
彼の声、彼の微笑、彼の指、彼の舌先、彼の匂い。すべては音の波として押し寄せ、潜の魂を削いでいった。あの日からずっと、潜は五感のすべてでフレデリクを記憶している。その声が色褪せてしまったとしても、彼が奏でたポロネーズ第5番は、忘れ得ぬ残り香のように潜を包んでくれた。
(その心は、あなたの指と繋がっていた?)
問いかけに、答えは返らなくても。
「――潜さん?」
深く沈み込む意識が、わずかに引き戻される。
感情を映さない黒い双眸が探るように潜を見ている。興味はなくとも、弱味に繋がるものは知っておきたい性分なのだろう。そういう彼の抜け目のなさを理解しつつも、潜にとっては瑣末なことだった。剥き出しの心を覗き見られたところで、恥じる必要もない。フレデリクの音に削り取られていった傷痕は、潜を美しく彩っているだけだ。
(「脱いだ時喜ばれたほうがお互いテンション上がりますし?」)
ふと雨の車中で聴いた戯言を思い出す。
すべてが嘘だと潜が承知していることを察しているくせに、悪びれもなく軽やかに嘘をつく。温度の篭らない言葉は通りすぎる雨のように味気なく、その空虚さが気楽ではあった。
だからこそ提案に乗ってやった。
その思惑など知ったことではなかったが、添もそれなりに満足したようだった。
静寂の中で、フレデリクの音に浸っていてもよかったのだけれど、それはいつでもできることだと思い直した。
彼の音にはいつでも逢える。
煉獄の山の頂にフレデリクはいないが、彼の奏でるポロネーズがきっと鳴り響いていることだろう。
「それで、懐かしいのは治りました?」
帰国して寮に戻り、テラスで酒を飲んでいたら、ビール瓶とグラスを手に添がやってきた。旅の思い出を分かち合おうなどと思ってはいないだろう。ただ飲みたい気分だったのかもしれない。
グラスのビールを空にしてから、添が目を細めて笑った。どうやらワインは本当に苦手らしい。この良さがわからないなんて哀れなものだ。
潜は肩をすくめてみせた。
「さあ、どうだろうね」
風邪でも拗らせたかのように揶揄されても、そう不快ではない。本気で腹を探り合うほどの情熱が添にはなく、潜も添に興味がなかった。ただの社交辞令に目くじらを立てるほど狭量ではない。けれど、耳の奥に残る音の波のことを答えてやる義理もない。
真珠のように泡立ち、触れれば雪のように消えてしまう美しい旋律を真似て、彼の心をなぞろうとした夜。優しく微笑んでくれた緑の瞳。確かに触れた指先。舌を湿らすために煽ったシャンパンの味。雪に混じった彼の残り香。
世界に音が溢れている限り、潜は何度でもあの夜を思い出すだろう。
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