「溺れる」
2020.04.11.
※フォル学時空(イベント前時系列)。セフレの殺し屋×情報屋。
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その腕に抱かれる時には、いつも海を思い出す。
凍えるような黒い海に灰色の雪が溶けていく。空は鈍くて陰鬱な鉛の色だった。
フィガロが生まれ育った街には海はなかったから、きっと映画か何かで見たことがあったのだろう。瞼の裏に浮かぶ海はやけに鮮明で、耳の奥に響く波の音もまるで遠い昔から知っているような気がした。
オズがフィガロを抱くのは、決まって彼が『仕事』を終えた時だ。
仄暗い高揚をやり過ごすためなのか、それとも他に理由があるのだろうか。
場末の安っぽいホテルのアドレスと時間だけが記されたスパムのようなメールが送られて来る度に、そんな疑問は浮かぶものの、オズに問い質してみようと思ったことはなかった。
問うたところで寡黙な男が素直に答えるとも思えないし、もし何か答えが返ってきたとしても、やることは変わらない。
何にせよ、愛だの恋だのといった類のものではないことだけは明白だった。
腐れ縁、と言っても差し支えない程度には長い付き合いだが、互いの間にあるものはそんなに美しいものではないだろう。
こうして落ち合うのは彼が『仕事』を終えた後なのだ、というのもただのフィガロの勘でしかなかった。
ほんの微かに、血の匂いがするだけだ。それも錯覚かもしれないし、あるいはフィガロの推測通りなのかもしれなかった。結局のところ、どちらでもいいのだ。この男の、潮騒に似た鼓動の音が聴こえるならば。
オズは何も話さないし、互いに名すら呼ばない。静かな部屋を満たすのは荒い息遣いと、生々しい水音と、粗末なベッドが軋む音だった。きっと身体の相性は良いのだろう。安易な快楽は、安酒や煙草、あるいは粗悪なドラッグのように、不健康でクセになる。くだらない娯楽を好むような男だとは思ってもみなかったけれど、シーツの海でのたうつ身体を繋ぎ止めようとする時のオズは、わずかに嗜虐的な笑みを浮かべていた。本人は気づいていないのかもしれないが。
上の空を咎めるように一際強く奥まで穿たれて、喉を逸らす。
断末魔の悲鳴に似た己の声をどこか遠くに聴いていた。息がうまく吸えず、心臓が破裂しそうだ。もうだめ、しぬ。息も絶え絶えに訴えると、氷のように冷たい手が頬に触れた。
「殺しはしない」
宵闇のように艶のある声が静かに響く。ひとを殺してきたばかりの手で触れておいて、真面目くさった顔で律儀に答える男が滑稽で、フィガロは目を眇めて笑った。
「おまえになら、殺されてもいいよ」
こぼれたのは珍しく本心だったのに、オズは不機嫌そうに眉を顰めた。
「戯言を」
苛立ったように吐き捨てられる。何が気に障ったのかわからないが、オズの手が乱暴に腰を掴んだ。あからさまな怒りに背筋がぞくぞくと震える。恐れではなく興奮で、鼓動が速くなった。
「どうせなら、おまえに溺れて死にたい」
懺悔のごとく吐き出してしまえば、嫌でも自覚せざるを得ない。それは嘘でも冗談でもなく、哀れなほど切実な本音だった。
今更真っ当な人生なんて送れるわけがない。この先にあるのは破滅だけ。ならばせめて、この高潔な男に殺されたかった。
