Dance with your Ghost.

 そういえば、この男の寝顔もまだ知らない。
 リキュールに漬けたルージュベリーのようにとろりと甘く滲む瞳を眺めながら、ふと、そんなことを考える。子どもたちならともかく、他人の寝顔なんてものはよほど親密な相手でもない限り、拝む機会もないのが当然だが。
 普段は澄み切ったアメシストの瞳が蕩けて見えるのは、それなりに酔いが回っている証拠だろう。あるいは自分のほうが酔っているのかもしれない。
 ファウストを部屋に招いて共に晩酌を楽しむ夜も、これで何度目になるだろうか。片手の指ではすでに足りなくなってしまった。最近は連れ立ってシャイロックのバーを訪れることもあるが、他の連中に邪魔されずに他愛もない話をするなら、やはり部屋で飲むほうがいい。どちらからともなくそう言ってネロの部屋に向かう夜も多かった。……魔法舎に来たばかりのころの自分たちなら、目を丸くして呆れそうな話だが。
 益体もない想像に苦笑を浮かべながら席を立ち、ネロは部屋の端の台所へと向かった。水にさらしていた檸檬を輪切りにして、シュガーと共に水差しに放り込む。蛇口をひねって水を汲み、戸棚に伏せて置いたグラスを掴んでテーブルへと戻った。
 ファウストはぼんやりとした顔で、向かいの椅子を眺めていた。わずかに酒の残ったグラスを手慰みのように揺らして。
「ほら、先生。水飲んで」
「ああ、……ありがとう」
 真新しいグラスに水を注ぎ、そのひとつを年下の魔法使いの前へと押しやる。ファウストは素直にそれを受け取った。それからひと息に水を飲み干すと、ゆるやかに瞬きを繰り返す。常日頃の陰鬱そうな表情とも、ときおり見せる凛とした佇まいとも違う、若い魔法使いのようなあどけなさが垣間見えた。向かいの席に座りなおして、頬杖をつきながら、ネロは戸惑いをおぼえる。
 今のファウストは、隙だらけで、無防備で、ネロのことを信じて疑わない目をしていた。
(――……勘弁してくれよ)
 無垢な信頼は、ネロにとっては運ぶのに難儀する小麦袋のようなものだった。抱えたままでは疲れるし、身軽ではいられない。それなのに、手放すのは惜しくなってしまう。己の矛盾を苦々しく思いながらも、誤魔化すようにわざとらしくにやりと笑う。
「なんだよ先生、もうおねむか?」
「……少しな。今夜はどうも回りが早くて」
 冗談めいたからかいに気を悪くしたそぶりもなく、ファウストはこくりと頷いた。
 ネロの手癖の悪さはたしなめるくせに、からかわれても目くじらを立てたりはしない。生真面目すぎるきらいはあるが、ファウストはけっして狭量ではなかった。彼の過去について詳しく聞いたことはなかったけれど、おおよその見当はついている。集団を率いる者特有の度量の広さは、つまりはそういうことだろう。数多の命を預かる役目は懐が広くなければ務まらない。そのことをネロはよく知っている。
 昔馴染みの男の顔が脳裏にちらりと浮かび、こみ上げる苦笑いを酒と一緒に飲み込んだ。
「部屋に帰るのが億劫だったら、そこで少し横になっていってもいいんだぜ」
 親指で簡素なベッドを指し示してそう言うと、ファウストはぽかんと口を開けて目を丸くした。そんなにおかしなことを言っただろうか。ネロは少しのあいだ考え込んでから、はた、と思い出す。
 ファウストは眠っている姿を他人に見せようとしないのだ。任務で遠方に出かける時も数日なら眠らない。魔法使いは数日眠らない程度では人間のように死んだりはしない。ミスラがいい例だろう。
 魔法舎で暮らし始めたばかりのころ、夜中に部屋に来ないでほしいとファウストに釘を刺された。
「なんだそれ……。亡霊とダンスでもしてんのか?」
「似たようなものだ」
 そんな会話をして、それきりだった。
 おそらく〈大いなる厄災〉の傷に関わることなのだろうと予想はついたが、実際に何が起きているのか、何を見られたくないのかは知らなかった。ファウストに尋ねることもしなかった。きっと聞かれたくないだろうと思ったから。
 約束をしたわけではないけれど、ネロが夜中に彼の部屋に近づくことはなかった。晩酌をする時も決まって自分の部屋に招くことにした。だからかえって、頭から抜けてしまっていたのかもしれない。あるいは、自分もそれなりに酔っているのか。
「……悪い。変なこと言ったな」
「きみが謝ることじゃない」
 ファウストは困ったように眉尻を下げて微笑んだ。
「だけど、これ以上飲むと酔い潰れて、きみに迷惑をかけるかも。そうならないうちに引き上げることにするよ」
「……」
 その声は穏やかで、いささかの棘もない。ネロの言葉に気分を害したわけでもないのだろう。ただ、はっきりと、ここから先には踏み込むなと線引きをされただけだった。
 そもそも、互いの過去に触れないことこそ、心地よい関係を保つための暗黙の了解だったはずだ。それなのに、やんわりと拒絶されたことに、ほんのわずかに傷ついた。そう自覚して愕然とする。
 自分だって過去のすべてを打ち明けることなんてできないくせに、ファウストの『傷』を知りたいと思ってしまったのだ。
 なんて虫のいい話だろうか。
「おやすみ、ネロ。また明日」
 向けられた眼差しには信頼と親しみが込められている。いつもなら面映ゆくも嬉しいはずのそれが、今夜はどこか苦く感じられた。そのほろ苦さを悟られないように、頬に軽薄な笑みを張り付けて頷いてみせる。
「……おやすみ、ファウスト」
 ぱたんと軽い音を立てて扉が閉まった。その向こうにあるだろう背中に問いかける。

(――なあ、あんたは今夜も亡霊と踊るのか?)

 真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて、哀れで愚かな魔法使いがくるくると踊っている。
 かたわらでリュートをつま弾くのは、かつて友と呼んだ男だった。揺れる炎の影に隠されて奏者の顔は見えなかったが、ファウストが《彼》を見間違えるはずもない。
 焚き火の炎はいよいよ燃え盛り、天をも焦がそうとしていた。軽快な音楽が鳴り響く。その音色は悲鳴や慟哭に似ていたが、楽器を奏でる男の両腕は無事だった。ファウストは思わず安堵し、次の瞬間、安堵した自分を縊り殺してやりたくなった。
 ――これは夢だ。
 荒唐無稽だが、笑ってしまいそうなほど、わかりやすい夢だった。
(亡霊とダンスでもしてんのか?)
 いつか投げられた言葉を、眠る前に思い出したせいかもしれない。似たようなものだと答えながら、言い得て妙だと感心したものだ。ネロが揶揄したとおり、ファウストは悪夢の中で亡霊と踊り続けている。四百年のあいだ、ずっと。
 両足を焼かれた魔法使いはとうとう力尽き、やがて地に倒れ伏した。
 ――そのままこと切れて、石になってしまえば、まだしも幸せだったものを。
 ファウストはかつての己を憐れんだ。死に損なった魔法使いは低く嗚咽を漏らしたが、涙はこぼれなかった。そんなものはとうの昔に枯れ果てていた。
(神様、はやく僕を、自由に……)
 そこで目が覚めた。
 夢から溢れた火の粉が宵闇に舞い上がるのが視界の端に映った。炎の名残りは部屋を仄かな橙色に染めている。身を起こして窓辺に視線を向けたが、カーテンの隙間からは闇が覗くばかりだ。夜明けにはまだ遠い。
 ファウストは毛布をめくり、寝間着の裾をたくし上げて、己の両足をじっと見下ろした。焼け爛れた跡は夜の闇の中では濃い影のように見えるだけだった。痛みはない。苦痛を残せない代わりに、目に見える傷痕を刻みつけて憎しみを忘れないようにしたかった。けれど、どれだけ傷痕を見つめても、身を焦がすほどの憎悪はいつしか薄れていく。
 深く息を吐いて、ファウストはベッドから降りた。酔いはすっかり醒めてしまったし、今夜はもう眠れそうになかった。
 コーヒーでも淹れてこようかと思い立ち、部屋着に着替える。袖に腕を通しながら、不意に、ネロが見せた物言いたげな顔を思い出した。眠るまえ、彼の部屋から立ち去ろうとした時のことだ。他人との間に一線を引くあの男には珍しく、何かを問い質そうとしているようにも見えた。
「《サティルクナート・ムルクリード》」
 燭台に火を灯して廊下へと出る。真夜中の魔法舎はしんと静まり返っていた。北の魔法使いたちも今夜はおとなしくしているようだ。
(ネロは僕の《傷》に興味があるのだろうか)
 階段を降りながら、ファウストは考えた。
 好奇心から他人の秘密に首を突っ込むような男ではない。きっと薄々想像はついているのだろうけれど、いつも素知らぬふりをしてくれた。その代わり自分のことも語ろうとはしなかったが、互いの過去のしがらみを知らない関係というのも心地が良いものだった。
 傷つけることも、傷つけられることもない、真綿に包まれるような居心地の良さ。そんな相手がどれだけ得難いものであるか。自惚れかもしれないが、ネロも同じように感じているのだと思っていた。しかし、ファウストの勘違いでなければ、今夜のネロはその距離をもどかしく思っているように見えたのだ。
 居心地のよい距離よりも、もう少し近づいてみたい。
 そう思われているのだろうか。
 不思議と悪い気はしなかった。出会ったばかりの頃と違って、今ならネロに『傷』を晒すことも耐えられるだろうとも思った。けれど、まだ血が滲む傷口のような悪夢を見せられては、あの優しい男は我が事のように傷つくだろう。本人はいつも否定するが、ネロは優しく甘い男だった。だからこそ、己の傷を晒すことで彼を傷つけるのは本意ではない。
 人気のない厨房でポット一杯にコーヒーを作って部屋に戻ろうとした時、食堂の奥から明かりが漏れているのに気づいた。誰かが消し忘れてしまったのか、あるいは、まだ誰か残っているのか。しんと静まり返った食堂を覗くと人影があった。厨房の入口からは背中しか見えないが、薄曇りの空の色をした髪は見間違えようがない。
「……ネロ?」
 たったいま考えていた相手の姿に一瞬どきりとする。微動だにしないところを見るに、うたた寝でもしているのだろう。足音を忍ばせて歩み寄ると、案の定椅子に腰掛けたまま、ネロが眠っていた。テーブルにはウイスキーのボトルとグラスが残され、腕には本を抱えている。おおかた、酒を飲みながら読書をしているうちに寝落ちてしまったといったところか。ファウストが自室に帰った後、飲み直したい気分にでもなったのかもしれない。わざわざ一階まで降りてきたのは、目当ての酒を厨房に置いていたとか、そんなところなのだろう。
 食堂にはネロの姿以外はなかった。夜更かしを楽しむ者は外に出掛けたりシャイロックのバーに入り浸るから、案外ここは穴場なのかもしれない。
 意外とあどけない顔をするものだ。眠る男を眺めながら、ファウストは向かいの椅子に腰掛けた。抱えていたポットと燭台をテーブルに置く。
「……ん」
 瞼を震わせて、ネロは薄く目を開けた。
 コーヒーの匂いがする、と寝起きの掠れた声で呟くのが聞こえた。他人の気配ではなくそちらで目が覚めるのが、彼らしいと言えば彼らしい話だ。ファウストはこっそりと苦笑する。
「こんなところでうたた寝をしたら風邪を引くぞ」
「悪い、つい寝ちまって……。って、先生?」
 ようやくファウストの存在を認識したらしい。寝ぼけまなこを丸くしたネロは、居眠りを咎められた生徒のように慌てて背筋を伸ばした。授業中じゃあるまいし別に叱ったりしないよ。笑みを含んだファウストの言葉に、ようやく肩の力が抜けたようで、ネロはへらりと笑った。コーヒーポットを目にして、おおよその事情を悟ったのだろう。苦笑を浮かべながら、気遣わしげにファウストを見る。
「結局寝そびれちまった?」
「いや、少しは眠れた。……きみは、本を読むんだな」
「暇潰しにちょうどいいんだよ。俺が本読むのってそんなに意外?」
「教科書は適当に読み飛ばしているようだから」
 幼い頃から家庭教師がついていたヒースクリフと違い、ネロとシノは座学を苦手としていた。文字を読むのが苦痛なのだろうかと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。
 ネロは決まり悪そうに頬を掻いた。
「あー、ほら。教科書とか法典とか、覚えなきゃって思うとなかなか頭に入ってこねえんだよな」
「叱ってるわけじゃないよ。ただ、きみのことまだ全然知らないなと思って」
 ぽろりと零れた本音に、ファウスト自身が驚いた。まるで、きみのことが知りたいと告白しているようなものだった。そしてそれは、文字通り嘘偽りのない本心だった。
 きみのことをもっと知りたい。
 ひとりで過ごす夜の寂しさを分かち合いたい。
 二人で晩酌をするようになって、他愛もない話をしながら、相手の傷には触れないように伸ばしかけた手を引っ込める。そんな夜を繰り返すうちに、もどかしさをおぼえはじめたのかもしれない。……たぶん、お互いに。
 ファウストは目の前に座る男を静かに見つめた。
 琥珀の双眸が眇められて、湖面に映る月のように揺れている。
「今じゃなくても、そのうち……いつか、僕の部屋で飲もう」
 たったそれだけのことが今の自分たちには難しかった。傷痕に触れればそこからひび割れて壊れてしまうのではないかと怯えているからだ。他人から見ればさぞ滑稽だろう。それでもいつか、そう遠くない日に、この男になら醜い傷痕を見せてもいいと思えたのも本当だった。
 ネロは笑おうとして失敗したように唇を歪めた。目を伏せて暫くのあいだ黙り込む。やがて顔を上げた男は、わざとらしいほど明るい声で茶化すように言った。
「……あんたが、亡霊と踊るのに飽きたらな」
 冗談めかした言葉は、ファウストを気遣う優しさであり、傷に触れることを厭う臆病さのあらわれでもある。臆病なところも優しいところも、どちらもネロらしかった。
 すっかり冷めてしまったコーヒーの苦さに、ファウストは苦笑を浮かべた。