「前から気になってたんだけど、ミスラのネイルってすごくお洒落で綺麗だよね!」
「はあ、どうも」
眠たげな眼をした男は、好奇心にきらきらと目を輝かせる若い魔法使いにちらりと視線を投げた。気のない相槌が、魔法舎のバーに響く。そっけないとも言える態度にめげることなく、クロエはミスラを見上げて破願した。
「黒曜石みたいで、かっこいいな。北の国で売ってるの?」
師匠に比べれば常識的に見えるクロエも、やはり西の魔法使いだった。
カウンターの隅でこそこそとワイングラスを傾けていたネロは息を呑み、並んで座る揃いの赤毛頭を見た。
あのミスラに気安く問いかけるなんて命知らずもいいところだ。
この世界でオズの次に強い魔法使い。道理のわからぬ猛獣。運悪く遭遇したら笑顔を振り撒きながら全速力で逃げろ。
北の国では赤子でも知っている常識である。まあ、その猛獣にわざわざ喧嘩を売りに行く馬鹿もいるのだが。半殺しにされて逃げ帰ってきたその馬鹿を泣きながら介抱したのも遠い昔の話だった。閑話休題。
魔法舎に住む若い魔法使いは、出身国を問わず命知らずが多かった。ミスラやオーエンをちゃんと怖がってみせるのなんて、ネロ以外では、いまやヒースクリフくらいのものだろう。
「こんなもの、買ったりしませんよ。自分で作ります」
珍しく機嫌がいいのか、はたまた単なる気まぐれか、ミスラはどこか得意げに答えた。そこに口を挟んだのは、カウンター越しに店主との会話を楽しんでいたルチルだった。ミスラを挟んでクロエとは反対隣のスツールに腰掛けた青年は、さっきから洒落たカクテルをかぱかぱと水のように飲み干している。
「黒の顔料って珍しいですよね。何を使って作るんですか? 植物や種を焼いた炭?」
「焼いた獣の骨ですよ。石じゃなくて骨が残っていたから魔法生物ではないのかな。占いに使うこともありますが、炭にした骨の黒がいっとう美しいのだとチレッタに教わりました。随分むかしの話なんで、細かいことはおぼえていませんが」
「まあ、母様が……」
珍しく饒舌なミスラの言葉に、ルチルははにかむように微笑んだ。ネロからすれば、ちっとも照れるようなことではないと思うのだが。なにせ焼いた骨は黒いという話だ。
「――黒は喪の色だ」
ネロのとなりで黙ってワインを飲んでいたファウストが、おもむろにそう切り出した。
授業の時のようにサングラスを軽く押し上げながら横を向いた東の国の先生は、ミスラをまっすぐに見つめる。敵意はないが、怯えもない。そんな視線を投げられることが珍しいのか、ミスラは無言で目を眇めた。
(ここにもいたよ、命知らずの無鉄砲が)
よりによってミスラにガン飛ばすなんて。これだから中央出身の奴は。
こっそり冷や汗を拭うネロをよそに、ファウストは言葉を続けた。
「黒装束や黒の化粧は、死者を敬い、彼らに寄り添うため纏う。呪術や魔除けに黒が用いられるのも、死に近しい色だからだ」
「ああ、ミスラさんは渡し守ですもんね」
納得したようにルチルが頷く。
「渡し守?」
「亡くなった人間を埋葬地に運ぶ仕事ですよ」
耳慣れない言葉に首を傾げるクロエに、バーの店主が囁いた。当のミスラは、他人事めいた顔をして「ええ、まあ」とうなずいた。それからおもむろに席を立つ。
「なんだか、今なら眠れそうな気がするな。賢者の部屋へ行ってきます」
いつものように呪文を唱えて空間の扉を開いたミスラは止める間もなく(誰も止められはしないのだが)そのまま姿を消した。いまごろ来訪者にたたき起こされているだろう賢者の顔を思い浮かべ、ネロは苦笑する。
(明日の朝食は賢者さんの好物を作ってやらねえとな)
「……ええと、何の話だったっけ?」
「化粧の話ですね」
シャイロックの助け舟に、クロエは笑顔を浮かべた。
「そうだった! ファウストからお化粧の話が聞けるなんて嬉しいな」
「ファウストさん、そういうことに興味なさそうだと思っていましたけど、お詳しいんですね」
純真無垢な眼差しを向けられて、ファウストはたじろいだ。そっぽを向いて、ワイングラスに口をつけながら「詳しいわけないだろう」とうにゃうにゃもごもご呟いている。余計なことを言ってしまった、と顔に書いてある。この呪い屋先生は酔って気分が良くなると、少しばかり口数が増えるのだ。
冷や汗をかかされた分、うろたえるファウストの姿にいくぶん溜飲が下がった。
「ただ化粧というのはもともと魔除けのようなものだったから、呪術を学べば多少は知識が増える。それに、大昔は魔法使いなら男でも女でも化粧するのが普通だったらしい。僕が生まれた時代は、そんなこともなかったけれど」
ファウストはちらりとカウンター越しの店主を見た。長い時を生きる魔法使いは意味深に微笑んでみせる。
「……ふふ。たしかに、かつては土地の精霊に気に入られるための化粧をする風習がありましたね。聖なる祝祭を執り行う際、精霊のお気に召すような衣装をクロエに仕立ててもらったでしょう? あれと同じことです」
それがいつからか、人間たちも魔法使いを真似て化粧をするようになった。
雨を乞うために、精霊が気にいる装束を纏って祭事を催す。そうした風習が残る土地も多いのだという。先日、復興の手伝いに行った村でも、魔除けの儀式のために特別な衣装を纏った。同行したクロエも同じことを思い出したようで「そっか。あの時も衣装に合わせて黒のメイクしたもんね」と頷いている。
「ですが、この数百年のうちに人間の中に多少なりとも残っていた神秘への畏敬はすっかり薄れ、今では化粧と言えば、精霊ではなく殿方の気を引くためにご婦人方が施すものになってしまいました。特に、西の国では顕著ですね」
中央の国や東の国も、程度の差はあれ同じだろう。
グランヴェル城のパーティでは、きらびやかなドレスを纏った貴婦人が衣装に合わせた華やかな化粧をしていたし、ブランシェット領主夫人すらも――つまりはヒースクリフの母親だが――控えめではあったが唇に紅を引いていた。貴族の女性にとっては化粧は当然の身嗜みであり、ステータスにもなっている。逆にカナリアや東の国のネロの店に来るような一般市民はほとんど化粧をしない。基本的には貴族のための高級品だからだ。高級品と言っても宝石と違って劣化するし、中古品を売り捌くのも難しい。盗賊にとってはあまり旨みがない品だ。だからネロも宝石ほどは詳しくなかった。
「つまり、僕が言いたいのは」
ネロの思考を遮るように、ファウストがこほんと咳払いをした。
「ミスラが爪の手入れをするのは、洒落ているからでははなく、呪術のためだろう。だけど、僕たち魔法使いにとって着飾ることや化粧をすることもそれなりに大きな意味を持つ」
服も化粧も変化の魔法に通じる。違う自分との出会いは、心にも変化をもたらすからだ。
ファウストは言葉を続けた。
「きみの魔法は、ルチルの治癒と同じようにみなの役に立っている。ふたりとも、いつもありがとう」
どうやらうちの先生は若い魔法使いたちを労いたかったみたいだな。臆面のなさに苦笑しながら、ネロは酒を飲み干した。まったく、聞いてるこっちのほうが照れくさくなる。
まっすぐ向けられた感謝と労いに、クロエとルチルは顔を見合わせてから嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「すっごく嬉しい! ファウストって優しいね」
馬鹿なことを、と気まずそうに目を伏せるファウストの前に、新しいグラスが差し出された。
「……これは?」
「授業料ですよ、ファウスト先生」
「きみにものを教えるなんて不遜な真似をしたつもりはないが。……まあ、ありがたくいただこう」
ファウストは淡く微笑み、細い指がグラスに伸びる。
この男もなんだかんだ甘え上手だなと苦笑しながら、ネロはとなりに杯を差し出した。
グラスがぶつかるチリンと涼やかな音が、ルチルとクロエの楽しげなおしゃべりの伴奏のように響く。
まあ、たまにはこんな賑やかな夜も悪くないだろう。
