今は昔
春の庭に、はらはらと薄紅の花が降っている。
もっともそれは本物の桜の木ではなく、ホログラム、と云うものらしい。動く屏風絵のようなものなのであろう。岩融の目には本物の桜のように映るが、同時に、そのような技術であることも知っている。必要な知識はすべて付喪神として呼び出された時には備わっていた。
花が本物であるかどうかなど、正直なところどうでも良いことだ。
岩融もまた幻の花のように不確かな存在である。千年の間ずっと微睡んでいたような気もするし、あるいは今生のように人の姿に化けたこともあったかと思う。幼子であったり女のなりをしたこともあったろう。獣の容になってみたこともあるかもしれない。何にせよすべて遠い昔の話であるし、もはや始まりを知る人の子など誰もいない。あれやこれやと彩られた口伝えの物語の中にのみ岩融は存在している。
――まあそれもそう悪くはない。
それよりも酒の一献でも欲しいものよ、と岩融は独り言ちた。花を愛でるのに酒もないのは侘しいものである。眠ることも酔うことも、彼らにとっては児戯に等しいが、岩融は昔からヒトの真似事をするのが好きなのだ。
しかし彼の膝の上では今剣が眠っている。これを起こすのも忍びないので――それもまた戯れではあるが――酒に酔うのは早々に諦めて、雪色の髪を梳きながら花を眺めて唄うことにした。
遠い昔に、やはり花を眺めながら聴いた唄であったと思う。膝の上の童は、かつては絵巻物に出てくる美丈夫に化けて人の子を誑かすこともあった。せっかく人の姿をするのなら人のように遊んでみたいというのが、彼の口癖のようなものであった。人の子のように恋をして、笑い、酒を飲み、眠る。そういうことを楽しみたかったのだろう。岩融に白拍子になれと言って抱くこともあれば、女のように抱かれることもあった。
そうかと思えば親子のようにただ寄り添って眠る夜もあった。岩融にとって今剣は母であり子であり伴侶であったし、今剣にとってもそうだったのだろう。
「――いわとおし」
鈴の鳴るような音色で名を呼ばれ、とおい記憶から呼び戻される。
膝を見下ろすとあかい目がじっとこちらを見つめていた。
「おお、起こしてしまったか」
岩融が牙をむくように笑うと、今剣はゆったりと瞬いてから身を起こした。うたがきこえました。そう言って岩融を見上げる幼子に、かつての面影を見て目を細める。どこかできいたことがあるような…… 、首をひねる童に岩融はとうとう声を上げて笑った。それもそうだろう、かつて今剣が唄っていたのをおぼえたのだ。彼が忘れてしまった今となっては岩融の他に知る者はないのだとしても。
