宛名のない恋文

 先代のゴーティエ辺境伯ーーつまり、私の養父であるシルヴァン=ジョゼ=ゴーティエが天に召されたのは翠雨の節のはじめ、新緑が鮮やかな晴れた日の早朝のことだった。
 彼は齢六十に届いてなお矍鑠たる偉丈夫であったが、前節に患った風邪を拗らせて、あっけなく帰らぬ人となったのだ。
 私に爵位を譲ってから、彼は慎ましやかな隠居生活を送っていた。質素な屋敷にわずかばかりの使用人を置き、時折ゴーティエ伯爵家の本邸へと顔を出す。晩年はそんな生活だったように思う。
 あれは今から二十年程前、爵位を譲ると彼が言い出す少し前のことだ。
 養父の元に一振りの剣が届けられた。旅の行商人から剣を受け取ったシルヴァンは泣き崩れ、それを見た私はひどく驚いたことを覚えている。後にも先にも彼が私の前で涙を見せたのはその時だけだった。
 それからしばらく塞ぎ込んでいた養父は、数節の後に突然家督を譲ると言い出した。彼の尽力あって北方の国スレンとの関係は改善され、しばらくは平穏な日々が続いていた。かくして彼の願いは聞き届けられ、私はゴーティエ辺境伯を名乗ることとなった。
 領主となった私に、シルヴァンは告げた。
「いつか俺が死んだら、あの剣を棺に入れて欲しい」
 当時は縁起でもないと聞き流した、遺言のような言葉を思い出し、私は亡き彼の部屋を尋ねた。

 若かりし頃は随分と浮き名を流したという養父は、しかし生涯を通して妻を持たず、身寄りは養子である私と私の家族のみだった。
 かつてのファーガス神聖王国で生まれ育った彼の人生は文字通り波乱万丈で、凡そ四十年前にフォドラ全土を巻き込んだ統一戦争では一度は故国に弓引いている。
 戦乱の最中、王都は戦火に焼かれた。火を放ったのは時の大司教であったと聞く。物心つく前のことで記憶にはないが、私は王都で暮らしていた平民の子で、火に巻かれて泣いていたところを養父に助けられたのだそうだ。近くに親が見当たらず仕方なくそのまま引き取ったらしい。実の父母の記憶はないが、私の体には火傷の痕が今も残っているし、未だに炎は苦手だった。普通なら孤児院へ預けるところを、何を思ったか、彼は自分の子として育てることにした。
 今は地図上から名前を消したファーガス神聖王国の主要な貴族たちは、そのほとんどが敗死した。その中にはシルヴァンの父である当時のゴーティエ辺境伯もいた。
 フォドラを統一した皇帝陛下は、今度は外交にも気を配らねばならず、シルヴァンをゴーティエ辺境伯に任じた。養父は故郷の土を踏むことさえ躊躇って辞退を申し出たそうだが、なにせ王国は壊滅し、人手は足りず、ほかに適任がいるはずもない。最終的に折れるよりほかなかった養父は幼い私を連れて故郷へと戻った。
 それから十数年、彼は領地をよく治め、隣国との関係を改善させた。養父は子どもから見ても見目の良い色男で、その上領主としての仕事ぶりも優秀だった。周囲からは幾度となく妻帯しないのかと問われていたが、彼はいつも曖昧に笑って受け流していた。
 叶わぬ恋をしているのだろうかと噂する人々もいた。例えばそう、皇帝陛下だとか、あるいはその伴侶たる御方だとかーー。 噂を耳にした当人は一頻り笑い飛ばした後、皇帝陛下の恋仇になるなど畏れ多いと冗談めかした。そんな父が一度だけ、忘れられない相手がいるのだとこぼしたことがある。道を違え、おそらくそれが交わることはないが、唯一の存在がいるのだと。

 棺に入れて欲しいと彼が願った剣は、シルヴァンの私室の棚に無造作に立てかけられていた。
 古いが良く手入れされた美しい剣だ。その柄には紋章が刻まれている。どこかで見覚えがある紋章だった。
 この剣がシルヴァンの元へ届いた頃から遡ること数年前、私はかつて大修道院であった士官学校へ通っていた。
 そこでは建国の歴史ーー裏を返せば統一戦争についても学び、養父と同じく王国の出身でありながら皇帝陛下に力を貸した剣士がいたことを知った。その剣士の紋章か剣に刻まれたものと同じだったはずだ。養父は共に戦った歌姫や異郷の女王の話をすることはあったが同郷の青年の話をしたことはなかった。それ故に問い質すことはなかったが、おそらくは特別な存在であったからこそ語ることをしなかったのだろう。
 他に遺品がないか確かめていると、彼の机の抽斗から何通もの手紙が見つかった。筆跡はシルヴァンのもので、そのどれにも宛名は書かれていなかった。
 勝手に手紙を読むのも気が引けたが、遺言の類があるか確かめる必要がある。そう考えて内容を検めたものの、読み始めてすぐに後悔をした。どれもこれもが他愛もない恋文だった。亡父の心に無遠慮に触れるようで、申し訳なさが先に立つ。それほどまでに飾り気のない、むき出しの感情が綴られていた。
 誰に宛てたのかもわからない、おそらくは届くことのなかった言葉だった。

「庭にガーベラの花が咲いておまえを思い出した。おまえの瞳の色に似ているから」「逢いたい」「死ぬ時は一緒だと約束したのに」「声が聴きたい」「おまえに名前を呼ばれるのが好きだったんだ」

 少し考えてから剣とともに手紙を養父の棺に入れてやることにした。彼が愛した人たちに再び巡り逢えるよう。
 フォドラの大地にはもう女神はいないが、彼の旅路に幸いがありますように。
 そう祈ることぐらいは、きっと許されるだろう。