珍しく正体をなくすほど酔っ払った上司を家まで送り届けると、出迎えたのは堂島の甥にあたる少年だけだった。実娘の菜々子はもう寝てしまったらしい。もうそんな時間だっけと腕時計を確認すると既に十時を回っていた。思ったより長く飲んでいたらしい。どうりで堂島も前後不覚になるはずだ。
鳴上は叔父を送り届けたことに礼を述べ、せっかくだから少し上がっていきませんかと言った。お礼にお茶の一杯でも出しますよ。そう言われてなんとなく家に上がってしまったが、断ればよかったかなと今更のように思う。堂島ほどではないにしろ足立も適度にアルコールが入っている。一度腰を落ち着けてしまうと、もはや帰ることすら億劫になってきた。
叔父を寝室に押し込めてからお茶を淹れるために台所に立つ鳴上の背をぼんやり眺めながら胡坐をかく。視線を落とすと卓袱台の上に何やらプリントが置いてあるのが目に入った。
【問1】次の空欄を埋めよ。
It is no use crying ( ) spilt milk.
「なにこれ、宿題?」
「ああ、それはバイト用です。家庭教師の」
「こないだは学童保育って言ってなかったっけ? バイトいくつ掛け持ちしてんの」
「ええと、今は三つですね」
「せっかくの貴重な夏休みだってのに随分がんばるねえ、勤労少年」
卓袱台に肘をつき、無造作に置かれたプリント用紙を眺めながら足立は半ば呆れて笑った。確か部活も掛け持ちしてるんだとか言ってなかったか。一見すると浮世離れした少年は、その実案外と所帯染みている。
急須と客用の湯呑みを座卓に置きながら、鳴上は苦笑を浮かべる。
「学校が休みだとバイトくらいしかやることないですから」
(ああ、探偵ごっこも終わっちゃったしね)
湯呑みを受け取りながら、足立は声には出さずに相槌を打つ。
春からこの田舎町を騒がせた猟奇殺人事件の犯人としてひとりの高校生が逮捕されたのはつい先ごろのことだ。それはつまり彼らの、大人には秘密の”課外活動”も終わったということである。もっとも足立がそれを知っているなどとは、さすがにこの少年も気づいていないだろう。
なぜ足立が彼らの秘密を知っているのか?
その答えは単純明快で、彼こそが猟奇殺人事件の真犯人だからだ。ついでに言えば、その後も続いた誘拐事件を生田目という男に嗾けた張本人でもある。もっとも生田目は誘拐犯ではなく殺人犯になるはずだった。己を正義と信じた男が実は人を殺していたと知ればさぞかし絶望することだろう。足立としてはそれが見たかったのだが、失踪した子どもたちはテレビの中で殺されることなく戻ってきてしまった。
いったい誰がこのゲームを邪魔しているというのだろうか。捜査という名目で探りを入れているうちに意外と身近なところに答えを見つけた。即ち、鳴上悠という名の少年である。
足立と同じように鳴上もまたテレビの中に入る力を持っている。その事実は足立にとってはひどく厄介な話だったが動向を探りやすいという意味では利点でもあった。
最終的には、ちょっとばかり趣向を変えてしまえばいいのだと結論付けた。鳴上たちが必死に失踪者を救い出すほどに生田目は自分の行いが正しいのだと勘違いをする。そうしてテレビの中に人を落とす。そのいたちごっこを高みで見ているのも退屈しのぎにはなった。
事件はなにひとつ解決してはいない。
またマヨナカテレビに誰かが映れば、きっと生田目は動き出す。そうすれば彼らの束の間の休息も終わる。この退屈な日常がまた騒がしくなるというものだ。
「まあでもバイトもほどほどにしときなよ。学生の本文は勉強なんだからさ」
「しょっちゅうサボってる不良刑事に言われても」
「言っとくけど僕は署内きっての頭脳派だよ! だからサボってるように見えてる時はサボりじゃなくて脳みそを活性化させてるだけなの」
「はいはい」
「ほら、It is no use crying over split milk. こぼれたミルクを嘆いても無駄だ。受験英語なんか完璧」
足立は得意げにペンを手に取りプリント用紙の括弧の中にoverと綴った。英文法など習ったのはもう何年も前の話だけれど意外と覚えているものだ。
「たしかに意外なほど発音きれいですね。っていうか、勝手に書き込まないでくださいよ。せっかく作った宿題どうしてくれるんですか」
「まあこれぞ、こぼれたミルクを嘆くべからずだよ。やっちゃったものはしょうがない。ごめんで済んだら警察はいらない」
「現職警察官が何言ってんだか」
その現職警察官が殺人犯だと知ればこの子どもはどんな顔をするのだろうか。驚愕か、軽蔑か。怒るだろうか、泣くだろうか。どちらにせよこの人形じみて整った顔を歪めてやりたいという衝動は確かに足立の中にある。
(もったいないからまだお楽しみは取っておくけど)
「だって時間は巻き戻らないんだよ。覆水盆に返らずってね。踏み外したら後は真っ逆さまに落ちるだけ。それが現実のルールってやつだ」
「いやに実感がこもってますね」
何が面白かったのか、鳴上は口の端を持ち上げて控えめに笑った。基本的に無表情な少年だが笑えば年相応に幼くも見える。そのなめらかな頬に手を触れてみた。抵抗する気配はないので案外鳴上も乗り気なのかもしれない。
「今まさに踏み外してるとこだからね」
耳元で囁くと目蓋を閉じるあたりはかわいいもんだと思う。少しかさついたくちびるに口づけて軽く歯を立てるとびくりと肩が震えた。何度キスしてももの慣れない初々しい反応は支配欲と嗜虐心を率直に煽った。
(案外すれてないなあ、この子)
なのに何故自分のような人間にひっかかるのだろう。舌を差し入れて歯列をなぞったりしながらそんなことを考える。もっと要領の良い子どもだと思っていたのだが、どうやら買いかぶりすぎだったようだ。
鳴上は息継ぎの合間にむっとしたような顔をして足立を見つめた。考えていることが伝わったのだろうかと内心どぎまぎした。
「……踏み外してるんですか、これって」
「は? 逆に踏み外してなかったら何なの」
「だって嫌だったら抵抗してると思いません? どう考えたって俺の方が腕力ありますよ、足立さんより若いし運動部だし」
「うっわ、どうせ僕なんか高校生からみたらおっさんだよ」
何が言いたいのかわからないが、突然貶された足立は顔をしかめた。
「しかもうだつの上がらない、寝癖もなおさないズッコケ刑事ですよ。それを承知で合意の上なんだから、踏み外してるってことにはならないんじゃないかな」
足立は目を丸くした。一瞬言われている意味が本気でわからなかった。ようやく言語野が繋がって、こいつ馬鹿じゃないのかと本気で思った。
(まったく、これだからガキってやつは!)
この退屈しのぎの、非生産的な関係に、恋だの愛だのと名前をつける気なのだろうか。冗談じゃない。
「あのねえ、いくら合意だって主張しても、きみは未成年で僕は大人なんだよ。高校生に手を出したなんてバレたら僕なんか即クビだよクビ。淫行の現行犯で懲戒免職」
「その前にたぶん叔父さんに殴られますけど」
「まったくだね!」
「声大きいです。叔父さん起きたらどうするんですか」
「……その時は潔く堂島さんに殴り殺されるよ」
いい加減うんざりして足立はため息を吐く。
「言っておくけど、きみが僕を好きだなんてただの勘違いなんだから不用意にそういうこと言うもんじゃないよ」
いささか冷たく言い放つと鳴上はあからさまに傷ついた顔をした。今にも泣きそうだ、と思った瞬間心臓がずきずきと痛んで足立は顔をしかめた。相手を傷つけたことでどうして自分まで傷ついているんだろう。ふと疑問がよぎったけれどそれ以上考えるなと頭のどこかが警鐘を鳴らした。
「じゃあ、そろそろ帰るよ、おやすみ」
それ以上鳴上を見ないようにしながら立ち上がる。勝手知ったる他人の家だ。そそくさと背を向けて足早に玄関へと向かった。
「足立さん」
その背に縋るような声をかけられても振り返ることはしない。足すら止めなかった。明確な拒絶に鳴上がかすかに息を飲むのが聴こえた。
「鍵、かけときなよ。最近は物騒だから」
それだけ言い置いて逃げるように外へと出た。外はとうに暗くなっているが風がないせいで蒸し暑かった。無性に煙草が吸いたくなったが生憎と切らしている。舌打ちをして、足立は夜道を歩き始めた。
今にも泣きだしそうな鳴上の顔が脳裏に焼き付いて離れない。
(だってどうしようもないじゃないか)
足立は胸中で吐き捨てた。覆水盆に返らず。こぼれたミルクを嘆いてもしょうがない。一度踏み外したら取り返しなんかつかないし、時間は巻き戻せない。それを誰よりもよく知っている。
――もしも、いちばん最初にあの子に会っていたら、結末は変わっただろうか?
ふとそんなことを考えて、あまりに陳腐な想像に笑った。そんな仮定法過去には何の意味もない。自分はきっとあの子には何の興味も抱かなかっただろうし、よしんば興味を持ったところでテレビに落とすのが彼になっただけだろう。
だからそんなことを考えるだけ無駄だった。
「何もかも全部、もう手遅れなんだよ」
もしかしたら今ごろひとりで泣いているかもしれない子どもに向かって、そう呟いた。
