東巻習作

 香ばしい匂いにつられるように目が覚めた。
 まだ上手く開かない目蓋をこすって枕元の時計を引き寄せる。時計の針は十時を少し過ぎていて、思ったよりも寝坊をしたと眉をひそめながら、巻島は身を起こす。
 となりで眠っていたはずの男の姿はなかった。おそらくとうに起床して、いつ起きてくるともわからない巻島のために朝食を用意しているのだろう。巻島もそれほど寝起きが悪い方ではない。けれども二人で縺れ合うようにベッドに転がりこんだ夜は泥のように眠ってしまい、怠惰な朝を迎えるのが常だった。その結果、いつからか朝食の支度をするのは東堂の役目になっていた。もともとは和食派だなどと言っていた彼は、いまでは時折訪れる巻島のためだけに、近所のベーカリーでパンを買ってくる。サラダを作り、オムレツを焼く。巻島の好みのコーヒーを淹れる。
 男子大学生の台所に置くにはいささか不釣り合いなアンティーク調のコーヒーミルは、東堂のリクエストで誕生日に贈ったものだった。けれどそんなものが欲しいなどと東堂が言いだしたのは、いつだったかぽろりと零した「ちゃんとしたコーヒーが飲みたい」などという巻島の我儘を覚えていたせいだろう。アンティーク調と言ってもそれほど値が張る物でもないし、巻島にとってはさして懐を痛める出費でもない。だからそうやって巻島に買わせることで変に気を遣わせまいとしたのだろうということくらいは巻島にも察せられた。
 東堂は何につけてもそつのない、器用な男だった。人付き合いが苦手で、口下手な自分とはまるで正反対だ。だから、そんな風に献身的な愛情を見せつけられるたびに、巻島はこそばゆいような申し訳ないような気持ちになるのだが、そう言うと東堂は「巻ちゃん、俺は楽しくてやっているのだ」と笑ってみせた。それのどこが楽しいのかあいにく巻島には理解ができないが、東堂のしまりのない笑顔を見ているとまあいいかという気になって、結局恋人のしたいようにさせている。
 電動のものより手間のかかる手動のミルを贈ったのは、素直になれない巻島の意趣返しのようなものではあった。面倒で手間がかかるだろうと笑ってやりたかった。しかし東堂は面倒がるどころか、挽き方や淹れ方を試行錯誤して、いつの間にか巻島の好みにコーヒーを淹れるようになった。今では自分で淹れるものよりも東堂のコーヒーが恋しくなって、何だかんだでこの男には負けっぱなしのように思えてひそかに敗北感を味わっている。
 取りとめもなくそんなことを考えていると、本人よりは素直な胃が空腹を訴えて、苦笑が浮かぶ。
 気だるさの残る身体を引き摺るようにしてベッドから抜け出して手早く服を身に付けた。リビングに出ると、気配を察知したのかひとつづきになっている台所から東堂が顔を覗かせる。
「おはよう、巻ちゃん。いいタイミングだな、ちょうど卵が焼けたところだ」
 座ってくれと促されるままにテーブルの椅子を引く。駅から徒歩二十分という立地のせいか、東堂の部屋はそう手狭でもない。東堂にとっては駅から多少遠いというのも何ら不便なことはないので、広さの方を重視したのだろう。なにせロードレーサーは場所をとる。朝食がテーブルに並べられるのを待ちながら、巻島はリビングに置かれた彼のリドレーを眺めた。スポーツ推薦で進学した東堂と違い、巻島はすっかり競技からは遠ざかってしまった。おそらく今の自分では東堂とは勝負にならないだろう。高校三年のあの夏が文字通りのラストクライムだったのだ。
 朝早く巻島が眠っている間に買ってきたパンをテーブルに置きながら、巻島の視線を辿った東堂はその先に己の愛車を見つけて頬を緩ませた。
「なぁ巻ちゃん、今日は良い天気だし、どこかに登りに行こうか」
「馬鹿言うなショ」
 一言で却下する。
 そもそも自転車など持ってきているわけがない。呆れてため息をついてみせても、東堂は気にする風もなく皿を並べながら勝手に話を進めていく。
「心配するな、スペアバイクなら貸せるぞ」
「いらねーし。だいたい今の俺がお前と一緒に登れるわけねえっショ」
 この男と並んで走ることができるのは自分の特権だと思えたのももう随分と昔のことのように思える。今はもう隣りどころか追いつくことだってできないだろう。自分の選択を後悔したことはなかったが、こうした瞬間にほんの少しの寂しさを感じるのも事実だ。
 けれども何でもないことのように東堂が笑う。
「巻ちゃんと一緒に走るなら、勝負なんかしなくたって楽しいだろうと思うよ」
 二人分のマグカップにたっぷりのミルクを注いで、東堂は向かいの椅子に座った。本来ブラックを好む巻島も朝はカフェオレの方が落ち着く。自分のカップには砂糖を二杯。肘をついてテーブルの向かいで、スプーンを持つそのなめらかな手をじっと眺める。東堂は器用な男だった。その手がハンドルを握るのを、ギアをシフトさせていくのを隣りで見るのが好きだった。今ではその手がどんな風に自分に触れるのか、髪を撫でるのかを知っている。自分のためにサラダを取り分けたり、果物の皮を剥いたりすることも。共に並んで競い合っていた頃には知り得なかったことだ。だから、決して寂しいだけではなかった。
「まあ巻ちゃんが嫌ならやめておこう。映画を観に行ってもいいし、部屋でのんびりしているのも悪くない」
 巻ちゃんと一緒なら俺は何だって楽しいよ。
 不意打ちのような言葉に耳が熱くなるのを感じながら、誤魔化すようにコーヒーを啜る。精一杯しかめつらをしながら、どうやって意趣返しをしてやろうかと思考を巡らせる。先に惚れた方が負けとは言うが、負けっぱなしは性に合わないのだ。
 今度訪れる時に晴れていたら自転車で来てみようかと胸の内でこっそりと計画する。そうして東堂にサンドイッチでも作らせて、コーヒーを魔法瓶につめて、近場のなだらかな丘でも登ってみるのもいい。そこまで考えてから、これじゃサイクリングどころかピクニックっショと、巻島は傍らの恋人に知れぬようにひそやかに笑った。