煙が目にしみる

 晴れて二十歳の誕生日を迎えたその日、自販機の前に立っていた。鳴上にはどうしても欲しいものがあったのだ。
 記憶にある名前を頼りに、煙草屋の自販機にならぶパッケージを見比べる。探していた銘柄はすぐに見つかった。鳴上はほっと息を吐いてから、すぐに自己嫌悪に陥った。三年経ってもふとしたきっかけであの男の仕草や言葉を思い出す。そんな自分が未練がましくてみじめで嫌になるのに、まだ彼のことを忘れていないのだと確かめずにはいられない。ため息を吐きながら小銭を入れてボタンを押す。取り出し口に転がってきた小さな箱を手に取った。フィルムを剥いて一本取り出し口に銜える。
 煙草屋の塀に寝そべっていた猫がナァと鳴いた。相変わらずここはのどかだ。
 毎年夏休みには八十稲羽に帰ってくることにしている。
 たった一年しかいなかったけれど鳴上にとってこの町は「帰る場所」という感覚が強い。もともと両親の仕事柄同じ土地に住み続けることは稀で、どうせすぐ出ていく場所にはいつだって愛着なんてなかった。だけどこの町だけは今までとは違った。もうきっと二度と経験できないような一年を過ごして、大事な家族や仲間ができて、それからたぶん一生忘れられない恋をした。
 あの夏の土砂降りの雨の中、ここで初めてのキスをしたのだ。その時のことを今もよく覚えている。忘れようにもあまりにも鮮烈だった。
 足立の事を意識するようになったのはそれからだ。いきなりあんな真似をされたのに不思議と嫌悪感はなかったが、ただ彼のことが気になるようにはなった。意識して注意深く見ていると、足立は時折ひどく荒んだ目をしていて、それを誤魔化すようにへらへらと笑った。その間の抜けた笑い顔を見た瞬間に恋に落ちた。
 それが健全な恋ではないことなど鳴上にもわかっていた。だから誰にも言わずにいたのだ。本当にこれを恋と呼んでいいのかは鳴上自身にも疑問だった。自分たちの関係はどこか歪で正しくはない。けれど何度自問しても、このどうしようもない歳上の男に対して覚えるのは「好きだ」という感情だったのだ。
 君が僕を好きだっていうのは勘違いだよと、他でもない足立当人にすら否定された。君は人に言えない秘密に酔ってドキドキしてるのを恋だと勘違いしてるだけ。だから君のそれは、はしかみたいなもんだよ。どうせ都会に戻ったら僕のことなんか忘れちゃうさ。そう言いながらもしっかり手は出してきたのだから、やっぱりろくでもない男だった。
 勘違いだったらどれだけ良かっただろうと後になって何度も思った。忘れられたらどれだけ救われたんだろう。
 一度だけ、足立にあの事件のことを全て打ち明けてみようかと思ったことがある。そうして彼をテレビの中に連れていけないだろうかと思った。あの中に連れていけば、足立が抱え込んでいる鬱屈や荒んだ目の理由がわかるんじゃないかと考えてたのだ。馬鹿なことだとわかっていたけど、それくらい足立のことが知りたかったし、自分のことも知ってほしかった。もっとも足立が自分を見てくれてなどいないことも知っていたので、打ち明けることはなかったけれど。――今にして思えばとんだ笑い話だ。
 結局、鳴上は冬のはじめに盛大に失恋した。花村の時もたいがい酷かったとは思うが、鳴上の場合はもっとみじめだった。はじめて恋をした相手は、人殺しで、救い難いほどガキで、まったく同情なんかできなかったし、おまけに鳴上のことを憎んでいた。殺してやるとまで言われたのだ。世の中クソだなんていうのはこっちの台詞だ。何よりみじめだったのは、そこまで言われても足立のことをどうしても嫌いになれなかった自分自身だった。
 くわえた煙草の先端に火をつけて深く煙を吸い込んだ。予想通り苦くて不味い。慣れない煙に咳込みながら、こんなもの吸う奴の気がしれないと胸中で毒づいた。漂う煙の匂いだけが忌々しいほど甘ったるい。
(まるでバニラみたいな)
 そう思った瞬間、涙が溢れてぼろぼろとこぼれた。あの日と違って今日はよく晴れている。けれど涙に滲んで、町並みは影の中にあるように輪郭がぼやけて見えた。
 あの甘い煙の匂いがする手が、時折ひどく優しかったことを思い出す。この町でできた大事な家族を失いそうになって途方にくれていたときにただ黙って頭を撫でてくれた。眠れるまで手を握っていてくれた。俺のことが憎いならなんであんな風に優しくしたんだ。今は目の前にいない相手を罵りたくてしょうがなかった。おかげで未だにあんたを憎むことも忘れることもできないままじゃないか。
 こんな晴れた日に泣きながら煙草を吸っている男なんてみっともないのはわかっていたけれど涙は止まらなかった。
 ぜんぶあんたのせいだ。
 そう心の中で罵っても慰めてくれる手などもうどこにもなくて、鳴上は声を殺して泣き続けた。