そして二人だけになった

 むかしむかし、世界は一度壊れてしまった。
 気高く優しい王子様が、月に殺されてしまったから。
 <大いなる厄災>を押し返すことができずに、賢者の魔法使いと呼ばれる者たちはそのほとんどが石になった。けれど、あの夜の惨劇は、始まりでしかなかった。この世界を壊したのは<大いなる厄災>ではなく、魔王と呼ばれた男である。愛しい養い子を月に奪われた魔王の嘆きはすさまじく、精霊は彼の絶望に引き摺られて狂乱した。若い魔法使いたちは荒れ狂う精霊の呪詛によってことごとく石になり、それを庇おうとした年長者の魔法使いも次々に倒れた。約束を違えた魔法使いは、魔力を失う。千年を生きる魔法使いの肉体はマナによって維持されていた。それを失えば、畢竟、身体から朽ちていく。世界で二番目に強かった魔法使いは、そうやって石になった。
 オズの嘆きは呪詛そのものだ。彼は己の魂を媒介にして月を呪い、月と共に砕けた。だから、<大いなる厄災>はもうこの世界には存在しない。壊れた月は、地の果てに堕ちた。舌に刻まれた黒百合の紋章は消え、あれ以来、賢者の魔法使いとして招かれる者はいなくなった。
 賢者と呼ばれていた誰かは、絶望と嘆きを残して何処かへと消えてしまった。

 その混沌の中で、オーエンは生き残った。
 人間も魔法使いも動物も大半が死に絶えた世界は、孤独で、静かで、暗くて寒い土の中のようだった。
 オーエンが荒野と廃墟をさまようようにぼんやりと時を過ごしているあいだに、わずかに生き残った人間たちは、やがて身を寄せ合うように集落を作りはじめた。集落はそのうちに町になり、五百年も経てば国になった。
「人間ってほんと、諦めが悪いよね」
 宿の一室から街を見下ろして、オーエンは口端をかすかに歪めた。一時は絶滅してしまいそうだったのに、今ではすっかり人も増えた。かつてここが『栄光の街』と呼ばれていた頃には及ばないが、通りは陽気な賑わいを見せている。
「そこが人間のいいところなんだろ」
 朗らかな声に、オーエンはゆっくりと後ろを振り向いた。
「……騎士様」
 そう呼んでしまうのは昔からの癖だった。戸口に立つ赤髪の青年――カインは軽く苦笑を浮かべてみせた。甘い蜂蜜色の右眼に、わずかな諦観を滲ませて。
 彼はもうとっくの昔に騎士ではなくなったし、そもそもこの世界には騎士と呼ばれる存在はいなくなった。それはわかっていたけれど、オーエンにとって、カインは今でも騎士だった。馬から降りても、箒に乗って飛んでも、片眼を抉り取られても、彼の魂の在り方を変えることはできない。そのことを誰よりもよく知っている。
 窓から吹き抜ける穏やかな風がカインの髪を揺らし、前髪に隠れた柘榴の瞳がちらりと見えた。かつてはオーエンのものだった毒々しい紅は、この男の眼窩におさまっていれば澄んだ星のように光るのだから不思議なものだ。
 カインは腕に紙袋を抱えていた。中央に置かれた小さなテーブルに荷物を置いて、紙袋から焼き菓子を取り出す。小麦とミルクの甘い匂いがした。
「食うだろ? おまえが好きそうだと思ってそこの通りで買ってきたんだ」
「ああ、そう」
 気のない返事にも慣れてしまったのだろう。カインは気にした風もなく、オーエンを手招きした。紅茶でも淹れてやるから、こっちへ来いよ。そう促されて、断る理由もなかったので、素直に席につく。やがて差し出されたティーカップを受け取ろうとした時に触れた指先は氷のように冷たかった。
 命の灯火が消えた、虚ろな抜け殻の体温。
 最初の頃は、その冷たさにいちいち戸惑っていたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。それでも、この男に触れるたびに思い知る。自分だけがこの壊れた世界に取り残されてしまったのだと。
 眼前に佇むのは夢の名残りであり、未練と後悔の残滓に過ぎない。
 なぜなら、五百年前のあの夜、カイン・ナイトレイは<大いなる厄災>に殺されたのだ。この男は、あろうことかオーエンを庇ってあっけなく石になった。常々口にしていたとおり、カインは仲間であり自分よりも強い魔法使いであるオーエンの盾になろうとした。馬鹿なことを、と止める間もなかった。
 何かがひび割れる音がして、覆いかぶさるように倒れてきた男を抱きとめた時には、自分と揃いの色をした目に光はなかった。鼓動も聞こえない。何もかもが手遅れだった。
 だから言ったじゃないか。弱いくせに身の程もわきまえず、誰かを庇おうなんてするから、こんなことになるんだ。
 そう嘲笑してやろうとして、開いた口からは嗚咽が漏れていた。喉が引き攣れたように痛むのは、自分が泣き叫んでいるからだと気づくまでに時間を要した。
 だって、こんな終わりなど認められるはずがない。
 けれど、どれだけ強い魔法使いであっても、死者を生き返らせることはできない。砕けたマナ石に魂を呼び戻すことなど、オズであっても不可能だ。不可能だったからこそ彼の絶望が世界を壊した。
 あの夜、オーエンにできたのは、カインの魂を繋ぎとめることだけだった。それだってある意味では奇跡だと言えるのかもしれない。かつてスノウがホワイトを繋ぎとめたのと同じように、亡者となったカインをこの世界に縛り付けた。双子の魔法使いと違って自分たちの魂は似ても似つかないものだったから、本来ならば繋ぎ留めることなどできるはずがなかった。最強と謳われたオズですら、砕けた王子様の魂を呼び戻すことはできなかったのだ。けれど、かつて無理やり奪った左目が媒介の役割を果たしてしまった。
 かつてのホワイトと同じように、今のカインはオーエンの魔力によってこの世に繋ぎ留められている。オーエンが死ぬか、気まぐれに手を放してやるまで、どこにも行けないのだ。
「かわいそうな、騎士様」
 空になったティーカップを置いて、オーエンは口の端を歪めて笑った。
 亡霊となった騎士は、オーエンに呪われたようなものだった。なんて哀れで、滑稽なのだろう。守るべきものも守れず、無様に命を落とした挙句、死してなおオーエンに縛られている。
「悪い魔法使いに捕まって、天国にも行けないなんて」
 皮肉交じりの嘲笑に、カインが怒ってくれればいいのにと思った。怒りでも憎しみでもいい。そういうものを向けられたかった。おまえのせいだと詰られたら、きっと胸のつかえが取れて、息がしやすくなるだろう。
(そうだよ、全部、僕のせいだ。きみの不幸は、全部)
 けれど、カインは静かに微笑むだけだった。大きな手のひらが伸ばされて、オーエンの頬にそっと触れる。剣を握り込んだ証のように固く頼もしい手のひらは、しかしかつての温もりを失って、冷たい石でできているように思えた。
「そんな顔するなよ」
「……」
 どんな顔をしているのか、自分ではわからなかった。痛みを堪えるような目で見つめられるほど、情けない顔をしているのだろうか。亡霊に憐れまれるほど落ちぶれてはいないと噛みついてやろうかと思ったけれど、穏やかな瞳を睨むうちに、そんな気も削がれてしまった。
「おまえに泣かれると、どうすればいいのかわからなくなる」
「……泣いてなんかいないだろ」
 両の目は痛いほど乾いている。涙など滲んでいないはずだ。そもそも、泣く理由なんて何もない。今のオーエンは、誰よりも自由だった。邪魔だった魔法使いたちはみんな石になり、オーエンをおびやかす者はいない。
 それに、微睡みの中にいるような旅路ももうすぐ終わる。
 魔法使いは自分の余命がわかるというのは本当だった。オーエンは近いうちに石になる。最近は一日の大半を眠って過ごすことも多かった。身体のどこかに穴が空いていて、そこから命が零れだしているような気がした。
 砂時計の砂が落ち切るように、この命がすべて零れてしまった時に、自分は石になるのだろう。そしてその時は、瞬く間に訪れるはずだ。オーエンの魔力に繋がれたカインも、おそらく気づいているだろう。もともと自分の命を惜しむような男ではないから、ようやく解放されることに安堵しているのかもしれない。
 それが何だか面白くなくて、オーエンは席を立とうとして腰を浮かせた。その途端、目の前が暗くなり、ぐらりと身体が傾く。
 ここまでガタが来たかと舌打ちが漏れる。
「オーエン!」
 心配そうに名前を呼ばれて、笑ってしまいそうになった。北の魔法使いが亡霊に案じられるなんて、とんだお笑い種だ。

 床に倒れ込む前に、抱き留められていた。意識を飛ばしていたのは一瞬のことだったらしい。身体を支えようとして引き倒してしまったテーブルから落ちた茶器は粉々に砕けていた。
 カインの腕に縋るように身を預けなければ、上体を起こすこともできない。
 こんなところで死ぬのかと、不思議な感慨が胸を満たした。死ぬ時はきっと誰か他の魔法使いに殺されるのだろうと思っていたのに、ただ老衰で死んでいくなんて、想像もしていなかったのだ。
「……さいごぐらい、気の利いた恨み言でも言ってみたら?」
 死んだ時には遺言のひとつも残せなかった男に問うてみる。カインは困ったように笑った。
「恨み言なんてない」
「偽善者め」
「おまえなあ……」
 相変わらずかわいくない、と呆れたようにため息を吐かれた。
「……そりゃあ俺だって、最初はどうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだとは思ったさ」
 何も守ることができずに死んだ挙句、死してなおその失態を突き付けられたのだ。悲しくて悔しくて恥ずかしくて消えてしまいたかったのだとカインは続けた。その言葉とは裏腹に、声音は明るく清々しい。
「だけど、俺が死んだのは半ば自業自得みたいなものだし、おまえを恨むのは筋違いだろ。まあ正直、こんなに長い付き合いになるとは思ってなかったけどな」
 おまえのことだからすぐに飽きて、俺のことなんか忘れちまうと思ってた。
 囁きが耳を擽る。頽れた身体を抱き寄せる腕は力強かった。温もりはなく、心臓の音も聞こえないけれど、不思議と寒さは感じない。こうして触れることも、話すこともできるなら、死者と生者の境はどこにあるのだろうか。
(簡単な話だ。死者は楔を喪えば、この世に留まることができない)
 オーエンの魔力で無理やり繋ぎ止められた亡霊は、オーエンが死んだら幻のように消えてしまうだろう。
 指ひとつ動かすこともできないまま、オーエンはカインの腕にもたれかかり、夢の終わりを待った。
 とおい昔、一度だけ今と同じように抱きしめられたことを思い出す。まだ年若い魔法使いは夢の森の瘴気にあてられて、オーエンを何かと間違えて抱き寄せた。その時の温もりを、五百年経っても覚えている自分に呆れた。
「なあ、オーエン」
「……なに?」
「俺だってこんな結末、やっぱり知りたくなかったよ。知らないまま死んでいたほうがきっと幸せだった」
 だけど、と囁く声が聞こえる。
 大きな手が背を撫でる。幼子をあやすように。つられるように瞼が重くなり、深い眠りが訪れる予感がした。
「おまえのおかげで、ひとつだけ、俺は自分の言葉を違えずに済んだ」
「……」
「おまえだけ、置いていかない」
 そのための五百年だったのだと、ひとつの曇りもない声で告げられて、乾いた唇が笑みのかたちに歪んだ。
「はは、……ほんと、馬鹿みたい」
 どこまでも憐れで滑稽な男に、せめて何かを残してやりたかった。そんな衝動に駆られたのは生まれて初めてのことだった。もう死んでしまった男には、自分のマナ石を食わせてやることもできない。そもそも、オーエンが死んだらこの男も道連れだ。
「じゃあね、騎士様」
 もしも、別の世界があるのなら、この男が自分に見つかりませんように。
 せめてもの手向けにそう祈ってやることにした。そうすればきっと、カインは光の下でまっとうに生きていけたのだろうから。
「またな、オーエン」
 それなのに、馬鹿な男がそんなことを言うものだから、呆れたように笑いながら、オーエンは瞼を閉じた。