朝のあいさつ

 閉じた目蓋の裏で、白い陰が気まぐれに翻って揺れた。
 那岐は薄く目を開きながら鬱陶しげに顔をしかめる。東向きの窓に射し込む陽光がカーテンを透かして床に踊っていた。夜気を払うような強く白い光は、那岐にとっては些か暴力的だ。
 布団に包まったままのろのろと腕を伸ばし、手探りで引き寄せた目覚まし時計の短針は八を少し過ぎていた。朝に弱い那岐の、休日の起床時間としてはまだ早い。重い目蓋をもう一度落しても罰は当たらないだろう。けれどもひらりひらりと揺れる光に耐え切れずに、那岐はしかたなしに緩慢な動作で身を起こした。光の明るさに目を慣らすように幾度かゆるく瞬いてから、布団を押しのける。ベッドのスプリングを軋ませて降りたフローリングがひんやりと素足に心地良い。その冷たさにほんの僅かに意識が覚醒する。
 そうだ、今日は日曜日だった。けれど休日だろうと、この時間ならば風早はとっくに起きているだろう。千尋はどうだろう? まだ眠っているんだろうか。
 まどろみを引き摺るようにして、那岐は部屋を出た。
 顔を洗うために階段を降りていると、味噌汁の匂いが嗅覚を刺激した。
 廊下に面した台所の入口で足を止める。明かり取りの窓から燦々とこぼれる陽の光で、台所は眩しいほどに明るかった。思わず目を眇めた那岐の視線が、背の高い同居人を捉える。エプロンをつけた風早はまな板の上の野菜を刻んでいた。火を消したガスコンロに掛けられた小鍋からはゆるく湯気が上がっている。トマトやきゅうりや水菜を、リズミカルに刻む包丁の音が静かな台所に響いた。那岐は欠伸を噛み殺すふりをしながら、十五センチほどの刃渡りのそれを器用に操る手をじっとみつめた。
 鈍色の刃物はトマトの赤い皮を裂き、あっという間に櫛切りにする。
 かつて千尋を守るために剣を振るっていたその手には、いまやステンレスの包丁が握られているのだ。改めてその事実を確認して、滑稽さに笑いそうになった。
 風早の手は敵を斬る代わりに、野菜の皮をむいて魚を三枚におろして鶏肉を切る。そうして千尋に食事を与え、慈しみ、育ててきた。異境の地に流れついてからは、それもまた千尋を守るということだった。どこにいても結局のところ、この男は千尋を守るために生きている。きっと死ぬまでそうやって千尋を守るために生きるだろう。それが少しうらやましいような、馬鹿らしいような心地がして、那岐は笑う代わりに小さくため息を吐いた。
「おはよう、那岐。今日は本当に、いつもより早いね」
 ぼんやりと突っ立っていた那岐にはとうに気づいていただろう風早は、切った野菜を水にさらして包丁を置いてからようやく振り返った。あと三十分遅かったら叩き起こすところだったけど。そう嘯いて笑う風早が、愚図る自分を言葉通りに無理やり起こしたことなど一度もない。けれど風早の気配に気づいてしまえば、巡らない血に苛立ちながらも目を覚ましてしまうのが那岐の常だ。カーテンから差し込む陽の光のような男だと思う。目の前でちらちらと揺れる癖にとらえどころがない。
「ほら、ぼっとしてないで顔でも洗ってきてください」
 ボウルに割り入れた卵を菜箸で攪拌しながら、投げられる言葉は咎めるよりは苦笑に近い。
「……千尋は?」
 風早の言葉は無視する格好で、那岐は首をかしげた。意識を凝らしてもダイニングに人の気配はない。けれども通り過ぎた千尋の寝室はドアが開け放たれ、中には誰もいなかった。
 フライパンを火にかけながら、風早は得心がいったように頷いた。
「ああ、千尋ならお遣いだよ。牛乳を切らしてたの忘れてて」
「ふうん」
 千尋の所在さえ確認してしまえば、あとは続ける言葉もなかった。ただ黙って、熱したフライパンに油を敷く男を見ていた。
 あと数分もすれば千尋が帰ってくるだろう。
 ダイニングテーブルには、白いご飯と味噌汁とサラダと卵焼きが並んで、弱く湯気を揺らしているだろう。白い光の溢れる食卓を三人で囲んで、何でもない日曜日が始まるのだろう。
 ――大丈夫。千尋はちゃんと守られている。昨日も今日も、たぶん明日も。
 那岐はひそやかに笑いながら目を閉じた。眠るためではなく、この穏やかな静寂の中に千尋が在る幸福を確かめるために。そうしてゆっくりと目を開けて、ただ守るために生きる男を見上げた。
「おはよう、風早」