つまくれなゐ

 佐助の雇い主であるところの真田源次郎幸村は、先ほどから気難しい顔をして唸っている。
 まだ暑さの厳しい晩夏の頃の上田城でのことである。濡れ縁に腰をおろして隣りの団子に見向きもせずに手元の文を睨みつけるという、おおよそ幸村らしくもない有様に、煎茶を淹れながら佐助は思わず問うた。
「ええと、どうしたの旦那。腹でも痛い?」
「うん? いや、おれはいたって元気だが」
「なら何か悩み事でもあるわけ? 眉間にものすごい皺寄ってるけど」
 訊いてしまってから、ほとんど母親の小言のようだなと我ながら思わないでもない佐助だ。しかし幸村はさして気にした様子もなく、ひとたび瞬いてから佐助を見た。いくさ場では武田の一番槍として、紅蓮の鬼とも虎和子とも仇名される男であるが、そうしてきょとりと目を丸くする様はいっそあどけない。
「そうだな……、悩むというのとは少し違うかもしれぬが、どうにも解せぬことがあるのだ」
 言って、幸村は手に持った文に目を落とす。
 その書状に何やら原因があるだろうとは薄々気づいていた佐助だが(親の仇のように睨んでいるので誰でも気づくだろう)黙って先を促した。
「独眼竜殿に文を頂いてな」
「へえ、竜の旦那、元気だって?」
「うむ。政務に追われてはいるが息災であるとのことだ」
 かの奥州の独眼竜は、破天荒な印象とは裏腹にずいぶんと筆まめである。それは一時の同盟を結んだ武田の配下、つまりは幸村相手にも遺憾なく発揮された。
 片や国主、片や一武将に過ぎないが互いに好敵手と認めた間柄であれば、時節の折々にこうして文が届く。いくさ場での獣のような荒々しさとは程遠い、涼やかな流水の如き達筆でしたためられた消息文は、時候の挨拶から始まって近況を綴り、相手を気遣う言葉で締められた。自他共に認める無骨者の幸村は、硯を磨るのも覚束ないものの、悪筆に誠意ばかりを載せて返書とした。そのような遣り取りを見るにつけ、つまりはこうしたものを平穏と呼ぶのだろうと佐助は考える。
 しかしその独眼竜自筆の文こそが、眉間の皺の原因のようである。
 何か罵る言葉でもあったのかと問えば、幸村は否と首を振った。
「そうではないのだ。ただ、この意味がよくわからなくてなあ」
 幸村が指し示したのは、文の末尾、署名と花押が記された後に追啓、と続くところである。
「何々?『手中のつまくれなゐを眺めていたら、あんたを思い出したので筆をとった』?」
「一緒に押し花も頂いた」
 開いた幸村の掌には、水気を失ってなお鮮やかに紅い花がおさまっている。ああ、と佐助はひとつ頷いた。
「鳳仙花だねえ。ちなみに、つまくれなゐ、はそれの異名ね」
 忍である佐助は草花に詳しい。無論愛でる為ではなく、それらを薬とし、あるいは毒とする手法が忍の術だからである。幸村にもいくらか見分け方は教えたが、結局彼が覚えたのは食えるか食えぬかの違いのみだった。はじめから情緒のわかる男だとは思ってもいないので、出来の悪い教え子にさしたる不満も覚えなかったが。
「やはり『つまくれなゐ』とは花の名であったか。となると益々解せぬが……政宗殿は何ゆえ花を見て、おれを思い出したのだろうか」
「あー……紅いからじゃない?」
 鳳仙花は鮮やかな紅蓮である。もとより鳳凰の姿の花よと付けられた名だとも聞く。炎に似た花弁に紅い鎧の男を連想したとしても、いささ安易には思えるが別段不思議でもない。
 しかし幸村にしてみるとどうにも納得がいかない様子で、しきりに首をひねっている。
「政宗殿のお言葉は時折謎掛けのようだな。そもそも花の名前も妙だ。端(つま)が紅というのはおかしくないか? 端どころか全部が紅いというのに」
「ああ、そっちのつま、じゃないから」
 佐助は得心顔で幸村の利き手を取り、紅色の花を借り受けた。その花弁をぐい、と幸村の爪に擦りつける。人差し指の平たく固い爪の先に花弁の紅が滲んだ。
「女の子たちがこうやって紅差して遊ぶんだよねえ」
「なるほど、だから爪紅――」
「そうそう、新羅の国じゃあ塗った紅が初雪まで残っていたら初恋が叶うなんて話も……、旦那? 顔真っ赤だけどどうしたの」
「…………」
「いやほんと茹で蛸みたいだよ? てか、聞いてるかな。おーい、旦那ー」
 いぶかしんで眼前で手を振ってみせても、幸村はつ、と己の指に目を落としたまま微動だにしない。視線を辿る先にはただ、佐助が戯れに花の紅に塗り込めた爪が見えるのみである。
 首筋までを真っ赤に染める理由が思い至らず、首をひねった佐助だったが、ひとつ瞬いた後に、はたと気づいて顔をしかめた。己の察しの良さがこの時ばかりは憎くなったのだ。
 幸村は時折、信玄公の名代として奥州を訪れることがある。その度に独眼竜との手合せをしては生傷をこさえてくるのだが、ある時分より背中に掻き傷を作るようになった。手当の際にそれを見つけ、竜の爪である、と瞬時に理解をした。無論のこと、刀傷ではない。
 いくさ場で、道場で相対するだけでは気が済まず、とうとう閨の中でまで打ち合う仲になったのかと笑えない冗談に空笑いが浮かんだのはしばらく前のことだ。背中の傷痕から察するに、朝寝の頃には竜の爪はそれは鮮やかに紅く染まっていたことだろう。
 奥州の竜はつまり、それを甘く揶揄していたのだろうし、その意図に遅まきながら気がついた主がすっかり固まってしまったというわけだ。
「……破廉恥」
 ぼそりと低く呟くと、幸村は弾かれたようにがばりと顔を上げた。
「ななななななにを申すか佐助え!そっ……そこへ直れ!おれは決してそのような不埒なことを思い起こしてなどおらぬ!!」
 語るに落ちるとはこのことだ。
 茶を啜りながら佐助は溜息を吐いた。要するにただの惚気、ただの恋文というやつではないか。確かにしばらく逢瀬もなく、忙しさにかまけて文のやり取りも少なかった。そこへ来ての恋文に若い主はどうやら火がついてしまったようなので、もういっそ本体ごと奥州へと送りつけるのが上策、と大将には進言しておくことにした。
 このうえ馬に蹴られたくはなかったのである。