Juliet

 ーーこの胸がお前の鞘。さあ私と共に、ここで永遠の眠りに、

「なんだそれは」
 武具の手入れをしていたフェリクスが訝しむように目を上げた。
 シルヴァンは小さく首を傾げてから、質問の意味を汲み取り、頷いてみせた。
「帝国で流行りの歌劇だとさ。帝国の軍務卿の息子が王国貴族の娘と恋に落ちる。互いに仇敵の家の者同士と知らずに……とかいう、まあ悲恋の物語だな」
 黒鷲の学級に在籍する元歌姫が級友達にせがまれて披露していた一節を、ここに来る道すがら聞いたのだ。有名な話だから、あらすじくらいはシルヴァンも知っていた。
 丁子油を含ませた布で短剣を磨いていた幼馴染は、悲恋の二文字を聞いた途端、興味を失ったように鼻を鳴らした。
 訓練場にいるフェリクスを夕飯に誘いにきたのが半刻ほど前のことだった。武具の手入れが終わっていないという断り文句に、シルヴァンは引き下がらなかった。
「じゃあ、お前の用事が終わるまで待つからさ」
 そう言って壁に背を預けたシルヴァンを一瞥した幼馴染は「好きにしろ」と素っ気無く言い捨てた。とりあえず追い返すつもりはないらしい。つまり、珍しく機嫌は悪くないようだった。
 好きにしろと言われたので、シルヴァンは武具の手入れをする幼馴染を眺めながら待つことにした。そうは言っても手持ち無沙汰ではある。本の一冊でも持ってくれば良かったと思いながらフェリクスが磨く短剣を見て、さっき聞いたばかりの歌劇の一節を思い出したのだ。
 仇の家同士の者である男と女が恋に落ちるところから物語は始まる。結ばれることのない、許されない恋だ。共に死のうとまで思い詰めた二人を哀れに思った司教が、女に仮死の薬を飲ませる。娘は死んだのだと思わせ、墓に棺を運ばせるために。一晩経てば薬の効果は切れて娘は息を吹き返し、迎えに来た男と共に遠くブリギットまで逃げる算段だった。ところが手違いから男は計画をしたためた手紙を受け取ることができず、恋人の死が真実だと思ってしまう。仇の一族の墓に忍び込んだ男は、眠る娘の前で本物の毒を煽り、死んだ。一夜の魔法が解けて、幸福を夢見ながら目を覚ました娘は、己の眼前に広がる悲劇を嘆き、毒薬を一滴も残さず飲み干してしまった恋人をなじる。そうして男が持っていた短剣を胸に突き立て、恋人の死体の上に折り重なるように倒れて永遠の眠りについたーーそういう筋書きだ。
「間抜けだな」
 あらすじを聴き終えたフェリクスはつまらなそうに言った。
 身も蓋もない感想に、シルヴァンは思わず苦笑した。まあ俺も間抜けだと思ったけど、とは言わずにおく。
「そうは言うけどさ、帝国じゃ人気の演目らしいぜ。アリアンロッド辺りの大昔の実話が元になってるんだとか何とか……」
「くだらん。計画に穴が多すぎる。運任せで事を運ぼうとするから破綻するのだろう」
「お前が言うと課題演習か何かの話に聞こえるんだよな。恋に計画性を求めるなよ」
 理不尽に、前触れもなく落ちるのが恋なのだ。理屈でどうにかできるものであれば、恋に狂い身を滅ぼす人間などいないだろう。
 シルヴァンも、誰にも言えない恋をしていた。この年下の、男の幼馴染に。仇同士などではないが、紋章持ちの跡取り息子としては許されない恋だろう。少なくともシルヴァンの父は許しはしない。家と紋章の存続のためなら実の息子も廃嫡するような人だ。男に懸想しているなどと万が一でも知られれば、今すぐ家に連れ戻されて顔も知らない女と結婚させられるに違いなかった。相手がフラルダリウス家の嫡子となれば父もフェリクスに危害を加えることはできないだろうという点だけが救いだった。
 心のうちを明かそうなどとは思っていなかった。この恋を打ち明けたところで、フェリクスも迷惑な話だろう。
 シルヴァンは両手を頭の後ろで組んで、戯けた道化の振りをする。
「お前だっていつか、馬鹿な男になっちまうような、狂おしいほどの恋をするかもしれないんだしさ」
 その相手は自分ではないとしても。
 いつかこの皮肉屋の青年のとなりには控えめで可愛らしい少女がいるのだろうか。軽口を叩いたが、フェリクスに理性の箍を外すほどの恋は似合わない。きっと穏やかで優しく誠実な愛を育むのだろう。
「……お前にも、あるのか?」
 フェリクスは不意に手を止めて、幼馴染の男をじっと見上げた。柳眉を微かにひそめて、その下の榛色の瞳は何かを探るようだった。少し不機嫌そうにも見えるが、こんな顔をする時のフェリクスは怒っているわけではなく戸惑っているだけなのだと長年の付き合いで知っている。
 問いの意味をはかりかねて、シルヴァンはひとつ瞬きをした。瞬くうちに言外に問われた真意を読み取ってしまう。
 お前にも、あるのか。ーーそんな恋をしたことが。
「まさか」
 シルヴァンは笑って嘘をついた。
 狂おしいほど恋しい相手に、息をするように嘘を重ねる。その不実にいつか報いがあるのだろうかと内心で己を嘲笑いながら、心にもない言葉を紡いだ。
 俺が女の子と恋をする時は最初から最後まで楽しい思い出にしかならないよ。しらじらとこぼれる嘘に、フェリクスは目を伏せて、そうかと呟いたきり沈黙した。他ならぬ彼が、なぜそんなことを訊いたのかは考えないようにする。考えてはいけないのだと、頭の片隅で警鐘が鳴っていた。
 武具の手入れを終えたフェリクスが立ち上がる。じゃあ街に降りてなんか食べようぜ、と手を引いた。
「おい、手を引っ張るな」
「いいだろー。なあフェリクス、何食べたい?」
「肉」
「……お前そればっかりだなあ。偏った食事してっと背伸びないぞ」
 うるさい、と軽く足を蹴られる。わざとらしく痛がりながらシルヴァンは笑ってみせた。幼馴染は呆れたようにため息をついて舌打ちをする。拗ねた表情がかわいらしい。口付けてしまいたい。抱きしめて好きだと言って驚く顔が見てみたい。そんなことできやしないけれど。この恋は産声をあげる前に、殺してしまわなければならない。
 死ぬときは一緒に、と指切りをした約束をフェリクスは覚えているだろうか。忘れてしまっただろうか。
(どうか、忘れていますように)
 目の前を歩く幼馴染の、夜色の髪を眺めながらそう祈った。
 共に死んでくれたら嬉しいけれど、優しい男を道連れにはしたくない。フェリクスには最後まで幸せに生きて欲しかった。愚かな男との約束など忘れてくれた方がいいに決まっていた。
 毒を煽って死んだ男が、心底羨ましく妬ましい。
 愛した人と共に死ねるだなんて、悲恋などであるものか。