あの夜をもう一度

 武骨な手が恭しく素足に触れる。
 欲のかけらもない、誠実な指だ。湯浴みを済ませたファウストの足を香油で拭うのは、かつて従者であった頃の彼の日課だった。
 あのころから四百年近い歳月が過ぎ、二人は英雄とその従者ではなくなったけれど、失われた月日を懐かしむかのようなレノックスの手を拒む理由はファウストにはなかった。
 瓶からとろりとした香油を掬って、長い指が壊れ物を扱うようにそっと触れる。薬草の匂いが鼻腔をくすぐった。膝下からふくらはぎを辿り、くるぶしを撫でて、指先までを拭う。労り慈しむように、あるいは体温を分け与えるかのように。
 そこには少しの邪さもなかったが、彼を従者としたばかりのころは貴人のように扱われることに戸惑いと恥じらいがあったように思う。
 そんなことをしなくてもいいと何度も断りを入れたはずだ。けれど実直な従者の思わぬ強情に最後には根負けして、気恥ずかしさもいつからか薄れて日常のひとつになった。
 そんな日常が永遠に続くのだと、あの頃のファウストは愚かにも信じていた。
 ファウストの両足には爛れた火傷の痕が生々しく残っている。本来はとうの昔に消え去っているはずの傷痕を敢えて消さずに残していたのは、焼け爛れた膚が目に入れば嫌でも憎しみを思い出すことができるからだ。自虐的な行いであることは百も承知で、それでも怨嗟を糧としなければ生きながらえることは難しかった。
 やわらかな布で足を拭いながら、レノックスは痛ましげに目を眇めた。身を案じられる気まずさに、ファウストはつい先回りをしてしまう。
「痛みは、もうないよ」
「そうですか」
 レノックスは小さく呟いて、それきり狭い部屋には沈黙が降りる。
 結界を強固にするための媒介を取りに、東へと戻る旅路の途中だった。
 私用のために中央の塔の転移装置を使うわけにもいかず、荒野の上空を箒で飛び、人里の近くからは旅人の振りをして歩いた。東に近づくほど人間は閉鎖的な気質を見せるから、魔法使いであることが知れ渡るのは都合が悪い。
 幸いと言うべきか、供としてついてきたレノックスは一見すると魔法使いらしさのない男だった。そのおかげか、中央の学者とその従者として振る舞う二人を疑う者はいなかった。
 国境の小さな町にたどり着いたのは日も暮れる頃で、町にひとつきりの安宿の一室をどうにか借りた時には、今にも墜落しそうなほど大きな月が東の空に掲げられていた。
 宿の粗末なベッドにファウストを腰掛けさせ、レノックスはかつてのように香油の瓶を片手に主人の前に跪いた。
 醜く引き攣れた痕は、ファウストにとっては罪と悔恨の証であり、あの日を忘れないための戒めでしかない。痛みも残しておくことができればよかったけれど、炎に身を焼かれる苦痛はすっかり朧気になってしまった。夜も眠れぬほど身を苛んだはずの痛みは、今では夢の中で膚を撫でてゆくばかりだ。

 あの日、処刑台からファウストを連れ去ったレノックスは、山麓の荒屋に主人を匿った。
 半分炭になったファウストの足を魔法で治し、眠る前には香油で足を清めた。
 もはや石になってしまいたかったファウストにとって、己を慈しむ男の手は毒のように苦く心を犯すものだった。
 輝かんばかりの光に満ちた未来を喪ったのだ。
 喪ったのは未来ばかりではなく、何もかもがファウストのてのひらから零れ落ち、残ったものは絶望だけだ。
 これ以上生きながらえることはひたすらに惨めで屈辱的だった。どうして助けたりしたのかと、寡黙な従僕を詰ったこともあった。殺してくれと泣きわめいて、実際、己の舌を噛み切ろうとしたこともある。けれど自傷を繰り返してもレノックスがすぐに気づいて癒してしまい、死に逃げることも許されなかった。
 おそらくあの時のレノックスは何日ものあいだ一睡もしていなかったのだろう。
 新月の夜、闇に沈む荒屋の中で彼は思い詰めたような顔をして、とうとうファウストに縋りついた。レノックスが得意とする、力を逃す魔法を掛けられて、ファウストの四肢はだらりと力を失っていた。蝶の標本のようにファウストのからだをベッドに縫い止めてもなお、レノックスは不安に苛まれていたのだろう。
「あなたが死んだら、俺も死にます」
 ファウストの足に縋るように跪いて、レノックスは主人を見上げた。低く柔らかな声音でこぼされたのは、ある意味では誓いの言葉だった。
 ファウストは微かに目を見開いて、まじまじと従者を見つめた。
 紅い瞳は夜を映して翳り、暗く滲む血のようだ。
「自ら命を絶たないと約束してくださらないなら、せめて俺も共に連れていってください」
 口の端を歪めてレノックスが苦く笑う。
 彼が本気であることは疑う余地もなかった。ファウストが自死を選べば、迷わず後を追うだろう。それがわかってしまえば、ファウストが死ぬこともできないと知った上で、己の命を賭けたのだ。
「卑怯者」
 吐き捨てるように呟いても、レノックスは淡く微笑むばかりだ。何とでも。そう短く答えて、普段は従順な男は沈黙を貫いた。
 この男を道連れにしたいわけではない。レノックスならば人の中でも愛されて生きることができるだろう。惨めたらしい己と共に朽ち果てよとは、どうしても言えなかった。ならば自分が折れるより他に、彼を殺さずにすむ術はないということだ。
「……わかった」
 細く吐き出した息には、己でもそうとわかるほど、落胆と諦観が滲んでいた。
「きみの望むとおりに約束しよう。自ら命を絶つことはしないと」
 張り詰めていた空気が撓んだ。
 レノックスは、ほっとしたように目元を緩ませた。ありがとうございます、と彼が口にするより早く、ファウストは小さく呪文を唱えた。レノックスの気が緩んだほんの僅かな隙をついて、深い眠りを与えるために。意思の強い者にそうした魔法は効きにくいが、さすがのレノックスも限界だったのだろう。遊び疲れた子供のように瞼はするりと落ちて、男はベッドに倒れ込んだ。
 レノックスに施された魔法は、もう解けかけているようだった。
 腕に力が入らないのは、どちらかといえば衰弱のためだろう。震える四肢にどうにか力を込めて、ファウストは身を起こす。たったそれだけでひどく消耗した。
 短い黒髪をそっと撫でながら、ファウストは自嘲するように微笑んだ。
「約束は守るよ」
 死ぬこともできないというのは、あるいは己に相応しい罰かもしれないと思い直した。
 魔法使いとして生まれた己は、人と寄り添うことも叶わず、魔法使いとして生きなければならない。気の遠くなるほどの孤独を伴侶として、苦しみの中で惨めに生きながらえらるのは、なるほど自分に似合いの末路だろう。
 その暗い旅路に、この男は不要だった。
 だから置いていく。
 目を覚ましたレノックスはきっと深く傷つくだろうが、ファウストの矜持を傷つけてでも生きることを強いたのは彼なのだから、お互い様だった。
 命を絶つならば連れて行けとレノックスは願った。ならば、彼の望み通りに生きてやる代わりに、置き去りにするだけだ。
 痩せ衰えたからだに鞭打つようにしてファウストは立ち上がり、夜明けを待たずに荒屋を後にした。萎えた足では歩くこともままならないが、魔力を燃やして空を飛ぶことはできる。
 ファウストは魔法使いだった。
 王を誑かし、人を呪い、誰も愛さず、誰からも愛されない。そんな哀れな生き物であるべきだ。
 これまでとは真逆の自分は、けれども妙にしっくりと馴染む気がした。
「さようなら」
 箒に身を預けて、ファウストは冷ややかに笑った。
 愛していた王に、献身を捧げてくれた従者に、消え去った師に、己を信じ夢を託して石となった同胞たちに、愚かなほど無垢だった自分に、別れを告げる。
 そして、新月の夜の終わりを、ファウストは滑るように飛んだ。

 レノックスもきっと、あの夜を思い出しているのだろう。
 普段は慈愛に満ちた瞳には、あの時のような影が浮かんでは消えていた。炎のように揺らめく瞳を見つめていると、レノックスはやがて微かに笑ったようだった。
「あの時、俺が情けを乞うていれば、あなたの側に置いていただけたのでしょうか」
 節くれだった手が、そっとファウストの頬に触れた。乾いた指先が愛を乞うかのように頬を滑り、ファウストの薄い唇をなぞる。
 かつてファウストが英雄と呼ばれていたころ、男からも女からも、欲と熱に浮かされた視線を向けられることは幾度もあった。けれどレノックスの瞳はいつも涼やかで清廉で、無欲だった。ファウストに向ける彼のまなざしに慈しみ以外の色はなく、だからこそレノックスの言葉はファウストを内心驚かせた。
 あの夜、情という名の楔を埋め込まれて繋ぎ止められていたならば、レノックスと共に生きていたのだろうか。
 陰鬱な男を映して炎のように揺らめく紅い瞳を見つめながら、ファウストは自問する。
 もしかしたら、何もかも忘れて寄り添って生きることができたのかもしれない。そう考える一方で、たとえ時を巻き戻したとしても同じことの繰り返しだったのだろうとも思う。
 互いだけを見つめて傷を舐め合うことを許すには、レノックスは誠実すぎたし、ファウストは愚かになりきれなかっただろう。
「あの夜、きみに抱かれていたとしても」
 武骨な手を取ってファウストはゆるりと微笑んだ。幸運を与えるように、レノックスの額にひとつ、くちづけを落とす。
「僕はきみを置き去りにしたよ」
 間近で小さく息を飲む気配がした。
 あの夜をもう一度繰り返したとしても、結末は変わらない。本当は互いにわかっていた。だからこれは傷痕を撫でるだけの戯れに過ぎなかった。
「ファウスト様」
 無欲な男は口の端を僅かに綻ばせた。
 微笑んでいるようにも、嗚咽を堪えようとしているようにも見える。どちらであるのか、ファウストには判断がつかない。
「……ファウスト様」
 レノックスがもう一度、主人の名を呼ぶ。あたかも、祈りの言葉のように。
 哀れで切実な声は、波紋のように夜の静寂を揺らしたが、ファウストは再び訪れる沈黙を待つことしかできなかった。