心臓に火をくべられているようだった。
目の奥で光が弾けて息が詰まる。熱した鉄を直に当てられているような錯覚に、シャイロックはよろめく。吐き気を催すほどの、あるいは恍惚すら錯覚する激痛が左胸を灼いた。
大いなる厄災によって刻まれた奇妙な傷は、何の前触れもなく開く。胸を氷柱で貫かれたような、火で炙られているような、狂おしいほどの痛みはいつも唐突に訪れた。
左胸を押さえて喘ぐシャイロックをそっと支えたのは、客としてバーを訪れていたフィガロの腕だった。魔法舎のバーラウンジには、彼の他には客の姿はない。もうすっかり遅い時間だ。シャイロックのバーは開けていればいつも誰かしらいるものだが、その時には静寂を肴にグラスを傾けるフィガロが唯一の客人だった。
よりにもよって、この男の前で無様な姿を見せるとは。
シャイロックの内心は穏やかではなく、激しい痛みにばかりではなく舌打ちをしてしまいたくなる。それでも口の端をどうにか持ち上げて、にこりと微笑んでみせたのは精一杯の矜恃と言えるだろう。
「……ありがとうございます、フィガロ様。もう、けっこうですよ」
厄介な客をあしらうように振り払おうとしたものの、フィガロの腕は思いのほかしっかりとシャイロックを捕らえていた。長い指が輪郭を確かめるように、シャイロックの頬を滑る。エメラルドが浮かぶ暗灰色の瞳には何の感情も浮かんではいない。冷徹に相手を観察する視線に居心地の悪さを感じて、シャイロックは思わず目を逸らした。
「顔色も悪いし、呼吸も浅くなってる。痛みが強いんだろう。痩せ我慢なんて、きみらしくもない」
「……私はいつだって、つまらない見栄を張っているんです。ご存じでしょうに」
北の魔法使いとは違った意味で、矜恃のために生きるのが西の魔法使いだった。ともすれば享楽的とも刹那的とも見えるだろうが、己の美学を貫き通して死ぬのが誇りだ。それを知らぬわけでもないだろうと言外になじるシャイロックには答えずに、フィガロはうすく微笑むばかりだ。顔色も変えずに指先ひとつでシャイロックを石にできる男は、いまは軽薄な道化を演じるに徹するつもりのようだった。
「つまらない見栄を張る子を宥めて診るのが医者の仕事だからね」
「いまはお仕事の時間ではないでしょう」
「美人が苦しんでいるのを放っておくほど薄情じゃないさ」
「ご冗談を」
「この姿が気に食わないなら、君のかわいい野良猫の姿になろうか?」
フィガロは片目を瞑ってみせた。
酒に酔いながらであれば戯れるような会話も楽しむことができたかもしれないが、心臓を灼かれる痛みに言葉を紡ぐのもやっとだった。
「……無粋なひと」
弱々しく掠れた声音に、フィガロは肩を竦めた。
「ごめんごめん、きみとの会話は楽しくて、ついおしゃべりに夢中になっちゃうね。まずは痛みを取ってあげよう」
吐息で笑う気軽さでフィガロが小さく呪文を唱えると、突き刺すような痛みは嘘のように消えた。
けれど胸元の黒百合からは膚を焦がす炎の気配が続いている。痛覚だけを消されたのだと気づいて、シャイロックの瞳が屈辱と怒りに揺れた。
心の奥底を撫でられて、犯されるようなものだった。
他者を傀儡のように操るのはフィガロの得意とする魔法だ。シャイロックの意思を捻じ曲げるなど彼にとっては赤児の手を捻るようなものだろう。しかし、だからといって心を踏み躙られる辱めを甘んじて享受するほど落ちぶれてはいない。
「あなたというひとは、」
侮蔑を込めて睨みつけるくらいしかできないのだとシャイロック自身も分かってはいた。魔王と呼ばれたオズと並ぶ北の大魔法使いの不興を買えば殺されても文句は言えないが、それでも爪痕ほどの傷は残してやりたい。
シャイロックの怒りを受け止めて、フィガロは困ったように微笑んだ。
「俺はまた、きみの尻尾を踏んだのかな」
それがあまりにも途方に暮れたような、子供じみた顔だったのでシャイロックは毒気を抜かれてしまう。怒りのやり場を失って、代わりにため息がこぼれた。
「……もう、本当に大丈夫ですから。どうぞ、お掛けになって」
腕を離してカウンターのスツールに戻るよう促せば、フィガロは今度は素直に頷いた。シャイロックもカウンターの中に戻り、仕舞い込んでいたボトルを取り出す。二つのグラスにワインを注いで、ひとつをフィガロに渡す。かつて彼に友好の証として差し出した品だ。
「乾杯しましょうか」
「きみの『厄災の傷』に?」
グラスが軽く触れる涼やかな音が深夜のバーに響く。シャイロックは微かに笑んでグラスの縁に唇を寄せた。
「いいえ。軽口が災いして、いつか誰かに刺されるあなたのために」
「いいね、それ」
フィガロは機嫌良く笑った。
「俺はきみの傷が羨ましいんだよ。たぶんそれは、俺がずっと欲しいものだから」
「それは残念ですね。疎ましく不愉快な傷ですが、あなたに差し上げるくらいなら抱えたまま石になってしまいたい」
「意地悪だなあ」
「あなたほどでは」
軽口の応酬を楽しみながら、グラスが空になればワインを注ぐ。夜が明けるまでのあわいは瞬きをするうちに消えてゆく。
そうしているうちに左胸の紋章もいつしか熱を失っていた。
