四月の雪は重く湿っている。
深々と降り積もり世界を覆いつくす白と違い、この時期の雪はみぞれに近く、積もりながら根雪を溶かしてゆく。息絶えて足先から腐り落ちていく冬の屍だ。
窓から見下ろす表通りは中途半端に溶けた雪と泥とが混じり合い醜く濁っていた。チェズレイは煩わしげに息を吐き、長椅子から立ち上がる。
「おや、ボスはご機嫌斜めかな」
「――ファントム」
ケトルを火にかけて、チェズレイが顔をあげると、気さくに笑う男が眼前に立っていた。
ファントムと呼ばれた男はチェズレイの手元を素早く確認して、食器棚からコーヒーカップを二つ取り出す。無地のなめらかな陶器のカップは、気に入りのものだった。
あいかわらず目端の利く男だ。チェズレイは口の端を歪める。
相手をよく観察し、次の行動を読む。さりげなく先回りをしてみせるが、それでいてチェズレイの行動を邪魔することはない。
数か月前に転がり込んできた男は、いつの間にかチェズレイの腹心として振る舞うまでになっていた。長く仕えてきた部下さえも立ち入ることを許さなかった私邸にも我が物顔で出入りしている。
「命じてくれれば、コーヒーくらい俺が淹れるのに」
「そう言いながら、ちゃっかり自分のカップも用意しているのは、いったいどういう了見でしょうねェ」
「そりゃあ、ついでなら俺もご相伴に預かりたくてね。なにせボスの淹れるコーヒーはとびきり美味い」
「調子の良い事を」
「事実さ。それに、ひとり分でもふたり分でも、手間は同じだろ」
悪びれない男に、チェズレイは苦笑を浮かべた。
実際、チェズレイが命じれば、この男はコーヒーなど完璧に淹れてみせるだろう。そして、それをチェズレイが命じないこともわかっている。
他人が手ずから淹れたものなど飲みたくはなかった。部下に毒見をさせたもの以外、チェズレイが口にすることはない。
ファントムはそれをよく弁えていた。
この数か月、男は自ら進んで毒見役を引き受けている。その忠心をはかるために、敢えて毒を入れた皿を用意させたこともあった。本当に毒見をしているのかを確かめなければならなかったからだ。
結果としてファントムは躊躇わずに毒入りのスープを飲み、倒れ、三日三晩生死の境をさまよった。医者の見立てでは、あと一口多く食べていればそのまま死んでいただろうとのことだった。意識を取り戻した男に、チェズレイは包み隠さずに事実を告げた。
「あの毒は私が入れました。あなたを試すために」
ファントムは毒を盛られたことに怒りもせず、忠誠を疑われたことに落胆もしなかった。ただいつものようにおおらかに笑い、言った。
「なら、俺はボスのお眼鏡に叶ったかな?」
その後も男はチェズレイの毒見役を続けた。
たいした胆力だとチェズレイは呆れた。信頼を得るために命まで賭けられては、その忠義を無下にすることは憚られた。
チェズレイは男に私邸まで付き従うことを許し、眠るチェズレイの隣りでピアノを奏でることを許した。
けれど、男を完全に信頼したわけではなかった。チェズレイはファントムの経歴を徹底的に調べていた。ファントムは凄腕のスパイであり、善良な刑事を演じながら淡々と犯罪組織を育てていた男だ。相手の思惑を的確に読み取り、懐に入り込んでは破滅させるのが彼のやり口だった。チェズレイに取り入るためならば命を賭けるふりぐらいはするだろう。
二人分のコーヒーを淹れて、ひとつをファントムに渡す。
受け取ったファントムはやはり躊躇わずにカップに口をつけた。
「今日はルーク・ウィリアムズの誕生日ですね」
男が一口飲み終わるのを見届けたところで、世話話のように切り出した。
ファントムの手がぴたりと止まる。その瞳をじっと見つめた。チェズレイの予想通り、驚いた様子はなかった。
「よく知ってるな。……なんて、ボス相手に言うのも野暮か。お前ならそれくらい、調べていて当然だ」
「エリントンのあなたの家は、配下の者にずっと見張らせています」
「あいつは何も知らないから無駄っちゃ無駄だが、ボスの気が済むようにしたらいいさ」
ファントムが肩を竦める。あまり興味はない様子だった。しかしそれも演技だろうか、とチェズレイは考える。
彼の養い子は実際のところ、養父の本性など知らないようだった。
ファントムも自身の後継者として育てているわけでもなさそうだ。届いた報告書を読む限り、ルークは善良そうなただの子どもだった。子持ちの方が何かと疑われないんでね、とファントムは説明して、本当にただそれだけの理由なのかもしれなかった。必要がなくなった玩具のようにあっさりと養い子を捨てて、ファントムはチェズレイの元を訪れたのだから。
ともあれ、こちらがルーク・ウィリアムズという手札を持っていることは示した。チェズレイは次の手札を開くことにする。
「あなたは、私を抱く気はないのですか」
ゴホゴホとファントムがわざとらしく噎せた。これはきっと演技だろう。
「……おいおい、人を犯罪者扱いしないでくれよ。さすがに子どもに手を出すほどの下衆じゃないんだが」
大仰に肩を竦めてみせる男に、チェズレイは失笑する。
「あなたはれっきとした犯罪者でしょう。無論、私もですけれど」
「だからってペドフィリア扱いされるのは心外だ。……まあ、ボスが望んでくれるなら、吝かではないがね」
カウンターにカップを置いたファントムの手が、チェズレイの頤に触れた。
彼が許可なく肌に触れるのははじめてのことだった。六月の澄んだ空の色をした瞳に、初夏の日差しに似た白い熱が宿る。チェズレイが望めばそのままくちづけられるのだろう、とわかった。その先を望めば、器用な指先がひとつずつ釦を外していくことも。
――私はそれを、望んでいるのだろうか。
瞬きを繰り返して、チェズレイは自問する。
この男に愛されて、溺れることを望んでいるのだろうか。愛に餓えて、乾いた心を満たされたいのか。この腕に守られて安らぎたいと、願っているのだろうか。
どれも違う気がした。チェズレイは目を伏せて、細く息を吐き出す。
「手を離してください」
その答えをわかっていたかのように、ファントムはあっさりとうなずいた。
「……私は、あなたの恋人になりたいわけではない」
「知っているよ」
「あなたの息子になりたいわけでもありません」
「それも、知ってる」
チェズレイはぎこちなく微笑んだ。
己がこの男に何を望んでいるのかはわからなかったが、それでもファントムはチェズレイの理解者だった。長いあいだ誰も自分を理解してはくれないのだと思っていたのに、彼だけがチェズレイを理解できる。言葉にせずともわかってもらえる、ということがこれほど心地よいのだとチェズレイは知らなかった。
知ってしまえばそれは甘い毒のようにひたひたと全身を侵して酩酊させた。
「さて、美味いコーヒーのお礼に何か一曲弾くとしようか」
空になったカップを置いて、ファントムは人好きのする笑顔を浮かべた。
リビングのピアノの鍵盤蓋を開き、チェズレイを振り返る。
「リクエストはあるかい、ボス」
ああ、私はこの男の理解者になりたいのだ。
鍵盤に指をおいて楽しげに問う男の姿に、チェズレイはそう思い至った。
この心地よさを分け与えたい。広い世界にひとりきりの孤独な生き物ではないのだと、私たちは言葉と心で理解しあえるのだと証明したい。
他人から見ればそれは恋なのかもしれないし、そうではないのかもしれなかった。チェズレイにとってはどちらでもいいことだ。
ただ、予感だけがあった。
ヴィンウェイの遅い春のように、雪解けの土の下から花が芽吹く日が、やがて訪れるだろう。
「――では、春を告げる花の歌を」
