千夜一夜(R-18)

 私が最初に消した下衆は、私の父でした。
 あれは私が十二歳の時のことです。父はマフィアのドンでしてね。私は妾腹の子でしたが、十を数える頃には父の『仕事』を手伝うようになりました。なにしろ私は神童と呼ばれるほど賢かったものですから、敵対するファミリーを陥れる策やこれまでよりずっと効率の良い商いの仕方など、思いつくままに父に提案していたのです。その甲斐あって私は父のお気に入りでした。あの男は私の母を疎んでいましたが、私という使い勝手のよい駒のために、母を始末することはなかった。そうでなければもっと早く、自ら死を選ぶ前に、母はあの男に殺されていたでしょうね。
 以前にもお話した通り、私の母はピアニストでした。その美貌もあって、故郷ではそれなりに名が知られていたようです。けれど皮肉にもそれが仇となり、ろくでもない下衆に目をつけられた。ええ、その下衆が私の父ですよ。才色兼備のピアニストであった母は、自分に言い寄るマフィアの男にもなかなか靡く様子がなかった。おそらく父にとってはそれが物珍しく面白かったのでしょうね。気位が高い女をいかにして自分の物にするか――父にとっては暇潰しのゲームのようなものでした。
 さて、モクマさん。マフィアの男というものは、自分に靡かない女を辛抱強く紳士的に口説くと思われますか?
 ……。
 フフ、答えにくい質問でしたでしょうか。ですがきっと、あなたのご想像通り。
 下衆なマフィアの男は、自分の力を誇示し相手を支配する手段として、暴力を振るうことをためらいません。泣いて嫌がる生意気な小娘を力で捩じ伏せることに、良心の呵責などあるはずもない。女が抵抗を諦め「あなたを愛しています」と泣きながら許しを乞うまで、ただ凌辱し続ければよいのです。そして孕ませた子を堕胎することさえ許さず、己が命ずるまま産み落とさせることで、男はゲームに勝利しました。いっぽう下衆に純潔を奪われ、身も心も服従させられた哀れな娘は「夫を愛しているのだ」と自分に言い聞かせることで、己の敗北から目を逸らした。
 母を妾とした時点で、父は母への興味を失ったのでしょう。散々喰い散らかした獲物に、もはや旨みなど残っていませんから。それに父は婿養子でしたので、先代の娘である本妻には頭が上がらなかったのです。父があちこちの女に手を出しては外で子を儲けることは、本妻も男の甲斐性であるとして許していたようですが、妾に入れ込むことは許さなかった。母は若く美しかったため、本妻は特に警戒していたようです。もっとも、妾にして子を産ませた途端に自分に執着するようになった母に、父のほうはすっかり冷めてしまっていたのですが。
 ともあれ父が己を省みなくなることこそ、母にとっては耐えがたい屈辱でした。そこに愛がないのであれば、暴力に屈した哀れな自分を認めなければなりませんからね。父に愛され、父を愛したからこそ、自らの意思で妾となり身籠ったのだ、という偽りの……けれど、瑕疵のない物語が、母には必要でした。
 結局のところ、母は死ぬまで自分を騙し続けました。彼女は最期まで、夫に対する飢餓のような執着を愛だと信じていたのです。夫の寵愛を受ける我が子を妬むほどに、狂おしく夫を愛しているのだと。それが愛などではなく憎悪と恐怖であることには気づかずに、その心を濁らせるものを愛と錯誤して、……いえ、もしかすると母はただ、そうやって自分を騙すことに疲れてしまったのかもしれませんね。どちらにせよ、彼女はもはや己の濁りに耐えられなくなってしまった。
 あれはよく晴れた日の朝のことでした。私が少し目を離していた隙に、母はバルコニーから飛び降りてしまった。手摺を乗り越えようとする母に気づいた私は慌てて駆け寄り、身を乗り出してすんでのところで彼女の脚を掴みました。そして母の体を引き上げようと試みましたが、子どもの力ではどうすることもできなかった。腕の感覚はなくなり、それでもどうにか手を離すまいと必死だった私に、母は言いました。
 ――脚を離して、チェズレイ。宙づりなんて、死ぬよりみじめよ。
 ……っ、苦しいですよ、モクマさん。フフ、そんなに強く抱きしめられると、空であなたに抱かれた日のことを思い出してしまいますねェ。そう、飛行船から堕ちていく私を、あなたが掬い上げてしまった、あの日のことです。
 あなたは私に、かの巫女姫を重ねてしまったのでしょうけれど、私は空を堕ちながら、母の脚から手を離した瞬間を思い出していました。私はずっと母を憐れんでいました。ですから、彼女を苦しみから解放してあげたかった。重荷を降ろして、軽やかに――願わくば、痛みを感じる間もなく、夢見るように……。母の白い脚が私の手をすべり落ちていった、あの永遠のような一瞬のあいだ、私は願い続けていました。
 けれど、あなたの力強い腕が私を抱きしめた時、この腕があれば母を救えたのかもしれないと奇妙な感慨を覚えたのです。子どもの頼りない手でなければ、冥府へと堕ちたがる彼女を連れ戻すことができたかもしれない。……そんな意味のない空想を思い描いてしまったことに、私はひどく動揺していました。おそらくその時すでに、あなたという存在に心奪われていたのでしょう。
 ……あァ、モクマさん。そんなに悲しそうな顔をしないでください。あの時、あなたが抱きしめてくれたから、私たちは今こうして共にいるのですから。
 それに、母のことを思い出すのは、そう苦痛ではないのですよ。私は母に愛されていましたし、私も母を愛していた。
 結末がどうであれ、それは揺るぎのない事実です。

 さて、母が亡くなった日、私の父も死にました。敵対するマフィアのファミリーが手を組んで、父を襲撃したのです。もちろん、私がそう仕組んだわけですが。母の死は想定外の事故でしたが、父の死は計画通りでした。母がバルコニーから身を投げなかったとしても、もとより父には消えてもらう予定だった。あの男は本当につまらない下衆でしたので。
 私が手ずから殺してやることも考えましたが、さすがに返り討ちに合う可能性が高かったのです。えぇ、なにしろまだ十二歳の子どもですからね。父からすれば、幼い息子を撃ち殺すなど、女を組み伏せるよりもたやすかったでしょう。ですから私は直接手を下さずに父を亡き者にする計画を立てました。そしてその計画通り、敵対していたファミリーの人間を煽り、利用して、父を殺させた。父を殺したマフィアたちも互いに殺し合わせて始末しました。
 私の足元に這いつくばり呪詛を吐きながら息絶えた父を眺めながら、私の心には後悔も罪悪感もありませんでした。むしろ、下衆を消すためにわざわざ自分の手を汚す必要などないと、その時に気がついたのです。

 私の父がいかに下衆な男だったか。それを語るためのエピソードは枚挙にいとまがないのですが、そうですねェ、……たとえば、あの男は己の利益のために、幼い我が子を顧客に『貸して』いたのです。父にとっては血をわけた子どもすら、己の道具に過ぎなかったということでしょう。
 ちょうどあなたが故郷の里を出た頃のことでしょうか。ミカグラ島を遠く離れた極北の国に暮らしていた、七歳の少年のことを想像してみてください。母に似た美しい顔立ちの少年は、天使のように愛らしいとそれはもう評判でした。
 おや、眉間に皺が寄っていますよ、モクマさん。これ以上は聞きたくない?
 それはそうでしょうねェ、なにしろ気分が良くなる話ではありませんから。しかし私としては、できれば聞いていただきたくて、こうして話しているのです。あなたが私の体をくまなく愛してくださるように、私の過去という名の傷すべてを知って欲しい。つまらない、子どもじみた我儘と笑われてしまうでしょうか?
 ……フフ、ありがとうございます。我儘を聞いていただく代わりに、なるべくかい摘んでお話いたしましょう。私とて、あなたに不愉快な思いをさせたいわけではないのです。

 その頃、父の元によく出入りしていた客人に「幼い子どもしか愛せない」という性根の腐り切った下衆がいましてね。その男は、母に連れられて本邸へ来ていた私を偶然見かけたのだそうです。天使のように可愛らしい子どもに目を奪われた男は、父の前に大金を積んで、あなたの息子を『貸して』欲しいと懇願した。
 私は父に呼び出されて、本邸へと向かいました。母が私を連れて行ってもいつも門前払いだったのに、幼い私だけに突然声がかかった。母にとっても私にとっても、まさに青天の霹靂です。息子に付き添うことを許されなかった母は、複雑そうな顔をして、私に言い聞かせました。
 ――お父様の言うことをよく聞いてちょうだいね、チェズレイ。万が一粗相をしてしまったらすぐに謝って許していただくのよ。決してお父様を怒らせないようにね。
 父の顔こそ知っていましたが、その日まで私は父と言葉を交わしたことさえありませんでした。父がどれほど誇り高く立派な人で、自分が彼をいかに愛しているか、母は繰り返し私に語り聞かせていました。しかし私は聡い子どもでしたので、母の言葉が本当ならば母がこれほど冷遇されるはずがないと理解してはいたのです。ただ、己の父がどうしようもない下衆であることは、この時はまだ知る由もありませんでした。
 本邸で私を迎えた父は、息子を値踏みするように一瞥してから、客間へと連れて行きました。そして「この中で起きたことは決して誰にも話さないように」とだけ告げて、私を客間の中へと押し込めた。部屋の中には見知らぬ男がいました。ベッドに腰掛けていたその下衆は、父よりいくらか年嵩の恰幅の良い男で、脂下がった顔で私を眺めながら手招きをしました。……客間で何が行われたのかについては割愛しましょう。あァ、私なら大丈夫ですよ。もう二十年も前のことですし、自己催眠を学んでからは、不要な記憶は消してしまいましたので。けれど、こうやってあなたに慰めてもらうのも悪くはないものですね。誰かの腕の中で安堵する日が来るなどとは、かつての私であれば想像もしなかったでしょう。
 あの部屋の中で何をされていたのか、幼い私は正しくは理解できませんでした。いくら賢くても所詮は七歳の子どもですからねェ。ただ理不尽な暴力を振るわれ、このまま殺されるかもしれないと恐怖したことは覚えています。どれほど泣き叫び、助けを求めても、あの屋敷では私の声など黙殺されるのだということも。私は自分に覆い被さる男に縋って許しを乞うしかなかった。当然のことながら、幼い子どもを助けてくれる者など誰もいませんでしたがね。
 この話を聞けば、あなたはそうやって怒るだろうと予想はしていました。きっとボスや怪盗殿も、哀れな子どものために怒ってくださるのでしょう。ですが、裏社会においては、そう珍しい話でもありません。私にとってはこの程度の古傷、生き抜いてきた証でしかないのです。
 傷があるから素敵だと、そう仰った方もいましたし、ねェ?
 明くる朝、目を覚ました時にはすでに男の姿はなく、私の身は清められていました。体の節々に残る痛みさえなければ、悪い夢を見たのだと思ったことでしょう。帰り際、母には遊び疲れて眠ってしまったのだと伝えるように父から命じられました。父の言いつけ通り、私はあの部屋の中で行われた一切を誰にも話すことはなかった。もちろん、母にもです。
 閨の中で踏み躙られたことで、私は母を理解することができました。母が父に向けていたのは愛ではなく嫌悪と恐怖であったのだと、身をもって知ったのです。暴力を振るわれ続け、身の危険を感じた時、人は加害者に親愛を覚えることがあります。これは生存戦略の一種でして、母が父を愛していると思い込んでいたのも、そうすることでしか生き延びる術がなかったからなのでしょう。
 話を戻しましょうか。
 私という玩具の味を知った下衆は、当然ながら一度で満足するような殊勝な人間ではありませんでした。その日以降、私は数ヶ月に一度、父に呼び出されるようになりました。そして客人を丁重にもてなすよう命じられたのです。
 私が泣き叫ぶほどに『お客様』が興奮するのだと気づいてからは、ただひたすら従順にふるまい、空虚な時間が終わるのを待ちました。私の心は乱されることもなく、濁ることもなかった。それでも逢瀬を重ねるごとに客人は私に夢中になり、しまいには私を買い取りたいと父に持ちかけた。その話を耳にして、私は心底恐怖しました。私が売り飛ばされてしまえば、おそらく父はすぐにでも母を始末するでしょう。母を連れて逃げようにも私はまだ幼く、なにより母は父の支配から逃れられるほど強くは無かった。
 幸か不幸か、父は強欲な人間でしたから、私に入れ込むあまり財産の大半を食い潰していた男をとうに見限っていました。その男に端金で私を売り飛ばすよりも、新たな客を取らせたほうが儲けになると考えたのでしょうね。父は男の要望を跳ね除けて、別の顧客を探し始めました。実際、小児性愛者というのはそれなりにいるものでしてねェ。私の新たな『お客様』はすぐに見つかりました。
 フフ、ご安心ください。私の客だった下衆は、とっくの昔に一人残らず消してしまいましたから。いまでは皆、土の下か、あるいは海の底で永遠の眠りについていることでしょう。
 父の『仕事』を手伝うようになって数年、以前に比べれば、私は父に大事に扱われるようになりました。なにしろ私は『金のなる木』であり、父にとっては大切な商品だったのですから。しかし父の気まぐれでいつ売り飛ばされてもおかしくないと危惧していた私は、父がいよいよ私を手放せなくなるように仕向けることにしました。すなわち、体だけではなく己の知略をも父に差し出すことにしたのです。私の献策により、父は自分のファミリーを急激に成長させました。父は私を寵愛し、母も私を産んだ功績によって身の安全だけは保証されました。私は父のために働きながら、少しずつ父を殺す計画を練っていました。あの男がいる限り、私も母も自由にはなれないからです。
 私が父に目をかけられるようになってから、母は頻繁に取り乱すようになってしまいました。もはや猶予がないことを悟り、私は父を消す計画を前倒すことにしました。
 けれどお話した通り、私の計画はほんの一足遅く、結局のところ母を失ってしまいました。それでも、父を消したことで、私は自由を手に入れることができた。
 母の後を追おうとは思いませんでした。後を追うくらいなら、手を離さずに母と共にバルコニーから堕ちればよかったのですから。そうしなかったのだから、私は生き抜くべきだろうと考えました。
 生きるためには目標が――夢が必要です。私はしばらく思案してから、母が『神からのギフト』と讃えたこの頭脳を使って裏社会を支配しようと決意しました。
 その後しばらくして、ファントムと出会うことにより、私の人生は大きく転換することとなりますが、その話はまたの機会にいたしましょう。
 もう夜が明けてしまいますからねェ。今宵のお話はここまで。ご静聴に感謝いたします。

 あァ、最後に少しだけ蛇足を。
 この物語の先はまだまだ長いのですが、実はね、結末だけはもう決まっているのです。
 当然、私はめでたく夢を叶えて裏社会の支配者となり、あなたと末永く幸せに暮らしました、というものですよ。うすら寒いほどのハッピーエンドです。どうです、素敵でしょう?
 母の脚から手を離し、父を殺したあの日から、死後は地獄に堕ちることが決まっていますからねェ。せめて生きている間は、悪党らしく、ふてぶてしく、己の幸福を追求するといたしましょう。――なぜなら、この世は生者のためにこそあるのですから。