落花流水

 油断をしたつもりはなかったが、あっけなくソファに押し倒された。
 手にしていたグラスはたやすく奪われて、今は無体を強いた男の掌中にあった。モクマは残っていた酒を飲み干してからそのグラスをサイドテーブルに置いた。
 腿の上に体重をかけられ、肩を押さえつけられる。それだけで身じろぎひとつできなかった。体を起こそうとしてもびくともしない。けれど、こうやって力の差を見せつけられても、恐れや怒りは湧いてはこなかった。自覚するよりも酔いが回っているのかもしれない。
 この男に取って喰われるならそれも本望だろうかと馬鹿げた考えが浮かぶ。
 月のない夜を思わせる眼がじっとこちらを見ていた。
「モクマさん」
 名を呼んでみても男は答えず、黙って顔を寄せてきた。酒気を帯びた吐息が顎に掛かるほど。だが、酔った上での狼藉でもないだろう。これしきの酒で酔えるなら、二十年のあいだ、この男はもっと楽に生きられたはずだ。
 チェズレイは静かに瞬きを繰り返した。
「……くちづけでも、なさるおつもりで?」
 その意図がわからないほど初心でもないが、予想だにしていなかったのが正直なところだ。モクマはこの手の触れ合いを望んでいるようには見えなかったのだ。それこそ取って喰らう気があるのなら、今までにいくらでも機会はあった。
 酔った相手に手を出すほど餓えてもいないだろうに。はたしてどういう風の吹き回しなのか。
「お前が嫌だって言えば、しないよ」
 囁く声は穏やかで、しかし濡れた熱を孕んでいる。春先の、雨上がりの夜を思わせた。花を落とす春の長雨が止んだ後、ぼんやりと輪郭が滲んだ月を二人で眺めたこともあった。今生でこの人と共に過ごす春もあと幾度かと考えたこともあったのだが、数えるのも馬鹿らしくなるほど長く隣を歩くことになりそうだ。この手を離すことを許すつもりはないと釘を刺されたのはつい先日の話だった。
 男は隠した牙を見せるようにして唇の端を持ち上げた。
「嫌だって言わなきゃ、しちまうけどね」
 意地が悪い、ずるい男だ。こちらにばかり選ばせる真似をして。
 酩酊の残る頭の片隅に、罵る言葉が浮かんでは泡のように消えた。
 モクマにとっては水に等しい酒も、チェズレイを酔わせるには充分だった。波の中にいるかのように、ゆらゆらと視界が揺れる。
「――イヤ?」
 答えをわかっていて訊くのだからたちが悪い。
 チェズレイは瞼を伏せた。
「……嫌だと言えば、あなたは諦めるのですか」
 私を。
 私に触れることを。
 それほど簡単に諦めがつくような、その程度の存在でしかないなら、いっそ「嫌だ」と言ってやろうか。言外にそう詰ればモクマは喉奥で笑った。むっとして目を開けると、こちらを見下ろす男は少しばかり性の悪い笑い方をしていた。
「まさか。おじさん、そんな殊勝な男に見える?」
 なんて戯けたふりをしながら、その目は少しも笑っていない。
「嫌がられたら、お前さんの気が変わるまで待つよ。十年でも二十年でも」
「……あなたが老人になっても気が変わらなかったら、どうなさるおつもりです」
「それならそれで構わんさ。無理強いしたいわけじゃない。ただ、逃げる気も、逃す気もないってことをわかってくれりゃそれでいい」
「…………」
 頬が熱かった。朱が差した顔を隠してしまいたくて、けれど目を逸らすこともできない。早鐘のように響く心音はどうせバレてしまっているだろう。
 チェズレイは眉を寄せて、口の端に笑みを浮かべた。
「……どうぞ、私の気が変わらぬうちに」
 いまさら心変わりもあるはずもない。だから半ば負け惜しみのようなものだ。それはモクマもわかっているのだろう。ふっとこぼれたため息は呆れたようにも慈しむようにも聞こえた。
 硬い指先が頤に触れる。
「酔っていたは無しだよ」
 ――言いませんよ、あなたじゃあるまいし。
 そう揶揄うつもりの言葉は、乾いた唇に塞がれてとうとう音にはならなかった。