星を数えて朝を待つ

 扉を二度叩く。コツコツ、と硬く乾いた音が周囲に響いた。魔法舎の長い廊下は、しんと静まり返っている。北の魔法使いたちは出払ってでもいるのだろうか。珍しく静かな夜だった。ファウストは静寂の中に影のように佇んで部屋の主を待った。
 扉の向こうの気配が動く。
 しばらく待っていると扉が開いて、ネロが顔を覗かせた。廊下に佇むファウストの姿に、彼は意外そうに目を瞬かせる。
「あれ、先生。どうした?」
 ファウストは抱えていた包みを差し出した。
「後で部屋に届けると言っただろう」
「……あー」
 それで、ようやく厨房でのやりとりを思い出したらしい。ネロは唇の端をわずかに持ち上げて笑った。苦笑のようにも、皮肉めいた笑みにも見える。その笑いかたは、彼の癖のようなものなのだと最近になってようやく理解した。心のうちを読まれることが苦手な男にとって、曖昧な笑顔で煙に巻くことは、もはや習い性になっているのかもしれない。
「ほんと律儀だよな、あんた」
 冗談めかした揶揄いの言葉も不器用さの裏返しだと思えば、不思議と腹も立たないものである。それどころか、どこか可愛らしくすら思えた。
 相手は二百も年上の魔法使いだというのに。
「いらない世話だったか?」
「まさか。助かるよ」
 薄曇りの空の色をした前髪をかき上げてから、ネロはわずかに考え込むように目を伏せた。それはほんの一瞬の逡巡で、やがて飴色の瞳がファウストを捉える。
「まあ立ち話もなんだし、とりあえず入ってよ」
「いや……」
 軽い調子で促されて、今度はファウストが躊躇う番だった。
 夢見が悪かったのだと言っていた。疲れた顔をして、柄にもなく昔の夢を見たのだと笑った。
 思い出すだけで口の中に苦味が広がっていくような過去に苛まれる苦しさは、ファウストも骨身に染みるほど知っている。過ぎ去った日々の罪と後悔に身を焼かれて、夜中に何度も目を覚ます。その孤独と痛みを他人事とは思えなかったから柄でもないお節介をする気になったのだ。
 それなのに、部屋に上がり込んで世話を焼かれるのでは本末転倒というものだろう。しかしファウストが「ここでいい」と答えるより早く、ネロは時折見せる妙な強引さを発揮した。腕を掴まれ、ぐいと力任せに引き寄せられる。部屋に引き摺り込まれたファウストの背後でパタンと扉が閉まった。
「おい!」
「悪い。けど、突っ立ってるとこ誰かに見られるのも気まずいだろ」
 咎めるように睨みつけても、ネロに悪びれた様子はなかった。
 まったく、と眼鏡の蔓を押さえながら肘でネロの脇腹を小突いてやったが、年上の魔法使いは微動だにしなかった。面白くない。
 レノックスやカインほどではないにしろ、長命の魔法使いにしては珍しく、ネロの腕にはしっかりと筋肉がついていた。魔法を使わずに大人数の料理を作るのはかなりの重労働だろうから、自ずと鍛えられるのかもしれない。
 料理に魔法を使わないというこだわりは、ファウストからすれば西の魔法使いと同じくらい酔狂に思えた。しかし彼の手料理は事実として美味であり、常日頃その恩恵に与っている身としては、彼の酔狂に感謝こそすれ笑うつもりもなかった。それでも、部屋を訪れるたびに内心驚かされている。賢者の魔法使いたちは各々に与えられた部屋の内装を好き勝手に変えていたが、おそらくここまで本格的に改装しているのはネロくらいのものだろう。なにしろ部屋の中に台所があるのだ。彼の生活の中心は料理なのだと、全身全霊で主張しているようなものだった。
「料理屋を営んでいたころは店の裏に置いたソファに寝泊まりすることが多くてさ、こういうのが逆に落ち着くんだよ」
 はじめて訪ねた時、部屋の内装に目を丸くしたファウストに、彼はそう説明した。
「賢者さんにはロクジョウヒトマノワンケーなのにシステムキッチン完備の謎物件みたいですねって言われたんだけど、先生意味わかる?」
 もちろんファウストにも異世界の呪文めいた言葉の意味はわからなかった。わかったのは、異世界から来た賢者の目から見てもこの部屋は変わっている、ということくらいだ。
「もしかして、誰か来る予定だったのか?」
「そんなことはないけど?」
 ネロの部屋に入った時から、熱した油の香ばしい匂いがしていた。何気なく視線を巡らせると、コンロのそばにフライドチキンの皿が置いてあるのが目に留まる。
 夕食にはもう遅い時間だ。夕飯ではないなら、つまみだろうか。
 かつては互いに晩酌はひとりで楽しむものだと主張していたが、最近はふたりで飲む楽しさの味を占めるようになった。ネロにだって、他の誰かと酒を酌み交わす夜もあるだろう。
 ファウストの視線を追って台所を見たネロは、得心がいったような顔をしてから軽く頭を振った。
「あれは、そういうんじゃねえよ。単に、ほら、……夜中に腹を空かせたやつが押しかけてくることがあるから」
 シノとか、と挙げられた名前に思わず苦笑する。腹が減ったとネロの部屋を訪ねてくる少年の姿は容易に思い浮かべることができた。
「シノは育ち盛りだからな」
「だろ。だから、たまに試作品だとかをつくるついでに夜食分を取り分けてるってだけ。……けど、今夜は空振りかもな。その時は明日の朝スープかサラダにでも使うさ」
 それでこの話はおしまいと言うように、ネロは軽く手を振ってみせた。
「それより座ってよ。茶くらい出すぜ。ワインが良いなら、そっちもあるけど」
「どちらも結構だ。きみは寝不足なんだろう。僕を気遣う暇があるなら、今日は早く休みなさい」
 ネロはぱちりと瞬きをした後、今度はおかしそうに声を上げて笑った。
「その言い草、学校の先生みてえ」
「残念ながら、僕は先生らしいぞ。まんまときみに教師役を押しつけられたからな。まさか忘れたのか?」
 皮肉をぶつけても、ネロは肩をすくめるばかりだった。はあ、とわざとらしくため息をついてから、ファウストは手にした荷物をテーブルに置く。
「ともかく、これ以上長居をするつもりはないから」
 そう釘を刺しつつ、紙袋の中身を取り出してテーブルに並べた。
「香は枕元に置いて使って。沈静の作用がある。このハーブティーも寝つきが良くなるものだから、バカンスとやらに持っていくといい」
「ハーブティー?」
「カミツレをベースにしているから飲みやすいと思う。しっかり眠って、ヒースとシノが無茶をしないよう見張っていてくれ」
 ファウストを除く東の魔法使いたちは、南の国のはずれにある島へとバカンスに出かける予定になっていた。たかがバカンスであれば、見張っていてくれなどと頼む必要もない。しかし、それがただのバカンスではないことにファウストも気づいていた。
 内向的な性格のヒースクリフは、集団での旅行に進んで参加したがるタイプではなかった。シノもあれで勤勉な性質だから、目的のない単なる休暇にはあまり興味を示さないはずだ。そのふたりが率先して行きたがるということは、何か別に目的があるということだった。それなのに、ファウストには事情を話そうとせずただのバカンスだと言って誤魔化す。その様子を見れば、おのずと予想はついた。
 賢者からの誘いがなかったことで、予想は確信になった。ファウスト以外の東の魔法使いが揃っているなら、賢者の性格上、たとえ断られると思ってもファウストにもひと声かけるだろう。
 それがないということは、ファウストについて来られると都合が悪い、ということだ。
 ネロは軽く目を瞠ってから、肩を揺すってくつくつと笑う。
「さすがに全部お見通しってわけか」
「ちゃんと気づかないふりはするよ。どうやら僕を驚かせたいようだから」
「名演技を期待してるぜ、先生。まあ、フィガロも羊飼いくんもいるし、滅多なことはないだろうけどさ。うちのお子ちゃまたちは責任持って俺が見張っとくよ」
 袖の下も貰っちまったしな。ハーブティーの包みを持ち上げておどける男に、苦笑を返す。
「よろしく頼む。じゃあ、僕は部屋に戻るよ」
「――ファウスト」
 踵を返してドアノブに手を掛けたところで、名前を呼ばれた。振り向くと、琥珀の瞳が惑うように揺れていた。
 ネロは躊躇いがちに目を伏せてしばらく押し黙っていたが、やがて躊躇いがちに口を開く。
「ハーブティー飲んでも、香を焚いても、それでも眠れない時、あんたはどうしてる?」
 細い雨のような、耳を澄ませなければ聞き取れない、それでいて静寂の中ではっきりと響く声だった。
 ファウストはかすかに息を呑んだ。
 ネロの顔が迷子の子どものように見えたからだ。思いがけず心の柔らかいところを見せられたようで、嬉しくもあり、戸惑いもあった。
 互いに少しずつ打ち解けてはきたけれど、そういう内面については、まだ自分には見せてくれないのだろうと思っていた。
「悪い、変なこと訊いたな。忘れて――」
「星を数えるよ」
 我に返ったのか笑って流そうとする男の言葉を遮って、ファウストは答えた。
 ハーブティーを飲んでも、香を焚いても、眠れない夜はある。過日の夢に苛まれて、古傷が疼く夜はきまって窓から星を眺めた。雲がかかって星が見えなければ箒で雲の上まで飛んだ。
「……数えてると、眠れる?」
「半々だな。だが、たとえ眠れなくても数えているうちに朝が来る」
 それが投げやりな軽口に聞こえたのかもしれない。ネロはかすかに笑った。
「そいつは悪くないかもな。今度試してみるよ」
「ああ、おやすみ」
 良い夢を、と言いかけてやめた。今の彼には気休めにもならないだろうから。
「――きみが、夢も見ずに眠れますように」
 ネロは少し照れたように微笑んだ。
「ありがとな。先生も、おやすみ」

 自室に戻ったファウストは、窓辺から夜空を見上げた。藍色の空に無数の星が輝いている。ひとつ、ふたつと数えながら、遠い昔を思い出していた。
 眠れない夜に星を数えることをファウストに教えたのは幼馴染だった。魔法使いと人間の生きる時間は違えども、星を数えるうちにどちらにも等しく朝は訪れる。たとえ遠く離れた場所にいても、互いの孤独に寄り添うことができるのだと囁いた男との絆は、永遠に分たれた。
 ファウストが眠れない夜に星を数えていたのは、己の中の憎しみや恨みを確かめるためだった。けれど今夜だけは、新しくできた友人の心が安らぐよう祈ることを、自分に許してもいいだろう。
 窓を開けると涼しい夜風が頬を撫でた。ひときわ明るく輝く星を数えながら、ファウストは微笑んだ。