四十にして惑わず、なんてのはいったい誰の言葉だったか。
「こちとらまだまだ人生という道に迷いまくっとるけどねえ」
モクマは洗面台の鏡の中にいる冴えない中年男に語りかけた。
ボサボサのくすんだ灰髪に無精髭――まではいつも通りだが、寝ぼけまなこの下には、ここ数日の寝不足がたたって、くっきりと隈ができていた。
寝不足の原因ははっきりしている。
夢見が悪いからだ。
といっても、二十年ものあいだモクマを苛んできた、主を手に掛けた日の悪夢に悩まされているわけではない。いつからか、あの日のことは夢には見なくなった。己の悲鳴と共に飛び起きることも、取り返しのつかない罪に声を殺して泣き崩れることもなくなった。罪悪感と後悔がすっかり消えてしまったというわけではないが、マイカの城が燃え落ちた夜、心の中でひとつの区切りができたのは確かだ。
気がつけば、あの夜から一年余りが経っていた。故郷は文字通り消失し、帰る場所を持たないモクマは相変わらず名無し草のような暮らしをしている。昔と違うのは、共に旅路を歩む相手がいることだ。一人ではないからこそ、過去の傷は少しずつ癒やされている。
したがって、ここ数日モクマを悩ませている夢は、悔恨からはほど遠いものだった。
肚の底にある浅ましい欲望をはっきりと自覚させられたという意味ではたしかに悪い夢だが、それがずっと隠していた己の願望のあらわれだということを誰よりもモクマ自身がわかっている。
さかのぼること三日前、てらいなく言ってしまえば、相棒を組み敷いて犯す夢を見たのだ。
夢の中のチェズレイは、美しい顔を苦痛と快楽に歪めながらも、従順にモクマを求めた。熱に浮かされて蕩けた菫色の瞳、どろりと肌にまとわりつくような甘ったるい嬌声。細くしなやかな身体がシーツの上でのたうつたび、絹糸に似たプラチナブロンドがテーブルランプの光を弾いて、夕暮れの海のように煌めく――そこで、はたと目が覚めた。
ぼやけた視界に映るのは、ここ半月ほど拠点にしているセーフハウスの見慣れた天井と、窓から差し込む白い陽光だった。
セーフハウスと言ってもごく普通の分譲マンションの高層階にある一室で、モクマにも個室が与えられた。ゆえにベッドにいるのは自分一人であり、当然ながら傍らに麗しの相棒殿の姿などあるはずもなく。
ああ、なんだ夢か。
深く溜息をついてから、モクマはピシリと固まった。さすがに夢精とまでは行かないまでも、下着の中はしっかり反応してしまっている。
下腹部の重たい感覚に、先ほどまで見ていた夢が否が応でも思い出された。より正確には、身を捩り涙に濡れた声で自分の名を呼ぶ美しい男の幻が脳裏から離れない。
「…………いやいやいやいや」
ちょいと待ってストップ!と誰に向けてだかわからない懇願が口から漏れる。寒くもないのに背中を冷や汗が伝うのがわかった。
思春期などとっくの昔に卒業したはずの中年男が年甲斐もなくみっともないだとか、そういう次元の話ではなかった。言うなれば、無垢な信頼を寄せてくれる相手を勝手に裏切ってしまったような居た堪れなさだ。「わー!」と大声で喚き散らしたい衝動に駆られたが、そんなことをすればチェズレイに不審がられてしまうだろうとすんでのところで思いとどまる。隣室でまだ眠っているであろう相棒に問いただされたらうまくごまかせる自信はなかった。なにせ相手は人心操作を特技とする男だ。目を合わせたが最後、秒でバレかねない。
とにかく頭を冷やそうと、モクマはよろよろとした足取りで浴室に向かう。
蛇口を捻り冷水のシャワーを頭から浴びて、心頭滅却と唱えることしばし。血管がきゅっと縮こまり、手足の先が冷たさに痺れていく。里にいた頃は、煩悩を払うための修行としてこんな風に滝に打たれたものだった。もっともモクマはサボって逃げてばかりいたのだが。
(あの頃のことを懐かしむ日が来るとはなあ)
リハビリの甲斐あって、里を出るまでの記憶を思い出すことも苦痛ではなくなってきた。生涯守り続けたいと思える相手を得たのも大きいだろう。孤独だからこそ張り詰めた美しさを持つ青年を、あらゆる悪意から守り抜いてみせようと内心誓いを立ててから、はや一年。裏社会を統べるという遠大な野望に勤しむ相棒とは、いまのところ何だかんだうまくやれている。平穏にはほど遠いが充実した日々だ。この日常を壊すものはたとえ己の煩悩であっても許しがたい。
――とりあえず、いったん忘れよう。
モクマはそう結論づけた。
ここで掘り下げると取り返しがつかなくなる予感がしたからだ。一度だけなら気の迷いにできるはずだ。たぶん疲れとかストレスとか色々、文字通り溜まっていたに違いない。そういうことにしておこう。
後から思い返すと、骨の髄まで染み込んだいつもの逃げ癖にすぎなかったが、その時のモクマにはそれが最善に思えたのだ。
その日はチェズレイとなるべく目を合わせないようにしながら与えられた仕事に打ち込み、どうにか訝しまれることなく一日を終えた。よし、この調子であんな夢などなかったことにしてしまおう。忘れてしまえば、何もかも元通りだ。適当に酒を飲んでいるうちにきっと忘れてしまうだろう、というか忘れよう。俺ならできる、おじさんやればできる子ですからね!
しかしモクマの楽観的かつ切実な願いはあっさりと裏切られた。次の日も、その翌日も、同じ夢を見るという形で。
夢の中で美しい男を抱くのも三度目を数えた朝、さすがのモクマも観念した。というか、もうこれ以上は自分をごまかすことも難しかった。
何より目の下の隈に、目敏い相棒が気づかないわけがない。
――潔く認めよう、俺はチェズレイに惚れている。
目を覚ますために適当に顔を洗いながら、モクマは悩ましげに嘆息した。
「まさかこの歳になって、恋とはねえ」
それも相手はひと回り近く年下の相棒だ。おまけにきれいごとだけの淡く甘酸っぱい想いなどではない。ばっちりしっかり情欲と結びついた、独りよがりの身勝手な恋慕である。
恋多き忍者――などと触れ回っていたものの、モクマにとって『恋』とは体よく振られるための口実のようなものだった。誰かに罵られ罰せられたいという自虐的な行いに近い。相手に情を与えるつもりもなければ、返されることも望んでいなかった。酒と同じように、ひと時のあいだ酔いしれることができればよかったのだ。
だから、夢に見るほど誰かに恋焦がれるなんてことが自分の身に起こりうるなどとは思ってもみなかった。
己の欲を直視してしまえば、その感情はあっけないほどしっくりと腹に落ちてしまう。逆にこの一年よく気づかないふりができたものだと、自分の逃げ癖にいっそ感心してしまった。
自覚したばかりの恋心を黙って墓の下まで抱えていくべきか、モクマは少しのあいだ悩んだ。
腹さえ括れば、忍びであるモクマにとって自分の感情を殺すことなど造作もない。何食わぬ顔で相棒として隣りに立ち続けることも可能だろう。チェズレイのためを思うなら、その方がきっと賢明な判断だ。
(あいつの野望の邪魔しちゃ悪いし――なーんて、すこし前の俺ならそうやってまた逃げてたかねえ)
自分の想いなど報われるべきではないし、欲しいものに手を伸ばしたところで相手を不幸にしてしまうだけだと、かつてのモクマは心から思っていた。そう確信していたからこそ、これまでも大切な人たちから寄せられた好意すら、のらりくらりとかわして逃げてきたのだ。
優しい人たちは、その優しさを拒絶して逃げたがるモクマを、追いかけることはしなかった。
けれどチェズレイだけが、モクマに逃げることを許してくれなかった。
罪の意識から長年隠し続けてモクマ自身ですら忘れていた望みを、無遠慮に暴かれて引き摺り出された。生きたいと足掻く無様で醜い自分を、モクマは認めざるを得なかった。
容赦のない、酷い男だと思った。けれど、あの時からきっと、モクマにとってチェズレイは特別だったのだろう。
あの日以来、彼に認められ相棒として信頼を寄せられていくことが素直に嬉しかったし、律儀で情が深くそれ故に危なっかしい男を守りたいとも思った。もっとも、チェズレイはなかなか守らせてくれようとはしなかったのだが。それでもミカグラ島での決着のあと、チェズレイはどこか吹っ切れたようにモクマに手を差し伸べ、彼を守るという目的を与えてくれた。
チェズレイを守ることを許されたモクマは、これ幸いと彼の野望に乗ることにしたのだ。これまでの一人旅が二人旅になるというのはどこかくすぐったく慣れないものだったが、このまま彼の相棒として共に生きていくのも悪くないと思っていた。
そこに恋情が芽生えて、いつのまにか無視できないほど大きく育っていたのは、正直に言えばまったくの想定外だったのだが。
ともあれ、自覚してしまった以上は隠し通すべきではないのだろう。チェズレイはきっと、モクマが己を偽ることこそを裏切りと感じるだろうから。ならば覚悟を決めて打ち明けるより他にない。
恋を伝えて、それを受け取ってもらえるかはこの際二の次だった。モクマの心を受け取れなくても、律儀者の相棒は約束を違えることはないだろう。つまりは、最悪フラれたところで、今まで通りチェズレイのそばにいることはできる。それならば、モクマにとって失うものはないに等しい。
「まったく、我ながら下衆だよ」
しかし下衆でも良いかと尋ねたモクマに、今更だと答えたのは他ならぬチェズレイだ。そこは自業自得と諦めてもらおう。
いやはや、年を取ると打算が働いて良くないな。そう独りごちて、モクマは苦笑した。
その夜、モクマは久しぶりに相棒を晩酌に誘った。先手必勝、思い立ったが吉日。これ以上ボロが出る前にさっさと告白してしまおうという算段だ。
ここ数日モクマの様子がおかしいことには気づいていたのだろう。チェズレイは迷うように視線を揺らめかせてから、小さく頷いてみせた。
「私は構いませんけれど、体調はもう良いのですか。このところ顔色が優れないように見えましたが」
「あー、やっぱりバレてた? ちょっと寝不足だったんだけどね。おかげさんで、もう大丈夫!」
「……わかりました、では少しだけお付き合いしましょう。本調子ではないようですから、モクマさんが深酒しないように見張っていてさしあげます」
端末を操っていた手を止めて、チェズレイはリビングのソファに掛け直す。
適当に用意したつまみと酒をローテーブルに並べて、モクマもテーブルを挟んで向かいのソファに腰掛けた。
真剣な話をするなら素面のほうが誠実なのかもしれないが、今夜はむしろ彼のための逃げ道を用意してあげたほうが良いだろう。
「最初に断っておくけどもさ」
チェズレイの手の中のグラスになみなみとどぶろくを注ぎながら、モクマは切り出す。
「もし嫌だったら、明日の朝、酔ってたから何も覚えてないって言ってね。そしたら二度と口にしないし、なかったことにするから」
「……なんの話です?」
チェズレイは柳眉をひそめて困惑を露わにした。それには答えずに、モクマはコホンと咳払いする。居住まいをただし、向かいに座る相棒をじっと見つめた。
雪のように白い肌、光の加減で青みがかって見えるプラチナブロンド、氷の中に閉じ込めた菫の花のような瞳――童話に出てくるお姫さまもかくや、どこか作りものめいた美しさを持つ男だ。左瞼の周りに花びらのように散る傷痕が、彼をより蠱惑的に見せている。その氷の美貌の下に、熱く烈しいマグマのごとき情念を秘めているのだと知る者は少ない。
「チェズレイ」
「はい」
美しい相棒は、名前を呼ぶと律儀に視線を返してくれる。神とも悪魔とも渾名されるほど明晰な頭脳を持つ男は、モクマの前では比較的素直で無防備だった。
出会った頃と違い、嫌われていないのはわかる。むしろ親愛のようなものを向けられていると感じることもあった。けれど、胸のうちを明かした後、どんな反応が返ってくるかはまるで読めない。
内心の緊張を隠しながら、モクマは口を開いた。
「俺ね、お前さんのことが好きみたい」
「……なんですか、改まって。さすがに私だって、あなたに今も嫌われているとは思っていませんよ」
モクマの一世一代の告白に、チェズレイは何故か肩透かしを食らったような、気の抜けた顔をした。あ、これぜんぜん伝わってないわ。どうやら一手目から間違えてしまったようで、目には見えないゲージが頭上で目減りしたのを悟る。とはいえ、ここで挫けていても埒があかない。それならばと気を取り直して、懇切丁寧に伝えることにした。
「あのね、チェズレイくん。この場合の『好き』ってのはライクではなくラブです。メイクするほうのラブね。つまりお前さんにキスしたいし、なんなら抱きたいって意味の好きなんだけども、伝わってる?」
「………………え?」
明け透けなモクマの言葉に、チェズレイは長い沈黙のあと、何を言われたのか飲み込めないというような心底不思議そうな顔をした。
まさかこれでも伝わらないのだろうかとモクマは少し焦りはじめた。これ以上どう噛み砕けというのだ。モクマは想いを打ち明けたいのであって、良い子に読み聞かせをしたいわけではない。
これまで火遊びになぞらえた冗談を交わしてきたのがまずかったのだろうか。いつもの軽口だと思われている可能性に思い至り、モクマはがっくりとうなだれた。
惚れちゃいそうとか愛してるとか可愛いとかドキドキしちゃうねとか、たしかに軽口にして散々言ってきましたけれども!
それにしたって、いつもは恐ろしいほど察しが良い相棒は、今夜に限っては妙にポンコツだ。それほどモクマの告白が想定外だったのだろうか。想定外というのは、つまり端から眼中にもないということか。
眼中にない時点で敗北が確定しているような気もするが、イエスかノーかだけでも答えを貰わねばこの恋心も浮かばれまい。ボールはすでに投げてしまったので、今は返されるのを辛坊強く待つのみだ。
モクマは自分のぐい呑みに注いだ酒を煽りながら、チェズレイの言葉を静かに待つ。
ややあって、チェズレイは油を差し損ねたロボットのようなぎこちない動作でギギギと首を傾げた。
「モクマさん」
「はいよ」
「……これまでの情報を整理しましょう。つまり、モクマさんは、私を手籠めにしたいということでよろしいですか」
「てご……!? いやそれはさすがに語弊があるよね!? ちっともよろしくないです!」
ぎこちなく固まっていたのはどうやらシンキングタイムだったらしい。捜査の時のルークを思い出させる前置きの後、麗しの相棒殿は斜め上めがけて豪速球を返してきた。
ひと回りほど歳の差があるとはいえ双方ともに立派な成人男子なのだからいくらなんでも『手籠め』はないだろう。というか自分がおとなしく手籠めにされるような人間だと思っているのだろうか、この詐欺師は。
第一、惚れてるからと言って乱暴したいわけではない。断じてない。もちろんモクマとしてはできれば想いを通わせたいが、現時点ではただの片想いである。同意もなしに手を出す気もないし、最初に断った通り、チェズレイが無かったことにしたければそうするつもりだったのだ。
モクマの悲痛な訴えに「失礼」と素直に謝罪してから、チェズレイは言葉を選び直した。
「……つまり、私に劣情を抱いていると?」
「うん、間違っちゃいないけどね。身も蓋もなく言えばその通りだけども」
「間違っていないのですか……?」
「なんだい、自分から確認しといてその『腑に落ちませんが?』みたいな顔は……」
なんだかさっきから絶妙に噛み合っていない気がする。モクマはううんと唸りながら天井を仰いだ。
もしかすると、『恋』の定義から擦り合わせなければいけないのだろうか?
(いやいや、チェズレイに限ってそんなことある?)
『仮面の詐欺師』は人心操作のプロである。色恋じみた駆け引きなどほんの朝飯前なはずだ。自分の容姿が武器になることをよく理解している男は、ハニートラップまがいの手管で情報源を篭絡することもまったく厭わなかった。あんまり自分を粗末にするもんじゃないよというモクマの小言――今思えばあれはただの嫉妬だったのだろうが――を鼻で笑われたのも二度や三度ではなかった。
そもそもチェズレイは素顔のままその辺をちょっと歩いているだけで、それはもうとにかくモテるのだ。男からも女からも熱っぽい視線を向けられナンパされ口説かれる。慣れているからなのかあしらい方も実にスマートで、そばで見ていたモクマは百戦錬磨とはこのことかと感心したものだ。
そんな男が、初心な少女のように自分に向けられる恋情を疑っている。なんの冗談かと言いたくもなったが、チェズレイはどうやら本気で困惑しているようだった。
「なあ、チェズレイ。俺がお前に惚れてるってのは、そんなに意外だったかい?」
「意外と言うより、……モクマさんは今まで私をそういう目で見たことなかったでしょう」
「そういう目って?」
「私を貪り尽くしたいと顔に書いてある、飢えたケダモノのような目です」
「お前さんの中で『恋』ってそういう感じなんだねえ……」
ザリ、と無精髭を撫でながら、モクマはようやくボタンを掛け違えた箇所を見つけたような気がした。やはり根本的な認識にずれが生じているのだ。
チェズレイにとっての『恋』とは、どうにも色欲に偏っているイメージらしい。もちろんモクマとて欲がないわけではないが、というかむしろしっかりあるが、比重としては心のほうに重きを置いてしまう。目には見えない、形のさだまらない情を確かめる手段のひとつとして、その身体にも触れてみたいというのが本音だ。
「仮に、あなたの言い分を信じるとして」
珍しくまだ混乱している様子のチェズレイは、気付けのつもりなのか、割ってもいないどぶろくをひと息に飲み干してしまっていた。案の定、アルコールの強さに顔をしかめている。こんなにも動揺する相棒の姿を見るのは初めてのことだった。
淡い雪色の睫毛が戸惑いに揺れて、眦の花びらに翳を落とす。綺麗だな、と本人に言わせれば月並みな賞賛が心に浮かんだ。
「あなたの目にそうした欲があったなら、あなたより先に私が気づいているはずです。それが解せません」
チェズレイの言葉には、すこし拗ねたような響きがあった。気にするところはそこなのかと苦笑が浮かぶ。
「まあ、おじさんも自覚したのつい三日前だからねえ」
正確に言えば、腹を括ったのは今朝の話だ。
チェズレイは目を見開いてから、どこか途方に暮れたような顔をした。
「一年も一緒に暮らしていて、それほど唐突に感情が切り替わるものですか?」
「切り替わるっちゅうか、自覚がなかっただけで、とっくの昔に惚れてたと思うんだけどね。今までは気づかなくても特に不都合がなかったというか」
なぜ今更になって、という疑問は、チェズレイに問われるまでもなくモクマの中にもあった。そしてその原因も、腹を括った段階であたりをつけている。
きっかけは数日前に届いたルークからのメールだった。運命の出会いの舞台となった飛行船の機長とそこで司会をしていたCAが結婚したという報せだ。ACE本社ビルから機長の娘を助け出した縁もあって、彼らとルークはいまも交流が続いているようだ。直接祝うことはできないけれどおめでたいことだからみんなと分かち合いたいのだとメールには綴られていた。
「元同僚のよしみで、何かお祝いでも送りましょうかねェ」
メールを一読し、チェズレイは珍しく毒のない微笑みを浮かべた。彼らの架空の元同僚こと『空の楽園のお姫さま』は、どことなく楽しげだった。いいねえと相槌を打ちながらも、モクマは何かが胸に支えた気がしていた。その夜に見たのが例の夢だ。振り返ってみると、我ながらなんとも単純だ。
生涯そばにいるという約束が先にあって、相棒という名の関係でいることがあまりにも居心地がよくて、それですっかり失念していたのだ。この先、チェズレイが自分ではない誰かに恋をして結ばれて家庭を持つ可能性だってゼロではないということを。『結婚』の二文字が、モクマにそれを思い出させた。
律儀な男はモクマとの約束を手離すことはないだろうけれど、この口約束は互いのすべてを縛るものではない。
ことり、とグラスを置く音がリビングに響く。モクマが目を上げると、向かいに座る男は、モクマの言葉を吟味するように目を眇めた。
「お前さんがいつか誰かに恋して、その人と一緒になりたいと願った時に、この手を離してやれるんだろうかって考えたらさ」
空になったぐい呑みを手のうちで弄びながら、モクマは苦笑混じりに本心を明かす。
「……俺には無理だなって思ったよ。それがお前にとって一番の幸せだとしても、どうしても許せそうにない」
チェズレイの言葉を借りるなら、『濁り』と呼ぶべきなのだろうか。自分の中にこれほど澱んだ執着があるとは思ってもみなかった。
かつてイズミの手を取らなかったことは、今でも正しい選択だったと思えるのに。彼女が自分で選び直した相手と幸せに過ごしたと知った時、泣きたくなるほど嬉しかった。
あるいは、これから先ナデシコが誰かと共に生きることを選んだとしても心から祝福できるだろう。
それなのに、チェズレイのとなりにいるのが自分以外であることは、どうしても耐えられそうにないのだ。
けれど、死が二人をわかつまで――そう誓いまで立てた相手の全てを欲するのは、そんなにわがままなことだろうか。これが男女の話であれば、誰もおかしなことだとは言わないはずだ。
「……フフ、」
菫色の瞳を眇めてモクマの言葉に耳を傾けていたチェズレイが、ふと吐息で笑った。
「チェズレイ?」
先ほどまでの困惑が嘘のように、艶やかに微笑みながらテーブルの上に片膝をつく。普段の彼なら絶対に見せない行儀の悪さにさえ、どこか気品があるのが不思議だった。
チェズレイは猫のように身を乗り出して、長い指をモクマの頬に這わせる。
「ねェ、モクマさん」
秘密を囁くように、ひそやかな声がモクマの名を呼んだ。
「愛や恋を囁きながら、私を貪り尽くし、利用することしか頭にない――これまで私はそんな下衆ばかり見てきました。……母の他はみなそうだった」
チェズレイが身を屈めた拍子に、銀糸が細雨のようにモクマの膝に滑り落ちた。
「ですから、あなたが私に恋をしていると聞いて正直すこし落胆したんです」
けれど、と続けながら、美しい青年はそっと顔を寄せてきた。陶器のようになめらかな頬にほんのりと朱が差しているのが艶めかしい。
「けれど、あなたが私を想うことで、心を濁らせるのだとしたら。……あなたがその濁りこそを恋と呼ぶのであれば、」
「……――っ」
蕩けるような微笑みに見惚れているうちに、つめたい唇がそっとモクマのそれに触れ、すぐに離れていった。
羽が掠めるような淡い口付け。その感触を確かめるようにチェズレイが舌舐めずりをしてみせる。蠱惑的な仕草に、モクマは目を細めた。
「あなたの濁りを味わえるなら、対価としてこの身を差し出すのも悪くない。そう考えを改めました。……もちろん、あなたがそれでもよければ、ですけれど」
ぱちりと瞬きをしながら、その言葉を咀嚼する。
煙に巻くような、回りくどい言いかたが、いかにもチェズレイらしかった。それが何だか妙におかしくて、モクマは気が抜けたように笑う。
「いいに決まってるじゃない」
恋を打ち明けてひとまず受け取ってもらえたのだから、不満などあろうものか。チェズレイが差し出す感情を彼自身がまだ恋とは名付けられないとしても、モクマに不都合はなかった。
今はまだ名前をつけられないとしても、これから互いにその形を確かめ合っていけばいい。なにしろ先は途方もなく長いのだから。
「だから、チェズレイ」
モクマは細い身体に腕を回して、力任せにぐいと抱き寄せた。そのまま膝の上に座らせながら、おとなしくされるがままの男に笑いかける。
「おじさんと恋に堕ちようか」
見上げた先、澄んだ薄紫の瞳が星のようにきらめいた。ええ、と涼やかな声が歌うように答える。
「あなたとなら――いつでも、いくらでも」
