君よ知るや、南の海

「旅に出ようかと思う」
 その夜、シルヴァンの部屋を訪れたフェリクスはそんなふうに切り出した。飾り気のない物言いは実に彼らしい。その潔さをシルヴァンはいつだって好ましく思っていた。
 けれど今はその言葉が、薄く研がれた刃のように心を削いでいく。
「……どこか、行くあてがあるのか?」
「さてな。剣を振るうことができるならば、どこでも良い。幸か不幸か、小競り合いには事欠かんからな」
 漸く絞り出した問いにフェリクスは小さく肩を竦めてみせた。
 それを横目に、水で割った蒸留酒を二人分グラスに注ぐ。ひとつをフェリクスに渡して、シルヴァンは寝台に腰をおろした。その向かいの、簡素な木の椅子に腰掛けて、フェリクスは杯を掲げる。グラスを合わせると、軽やかな音が部屋に響いた。
 水代わりの安酒は殆ど味がしない。春の終わりに揺蕩う夜、燭台の灯りに照らされた白い頬をぼんやりと眺める。
「――お前も共に来るか?」
 静かな声に問われて、シルヴァンは瞬いた。
 目が眩むような心地がした。
 手を差し伸べられてしまえば、己に課せられたものをすべて投げ打って肯いてしまいたくなる。けれど結局のところ、そうできない自分を知っていた。彼の王を討つと決めてしまった時から、既にふたりの道は分かたれてしまったのだ。ずっと目を逸らして、気づかない振りをしていたけれど。
 答えあぐねていると、フェリクスは微かに笑って杯を傾けた。
「すぐに答えを出せとは言わない。まあ、考えておけ」
 寝台の脇の小卓にグラスを置きながら、フェリクスは明日の天気の話でもするように軽く言った。シルヴァンが頷かないことはおそらくわかっているのだ。わかっていながら訊ねてしまう。そうと見られることを厭うだけで、フェリクスは情の深い男だった。ディミトリのことだって、口では見限ったのだと言いながら、ほんとうはあの暗い淵から掬い上げてやりたかったのだろう。そのためにすべてを投げ棄ててしまった幼馴染をシルヴァンは放ってはおけなかった。
 フェリクスは自ら髪留めの紐を解いてグラスの横に置いた。夜を閉じ込めたような濃紺の髪がするりと彼の横顔を隠した。茫然とそれを眺めていたシルヴァンの手からもグラスを奪い、卓に置いてしまう。
 葡萄酒のような深い色の瞳が、哀れな男を映している。フェリクスは片膝でベッドに乗り上げた。ぎしりと軋む音がやけに大きく響いて聞こえる。
 体温の低い手が頬に触れる心地よさに目を閉じると、ひたいに柔らかな口づけが落とされた。ついで、瞼や鼻先に、優しく熱が降りてくる。
「シルヴァン」
 間近で名を呼ばれ目を開けると、唇に柔らかな熱が触れた。
 たまらずに目の前の男をかき抱く。フェリクスの肩に顎を乗せ、抱きしめる腕に力を込めると、ふたりの心音が混ざり合った。
「……フェリクス」
 ひたいをあわせ、吐息が触れる距離で名前を呼んだ。唇を重ね、舌を絡めて体温を確かめ合う。名残惜しむように唇をはなすと、どちらともなくため息がこぼれた。
 幼い約束を盾にして、死ぬまでこの腕に繋ぎとめておきたかった。
 互いが互いであるためには、叶わぬことだとわかってはいたけれど。

 慰め合うような穏やかな交わりのあと、狭い寝台にふたりで身を寄せ合って、睦言のように他愛もない話をしていた。フェリクスはいつもの頑なさをすっかりほどいて、薄く微笑みながら、どこか行ってみたいところはないのかとシルヴァンに問う。自由気ままな旅などシルヴァンは想像もしたことがなかった。傭兵や行商人でもあるまいし、空想のなかでさえ自由など許されないと心のどこかで思っていたのかもしれない。
 どこか行ってみたいところ。問われた言葉をくりかえして、シルヴァンは見知らぬ国への旅路を思い浮かべようとした。絵画を眺めたり書物を読むことは好きだったから、見たことのないはずの風景を眼裏に描くことは、やってみれば存外容易なことだった。
「南の海が見てみたい。知ってるか、南の国じゃ海は翡翠の色をしてるらしいぜ。俺たちが知ってる真っ黒な海とは大違いだって話だ」
 行商人が見せてくれたような色鮮やかな織物が所狭しと並ぶという、東の国の市場も気になった。故郷にはない鮮烈な紅の組紐は宵闇のような彼の髪にきっと似合うだろう。
 空想の旅路を口ずさみながら、ふたりでさまざまな国を旅するのはきっと楽しいことだろうと思った。どこかで選ぶ答えが違っていれば、そうした未来もあったのだろうか。フェリクスはときおり静かに相槌を打ちながら淡く微笑んでいる。
 さみしさを確かめるような笑い方は彼にはあまり似合わない。けれどもどこかで見覚えがあって、記憶をなぞるように白い頬に触れるうちに思い至る。
(ああ、俺か)
 少し昔の自分は多分、こんな風に諦観を滲ませて笑っていた。そんな些細な癖がうつるほどに寄り添って生きてきたのだ。自分の中にもきっとフェリクスの面影が残るのだろう、そう考えながら、シルヴァンは指先でフェリクスの頬にかかった艶やかな髪を梳く。このまま眠らなければ夜の終わりも訪れないだろうか。胸にわいた子供じみた考えに苦笑して目蓋を閉じた。
 明けない夜などないし、物語の終わりは必ず訪れる。例えそれが夢見た結末には程遠く、苦いものだとしても。

 目覚めた時すでにフェリクスの姿はなかった。予想はしていたが、途方もない喪失感にのろのろと身を起こす。シルヴァンの心とは裏腹に窓から射し込む光はまばゆく、目を眇めながら、窓枠に切り取られた仄薄い水色の空を見遣る。視線を下に落とせば、枕元の小卓に鈍く光る何かがあった。手を伸ばすとそれは、黒鉄の拍車だった。――彼の亡兄の形見だ、とすぐに思い至る。グレンの遺体は家には戻らず剣と拍車のみが戻ったのだと聞いた。彼の兄が最期まで騎士であった証を形見としていたのかと少しばかり意外に思いながらも、どこか納得するところもあった。
 拍車を押さえにして小卓に残されていた羊皮紙には、見覚えのある少し癖が強い字で短く走り書きがされていた。
 ――俺には不要だ。お前にくれてやる。
 ぱたぱたと紙に落ちた滴がインクを滲ませた。考えておけなんて言いながら、シルヴァンが騎士として生きる道を選ぶのだと最初からわかっていたのだろう。
 答えも聞かずにフェリクスは去ってしまった。手のうちのはがねの重みが、その現実を突きつける。行かないでくれと泣いて縋れば、あるいは留まってくれたのかもしれない。けれど、そうやって情に縋って繋ぎ止めることで彼の在り方を損ねたくはなかった。
 フェリクスの前では堪えていた涙があふれては落ちて手の内の拍車を濡らした。
 恋を喪う事がこれほど苦しいなど知らなかった。

 それから何度目かの春が巡る頃、シルヴァンの元へ一通の封筒が届いた。差出人の名はなく、「ゴーティエ辺境伯」と宛名書きがされているだけだ。既に封は切られていた。シルヴァンの書斎へとそれを届けた召使いは、念の為中身は検めたのですが悪戯かもしれませんね、と言った。宛名書きの少し癖のある字に気を取られていたシルヴァンは上の空でうなずく。紛れもなく彼の字だった。見間違えるはずがない。心臓が早鐘のように打ち、てのひらが汗ばむ。封筒の中身を取り出すとちいさな白い貝殻がてのひらにころりと落ちた。手紙はなく送り主の意図はわからない。けれどシルヴァンはすっかり遠のいてしまった春の夜を思い出していた。最後の夜に寝物語で聞かせた暖かな南の海――封筒の中身はその欠片のように思えた。自分が行ってみたいと願った場所を訪れて、その名残を封筒に入れながら、フェリクスは何を思ったのだろう。
 まるで恋文でも受け取られたようなお顔をしていらっしゃる、と気さくな召使いはおもしろそうに言った。そんなに惚けた顔をしているだろうかと己の頬をなぞりながら、しかしたしかに恋文のようなものだろうと納得した。皮肉屋で素直ではない男の捻くれた恋情を、今のシルヴァンは正しく受け取る事ができる。側にいなくても、遠い約束は果たされずとも、思いが消えるわけではないことも理解していた。
 いつかのように眼裏に見た事のない暖かな海を思い浮かべる。白い砂浜を歩く男のうつくしい横顔が見えるようだった。飴色の瞳に碧の海を映して、フェリクスはきっと自分にその海を見せたいと思ったのだろう。それだけで充分だった。
 てのひらに載せた貝殻は祝福のように白く輝いている。