部屋に戻ると福富はラジオのイタリア語講座を聴いていた。
この男の日課だ。良く言えば実直、悪く言えば不器用で、浮いた話のひとつもない男とラテンの国は遠くかけ離れているように思えるが、荒北の知る限り、福富は15分間の外国語講座を欠かさず聴いている。ロードレースの本場はヨーロッパだ。福富は、いずれはプロのロードレーサーになると言って憚らず、そのために必要なこととして言語を学んでいる。
将来的にヨーロッパ圏で生活するなら、英語はもちろん、フランス語やイタリア語も話せて損をすることはない、というのが福富の弁だ。
それを絵空事だと笑い飛ばすことは荒北にはできなかった。
仮にプロになったとして、日本人のロードレーサーが世界を舞台に活躍できるかといえば、そんなものは夢物語に近いのだと、素人が片足を突っ込んだレベルの荒北にでさえわかっている。けれど福富はいたって真面目に、いずれ世界に出るのだと豪語した。
かつては荒北にも、そんな風にひたむきに追いかけていた夢があった。もう今ではとおい感傷のようだけれど、だからこそ時折、目の前の男がひどく眩しく見える。
福富の邪魔をしないように、ローテーブルにビニール袋を置いた。
ちょうど軽快な音楽とともに番組が終わるところで、福富は小型ラジオのスイッチを切ってから「なんだそれは」と目で問うた。
「プリンとティラミス。福チャンどっちがいい?」
少し迷うように視線を巡らせてから「ティラミス」と素っ気なく答えた福富に、荒北が口の端を持ち上げた。
「福チャンってば、がっつり甘いの好きだよねェ」
「どうしたんだ、これ」
「東堂がコンビニで買ってきたやつのお裾わけ。いくら買ったらクジ引きがどうとかって騒いだ挙げ句にアホみたいに甘いモン買ってきたんだヨ。女子かっての」
プラスティックの小さなスプーンを渡しながら説明する荒北に、そうかと短く頷いて、福富はいそいそとテープを剥がしている。こころなしか嬉しそうだった。
鉄仮面と呼んでいたこともあったが、案外とわかりやすい男だ。子供のようだと思うこともある。時折、実家の飼い犬に見えるのは、荒北が最近ひそかに抱えている秘密だ。
マスカルポーネチーズのケーキをスプーンですくいながら、ふと、福富が口を開いた。
「“Tira”はイタリア語で『引き上げる』という意味だ」
「またイタリア語のお勉強?」
「“mi”は『私』、“su”は『上へ』。直訳すると『私を引き上げて』、ニュアンスとしては『私を元気にして』。意訳をすれば『天国へ連れてって』というところだな」
「あァ、口説き文句なのネ」
早々に自分の分のプリンを平らげた荒北が、テーブルに肘をついて呆れまじりにぼやく。福富は軽く頷いて、最後のひとくちを掬ったスプーンを荒北の口元に差し出した。食べろということらしい。特に遠慮する理由もなく促されるままにスプーンに食らいつくと、こってりとした甘さとほろ苦さが口の中に広がった。「まあ悪くないんじゃナァイ」素っ気ない感想を述べる。福富は空になった容器にスプーンを突っ込んでから、荒北を見た。
「来年の夏、俺を引くのはお前がいい」
さきほどティラミスを選んだ時と同じような素っ気ない言葉に、とっさにその意味を理解できずに、まじまじと福富を見つめた。
「……もしかしてオレ口説かれてんのォ?」
「そうだ。お前ならできるだろ」
少しばかり不意打ちを食らった気分で荒北は瞬く。冗談のようにも聞こえたが、生憎この手の冗談を言えるような男ではないことは短い付き合いの中でもわかることだ。
三年目のインターハイでレギュラーを勝ち取って、エースアシストになれと、この男は言っているのだ。競技歴の浅い荒北に無理難題とも思えるオーダーを突き付けるのは、期待されている証だと思えば悪い気はしなかった。
挫折を知らない訳ではないのに、どこまでも前を見て走る男だ。
この男ならば――この男だからこそ、自分が引いてみたい。
新しい夢が自分の中で生まれる気配がして、荒北はうすく笑んだ。目の前の男の眩しさに目を眇めるようにして。
「いいぜ、オレが福ちゃんを天国に連れてってやるよ」
