うばっちゃった

 ザアザアと雨が降る音は深夜に何も映らなくなったテレビの砂嵐に似ている。だから余計に耳の奥にこびりついて離れないのかもしれない。
 街はまるで影の中に沈んでいるようだった。
 田舎町の夜は店の灯りもなく、おまけに雨のせいで視界が悪い。もともと景気の悪そうな商店街がいっそう陰鬱に見えた。
 足立はスーツの内ポケットから煙草を取り出して銜えた。
(ツイてないなあ)
 煙草の先端に火をつけて煙を吸い込む。雨の匂いまで一緒に吸い込んでいるような気分だ。
 帰る道すがら突然の通り雨に降られて足立は慌ててシャッターの降りた商店の軒先に駆け込んだ。それからかれこれ30分は雨宿りをしているけれど雨脚はいっこうに弱まる気配を見せない。こんな日に限って傘を忘れたのは本当に失敗だった。このところ天気予報をチェックするのが日課になっているというのに。
 諦めて濡れて帰るという手もあったがクリーニングにスーツを出すのももったいない。
「普通コンビニとかあるでしょ」
 足立の常識ではコンビニは五分おきに建っているものだし24時間営業しているものだ。ところがこの片田舎ときたらコンビニなんかそもそもないし商店は軒並み早仕舞いで、沖奈まで出なければレンタルビデオ屋すらないというありさまだった。どうりでジュネスが繁盛するわけである。
「足立さん?」
 シャッターに背を預けてぼんやりと煙を吐き出しているところを聞き慣れた声に呼ばれた。驚いて顔をあげると上司の甥である少年がビニール傘をさして立っている。小奇麗な顔立ちの少年は表情が乏しく、涼しげな目元からはあまり感情の起伏が感じられない。名前を鳴上悠、という。
「あれ、悠くん。こんな時間にどうしたの」
 もはや深夜にさしかかる頃だ。少なくとも高校生が出歩く時間ではない。現職の刑事としては補導でもするべきところだろうかと一瞬考えたが、それも面倒な話だ。
(余計なことして堂島さんに目をつけられてもつまんないし)
 鳴上は知らないことだが、足立にとっての彼はゲームの駒だ。欠かすことのできないピース。けれどそれはあくまでゲームを楽しむためのもので、鳴上個人に対して好意的な感情があるわけではない。それどころか、その整った顔が歪むのを見てみたいという嗜虐的な欲求さえあった。もちろんそんなことはおくびにも出さずに、表面上は間の抜けた刑事を演じて彼の家に入り浸るうちに、つんとすました猫のような少年もずいぶんと打ち解けてきたように思う。
 それでいい、と足立は内心でほくそ笑んでいた。
 ヒーローごっこに酔いしれていた少年が身近にいる人間の嘘さえ見抜けなかったとしたらお笑い種だ。真実を知った時どれほど驚愕するだろうかと想像するのも退屈しのぎにはなった。
(まあ僕はバレるようなヘマなんかしないけど)
「バイトの帰りです。足立さんこそ、こんなところでどうしたんですか」
「見りゃわかるでしょ。傘忘れたから雨宿りしてんの」
「明け方まで止まないって天気予報で言ってましたよ」
「マジで?」
 さすがに明け方まで雨宿りというわけにはいかない。がしがしと頭をかいてため息をつくと、鳴上はすこし考える風に瞬いてから言った。
「よかったら俺の傘に入りますか。うちに寄ってくれれば、あとは傘貸しますよ」
「ほんと? いやぁ助かるよ!」
 男二人で相合い傘なんて寒々しいことこの上ないが背に腹は変えられない。藁にも縋るとはこのことだと思いながら手を取ると、現金ですねと言って、鳴上は珍しく屈託のない笑い方をした。ふわっと一瞬花が咲くように空気が綻んだ、ような錯覚。
 どちらかといえば大人びた少年がこんな風に笑うのを見るのははじめてだった。そう気づいて何故だかひどく動揺した。そうして動揺する自分に驚いて、気を落ち着けるために指に挟んだ吸いさしの煙草を銜えなおす。
 なんだって僕がこんなガキ相手に動揺しなきゃならないんだよ、冷静になれ。そう自分に言い聞かせてみる。
 鳴上はぱちり と瞬いて首を傾げた。
「どうかしましたか」
「いやその、……悪いんだけど一本吸い切っちゃっていいかな。さっき火をつけたばっかりだからもったいなくて」
「足立さんってけっこう図々しいですよね」
 呆れたように呟いて、それでも鳴上は傘をたたんだ。軒下に入り込み、足立の横に並んで立つ。
「そこではっきり言っちゃう君も相当なもんだと思うけど。普通はもっと謙虚にオブラートに包むでしょ」
「俺は謙虚な方だと思いますけど」
 またまたあ、と足立は努めて軽い調子で笑い飛ばした。内心の動揺は鳴上には伝わっていないようでほっと息吐く。言葉が途切れて沈黙が落ちる。ザアザアと雨音ばかりが耳についた。しばらくしてから鳴上がぽつりと呟いた。
「雨が降ってると視界が悪くて、街が影の中にあるみたいですね。まるで――の中にいるみたいだ」
「えっ?」
 低く静かな声だと思った。
 けれどもそれよりも言葉の内容に驚いて鳴上を見た。さっきまったく同じことを考えたからだ。しかし鳴上はその反応をどう捉えたのか、少し照れたように首を竦めた。
「変なこと言ってすみません」
「いや……」
「そういえば足立さん、煙草吸うんですね」
「うん?」
 強引に話題を変えてこちらを向いた鳴上と目が合った。光の加減で銀灰色に見えるつり目が猫みたいだと思った。まっすぐな視線は足立が彼を苦手とする最たる理由で、煙草をふかす振りをしてさりげなく目を逸らした。
「ああ、まあたまにね。君の前で吸ったことなかったっけ。でも堂島さんヘビースモーカーだし、べつに煙草くらい珍しくもないでしょ」
「そうですけど足立さんが吸うのは意外かも」
「そうかな」
「あと叔父さんの煙草と違って甘い匂いがします」
 鳴上は足立の首もとに顔を寄せてすんと鼻を鳴らした。その仕草がいかにも子どもじみていて、足立はぎくりと身体を強張らせた。ごく間近に端正な顔があっていささか気後れする。女顔というわけではないが目鼻立ちがはっきりとしている。色素の薄い目や灰がかった髪色のせいでどこか浮世離れした雰囲気があった。
 それにしても度を越した美形というのは間近で見るといっそ視覚の暴力だ。
「雨の匂いに混じってるけど、なんだろう、バニラっぽいっていうか」
「ちょっと、悠くん」
 しかし足立の動揺に鳴上は少しも気づく様子がない。もしくは気づいていて無視しているのか。どちらにしても何となく負けたような気がして面白くない。
 どうにか意趣返しをしてやろうと目の前にある整った顔を凝視する。あ、くちびるやわらかそう。ふとそんな場違いな感想が脳裏を過った。そう思ったらちょっと触れたくなってきて、気がつけばかすめるように唇を目の前のそれに押し当てていた。
 ひゅっと息を飲む音が雨音に紛れて耳に届く。
「……な、にするんですか」
「何ってキスだけど」
 くちびるを離してから十秒ほど固まっていた鳴上は不意に我に返ったように呻いた。耳まで真っ赤になっている。老若男女問わずモテると噂の少年の、意外なほどすれていない反応に足立の方も動揺した。そもそも自分の行動が信じられない。相手は高校生で男でおまけに上司の甥っ子だというのに。不用意にもほどがある。
「そうじゃなくて、なんでその、……キスなんか」
 鳴上は耐えきれなくなったのかうつむいた。語尾が消え入りそうだった。
 いやいや、何で恥じらってんの。
 足立は更に動揺した。
 こんな初心な反応が返って来るなんて予想外もいいところだ。色素が薄いせいで首筋までまっかに染まっているのが丸見えだった。うつむいた拍子に見えたうなじが妙に艶っぽいのがまたアンバランスでなんとも落ちつかない。
「いや、……なんていうか、君がかわいかったから、つい?」
 ほとんど犯罪者の言い訳だ。いや、実際犯罪者なんだけど、そうじゃなくて。
「か、かわいいって」
 反応するとこそこなんだ!?
 ほんのちょっとからかってやるつもりがどんどんおかしな方向に転がっている。深みにはまる前に、冗談にして話を終わらせなければまずいことになりそうだと足立は危機感を募らせた。もはや既に充分深みにはまっている気がするがそこは全力で目を逸らす。動揺で震える指を宥めて肺いっぱいに煙を吸い込んだ。
「ほら、僕の煙草が甘い匂いだっていうからさ。味までは甘くないでしょ。なんて」
「えっ」
 鳴上は驚いたように目を見開いた。
 そうそう、からかわれたのを理解して怒るなり傷つくなりすればいいんだよ。なんだかひどく疲れたような心地がして意地悪く考えた。これで泣いてくれたら胸がすくに違いない。というか、いっそ泣いてくれ。そうすればごめんね冗談だったんだよと謝って終わりだ。
「あの……、一瞬だったんで味まではよく」
 しかし鳴上の反応はやはり斜め上だった。茫然として足立は煙草を取り落とした。慌てて吸殻を踏み消してから 、ひたいを抑えて天を仰ぐ。もしかしてこの子ド天然なんだろうか。
「あ、足立さん?」
「あー、あのね、君もう少し考えてから喋った方がいいよ。これ大人からの忠告ね」
「は? あの、どういう意味です、っ」
 答える代わりに、続けようとした言葉ごと口を塞いでやる。顎を押さえつけてやわらかい下唇を甘噛みすると、鳴上は手にしていた傘を取り落とした。カツンとプラスチックの柄が地面にぶつかる軽い音が響いた。それには気にも留めずに薄く開いた唇の間に舌を差し入れる。上顎を嘗めてやると鳴上は背を震わせて足立の袖口を握りしめた。いじらしいというか初々しいというか。そういう反応も悪くはない。足立は腹の底で笑ってぬるりと熱い舌を絡めた。息継ぎの仕方がわからないのか鳴上は苦しげに呻いて眉を寄せる。その表情にすら煽られる。
 結局耐えきれなくなった鳴上が袖をぐっと引くまで存分に楽しんでから、最後に軽く啄ばんでから唇を離す。鳴上は顔を真っ赤にして肩で息をしていた。
「こうやって悪い大人に付け入られるって意味だよ。どう、味、わかった?」
「……苦かった、です」
 べたべたに汚れた口元を袖口で乱暴に拭いながら鳴上はこちらをにらみつけるように見た。この状況でも目をそらさずに真っ直ぐに見つめてくる根性は見上げたものだ。足立は少し笑いながら地面に転がった傘を拾う。雨は相変わらず弱まる気配すらなかった。
(やばいなあ、ちょっと癖になりそう)
 勢いというのはよくないなと足立はひそかに反省した。からかって遊ぶうちはまだしもうっかりこのまま手を出してしまったら後々面倒なことになる。だいいち万が一にでも堂島にばれたら殴り飛ばされるだろう。というか殺される。おまけに堂島家に出入り禁止だ。それは困る。
 ビニール傘を開いて鳴上の方をちらりと見る。
「煙草吸い終わっちゃったし、帰ろうか」
 鳴上はまだ何か言いたげだったが結局口をつぐんだまま傘に入った。
 ふと思いついて傘を持たない方の手をポケットに突っ込んでキャンディをとりだす。張り込みの時など煙草が吸えない場所での、口寂しさを紛らわすための常備品だ。包み紙を片手で剥いて隣りを歩く少年の唇に問答無用でねじ込んだ。むぐ、と驚いたように鳴上が呻く。
「……なんですか、これ」
「口直し、と口止め料かな。堂島さんには言わないでね」
 鳴上はしばらく沈黙してから「実はファーストキスだったんですけど」と衝撃的な告白をしてみせたが、あまりにも衝撃的だったので雨音で聴こえないふりをした。