冬の海はごうごうと音を立てていた。
くろぐろとした波はすべてを飲み込む大きな口のようだ。いかにも冷たそうで落ちたら凍えて死んでしまいそうだなと思った。
傍らに立つ津久居さんは左手で僕の手首を掴んで、右手の指にはいつものように煙草を挟んでいる。
そんな風に力を込めて捉まえていなくても、僕は逃げたりしないのに。
そう思うけれど、手を繋いでいることは嫌ではなかった。彼が唇に銜えると煙草の先端がちらちらと赤く光って、薄暗い海辺の灯台のように見えた。外を歩く時には眼鏡を外すように言われていたから、こんなに近い距離にあっても津久居さんの輪郭すらぼやけて見える。煙草の赤い灯火だけがはっきりとした道しるべのようだ。
ここがどこの海なのか、僕は知らない。
僕たちは逃げるように転々としているけれど、なぜ逃げる必要があるのかもわからなかった。問いかければ彼は答えてくれるのかもしれない。でも津久居さんが何も言わないのであれば、僕には理由なんてどうでもよかった。
外に出る時には眼鏡をはずして、耳にはイヤフォンをつけた。そんな状態では僕はひとりで歩くこともできないけれど、津久居さんが手を引いてくれるので問題はなかった。彼の音楽プレイヤーから流れてくるのは僕があまり聞かないような曲ばかりで、唯一知っていたのはいつだったか清史郎が貸してくれたロックミュージックくらいだった。貸してもらったというよりは彼の好きなものを無理やり押し付けられたというのが本当のところだ。ずっと離れていたのに同じ歌が好きだなんてやっぱり兄弟なんだなと思った。
だから僕はそれを繰り返し聴いている。
(Caught in the undertow, just caught in the undertow)
海を見たいと言い出したのは僕の方だ。
幾度目か宿を変えた時のことだった。部屋にはテレビもないし、僕は目と耳を塞がれたような状態で津久居さんに手を引かれていただけだから、自分がどこにいるのかなんて見当もつかなかった。海が近いのか遠いのかもわからない。ただ船を浮かべてみたかった。
移動の時以外はテレビもラジオもない部屋の中にいるように言われて、模型の船をつくることくらいしかやることがなかった。作りかけの船だけが僕の持ち物だ。視力は低下していたしもともと細かい作業は得意ではないからそれなりに時間はかかったけれど、津久居さんが手伝ってくれたのもあって不格好ながら船は完成した。せっかくだから海に浮かべてみたいと思ったのだ。
津久居さんは煙草を灰皿に押し付けながら眉をひそめた。
「きっとすぐに沈むぞ」
「それでもいいんです。だって船は海になければ意味がないでしょう」
彼はじっと僕を見つめてから、根負けしたように視線を逸らして頷いた。そして冬の海に僕を連れていってくれた。
模型の船を海に浮かべるために、僕の手を掴む腕をそっと解いた。
片手に提げていた紙袋から船を取り出す。波は荒い。けれども構わずに船を浮かべた。寄せて返す波に小さな船は流されていく。そしてすぐにくろぐろと凍えた海にのまれてしまった。呆気ないくらいに簡単に。
となりに立つ津久居さんを見上げると、彼はじっと海を見つめていた。沈んでいく船に、たぶん僕よりもずっと傷ついた顔をしている。
「俺はおまえを守ってやりたいのに、どこでやりかたを間違えたんだろうな」
頼りない声で彼は言った。
その手を今度は僕が掴んだ。津久居さんは相変わらずじっと遠い海を見つめている。
(あなたがとなりにいるなら、僕はあの船のように沈んでしまったってなにも怖くはないのに)
