「月が綺麗だね」
世界の秘密を打ち明けるようにフィガロが囁く。その言葉の意味を拾い損ねて、レノックスは眉をひそめた。
――外は嵐だ。
激しい風雨が屋根や鎧戸を叩いている。唸るような風の音に混じって、ときおり激しい雷鳴も聞こえた。窓を開けたところで月など見えるはずもない。
それならば、フィガロはどういった心づもりで見えない月を讃えたのか。その言葉に自分はどう返すべきなのだろうか。いつもの冗談だろうと軽くいなせばいいのか、あるいは隠された真意を探るべきか。
レノックスは組み敷いた男を静かに見下ろした。
枕元に置いたランプの明かりが、灰がかった瑠璃色の髪をゆらゆらと照らしていた。そのさまは斜陽を映して揺蕩う冬の海を思わせる。白いひたいはうっすらと汗ばんでいた。指を伸ばして、汗で張りついた前髪をそっと払いのけてやると、榛色の瞳がくすぐったげに細められた。
男は片眉を跳ね上げて、口の端だけで微笑む。痛みを堪える受難者のようであり、憐れみを授ける聖職者のようにも見える。彼がこんな風に笑うのは、機嫌が良いのか、不機嫌だからなのか、レノックスにはわからない。なにしろ、共寝をしたくらいで心のうちを明かしてくれるようなひとではなかった。
もとより自分は口が上手いたちではないのだ。話術で他者を操ることに長けた男と、言葉で駆け引きをするのはいささか荷が重い。
レノックスはそう結論づけて、長い脚の片方を持ち上げる。うすい瞼がぴくりと震えた。これから訪れる衝撃を予見したのだろうか。フィガロの目がきつく閉じられる。知らぬ間にレノックスの口許も笑みのかたちに歪んでいた。すっかり慣れてしまったとはいえ、空恐ろしいほど滑稽な状況である。思わず笑ってしまうほどに。
かの偉大な北の魔法使いが……、あのお方の敬愛する師が、自分のような凡庸な魔法使いに好き勝手されるなど。
まったく、たちの悪い冗談のようだ。もちろん、フィガロ自身が望む『遊び』だからこそ許されることだった。そうでなければ、レノックスなどとうの昔に石にされているだろう。その程度はわきまえているつもりだ。
痩身を折り畳むようにして体重をかけ、臓腑の奥深くまで穿つ。獣の断末魔を思わせる、か細い悲鳴があがった。鼓膜を打つのは、荒い息遣いと雨音。ベッドが軋む音。亡霊の怨嗟に似た風の音。しかしそのどれもがどこか遠く、代わりに触れた膚から互いの鼓動が響き合うような気がした。
心は読めなくとも、身を捩ろうとする男を捕まえて、ぐずぐずに溶かしてしまうことはたやすい。魔法を使うまでもないことだった。たとえは悪いが、組み手や乗馬のようなものだ。一度こつを掴んでしまえば、主導権を握ることはさして難しくはない。手綱を引くように肩を抱き寄せ、宥めあやすうちに、いつもは理知的な瞳が舐めかけの飴玉のようにとろけていく。
レノックスにとっては、奉仕のよろこびに等しい。つまりは、求められる役目を果たすための行為だった。傅き、つま先に口づけ、膚を舐める。レノックスが相手を満たすことで満たされる性分であることを、フィガロはあやまたずに見抜き、役割として与えてくれる。羊飼いとしてこの地に留まるよう勧めたことも、寝台に招き入れることも、彼の中では同じようなものなのかもしれない。
彼にとって自分が特別な存在なのだと勘違いしたことはなかった。フィガロは誰に対しても、施しを与える者だったからだ。二千年のあいだずっと、己の在り方を疑うこともなくそうしてきたのだろう。
それでも、嵐の夜にこうして身を寄せ合っていると、つい錯覚してしまいそうになる。凡庸な魔法使いに過ぎない自分でも、彼がひととき羽根を休める枝くらいにはなれるのではないかと。
(ずいぶんと身勝手だな、俺も)
レノックスは苦く笑う。
南に吹く風は肌に合っていた。山での暮らしは生まれ故郷に似て懐かしくもあり、長旅にくたびれた心もすっかり癒された。このまま羊飼いとして暮らしてゆくことを選ぶのが、きっと身の丈に合った幸いなのだろう。けれど、いずれは旅立つ日がやってくる。フィガロが作り上げたこの楽土を捨てても、かの人を探さずにはいられない。諦めることのできない自分を、レノックスは誰よりも知っている。
「レノ?」
気を散らしたことを咎めるように名を呼ばれ、はっと我に返る。長い指が絡みつき、催促するように首の後ろを撫でられた。刈り込んだ生え際のざらつきを楽しむように、ゆったりと。
「こんな時に、なに考えてたんだ?」
問い詰める声は揶揄いを含んでいる。
どうやら機嫌を損ねたわけではないらしい。フィガロはほとんどの場合において誰よりも寛容だった。共寝の相手がよそごとを考えたとしても、気にもとめない。ただ、悋気を見せるふりをするのが楽しいのだろう。
あなたのことを、と囁くような器用さは、あいにく持ち合わせていなかった。さりとて、この地を出ていく日のことですと馬鹿正直に答えるのもさすがに気まずい。
「……月が綺麗とは、どういう意味なのかと」
結局、最初の引っ掛かりを吐露することにした。あなたの真意がわからないと告げたところで、素直に答えてくれるような人ではないだろうと予想しながら。
フィガロは幾度か瞬きをくりかえしてから、幼い子供をあやすような笑い方をした。
「外は嵐で、月なんて見えやしないのに?」
「はい。……何かの謎かけですか?」
「さあ、……それより、いい加減、きついんだけど……っ」
少し本気で背中を叩かれる。
内臓を圧迫されたままでは確かに苦しいだろう。すみません、と囁いて律動を再開する。切れ切れの悲鳴を塞ぐように口を合わせた。畏怖すべき存在が、この腕の中では憐れで弱々しい。はやく楽にしてやりたくて、獲物を仕留めるように喉元に噛みついた。
「――ッ」
フィガロは目を見開いて気をやった。
締めつけに逆らわず、跳ねる身体を押さえつけるようにしてレノックスも射精した。荒い息を整えながら、フィガロが呪文を唱えて互いの身を清めていく。心地よい倦怠感のなか、寝台に身を横たえてから、レノックスはとなりの男の横顔を眺めた。
「それで、月が綺麗、とは?」
「おまえな……」
しつこさに呆れているのか、鬱陶しく思っているのか。わずかに険を含んだ声音に、しかし今更怯えるはずもない。
「…………」
「…………賢者様の受け売りだよ。異世界にはそういう睦言があるんだとかで」
フィガロは根負けしたように嘆息した。
彼がときおりグランヴェル城を訪ねていることはレノックスも知っていた。アーサー王子の様子を見に行っているらしい。そしてよく王城に顔を出すという異世界からの来訪者とも面識があるとは聞いていた。
異世界では月は忌むべきものではなく愛でるものなのだという。共寝をするような相手と月を眺めてその美しさを語り合う。そんな話を思い出したのだとフィガロは続けた。
「……嵐の夜に、ですか?」
「うるさいな」
これ以上話す気はないというように、フィガロは目を閉じた。眠ったふりだろうとは思ったが、問い詰めたところで無駄だろう。レノックスも目を瞑り、瞼の裏に〈大いなる厄災〉を思い描く。
冴え冴えとした冷たい光。
世界を滅ぼすかもしれないもの。
しかし長旅の道中で、レノックスはときおりその光に助けられた。闇深い森の中を青白い光を頼りに進んだ夜もあった。
レノックスにとって月とは、となりで眠る男のようなものなのかもしれない。
(「月が綺麗だね」)
囁きは波のように耳奥に残り、やがて嵐の音にかき消えた。
◇
「月が綺麗ですね」
満月の夜、異世界から来た青年は軽薄に笑った。
「俺が住んでた国では、『愛してる』の代わりにそう言うんすよ」
グランヴェル城のバルコニーには結界を張っているから、人間はもちろん、並大抵の魔法使いは、フィガロたちの存在にすら気づかないだろう。
賢者が暮らすのは魔法舎だが、ほとんどの魔法使いたちは〈大いなる厄災〉が訪れる数日間しか宿舎に留まらない。賢者様に心細い思いをさせては申し訳ないと、アーサーはたびたび賢者を城に招いた。アーサーの様子を見にフィガロが城を訪れた際、賢者も滞在していたことがあり、それ以来何度かこうしてこっそり晩酌をする仲だ。
「『月が綺麗』が愛してるの代わりなんて、酔狂だなあ」
「まあ、俺の世界じゃ月はそんなに不吉じゃないんで。『愛してる』なんて直球過ぎて無粋だ、遠まわしに言えって昔の有名な小説家が言ってたとかなんとか」
「ふうん。きみにも、そういうこと言う相手はいた?」
たいした意味もない世間話として尋ねると、賢者は目を丸くしてから皮肉っぽく笑った。
「まさか」
普段の軽薄さはなりをひそめて、痛みを堪えるように口の端を歪める。
「そんな相手がいたら、この世界にいることに耐えられないでしょ」
◇
「月が綺麗だね」
考えるより先に、言葉は転がり落ちていた。
こちらを見下ろすレノックスは困惑したように眉根を寄せた。外は嵐で、月など見えないのに何を言っているのだろう。そう顔に書いてあった。
それが少し滑稽で、笑ってしまう。
レノックスのことを愛しているわけではない。閨を共にするのは施しであって、愛ではない。それはレノックスも承知していることだ。彼に役目を与えて、この地に留まる言い訳を与えているだけだった。フィガロの前に現れた日の瞳の暗さは、数十年のうちにすっかり消え去り、本来の穏やかさを取り戻しつつある。
近いうちに、この地を旅立つ日が来るのかもしれない。
傷つき疲れ果てた心と身体を癒せば、レノックスがここに留まる理由はなくなる。呆れるほどの愚直さと、羨ましいほどの執念は、留まり続けることを彼自身に許さないだろう。
「……それにしても、ふてぶてしいやつだな」
夜半過ぎ。
客間に移動するのも面倒で、大の男二人で同じ寝台に寝転がっている。
フィガロがとなりにいるというのに、レノックスはすっかり寝入っていた。剛胆というよりは、ふてぶてしいと評するべきだろう。フィガロの気分次第で石にされることもあるのだと、わかっていないわけではないだろうに。
夜明けが近づくにつれて、嵐は遠くなった。
この分だと朝にはすっかり晴れているだろう。
朝食の匂いと共に揺り起こされる朝を思い描きながら、フィガロは目を瞑った。
