0.Prologue
「おまえの負けだよ」
鮮やかな柘榴の双眸を歪めて、魔法使いが笑う。
その瞳は、空に昇りはじめた月のように禍々しい赤だった。
きれいに磨き上げた革靴に踏みつけられている。悪い夢を人の形にしたかのような青年は、少女のごとく可憐に微笑み、冷たく甘い声でカインを詰った。
「騎士様は正義の味方なんでしょう? なのに嘘をついてみんなを騙していたんだね」
歌うような声は、どこか遠い。
血を流しすぎたのかもしれない。目はかすみ、悪夢のような男の姿もぼやけてしまう。
「嘘つきは死ななくちゃ」
カインを覗き込んだ男は、場違いなほど無垢な微笑みを浮かべていた。虫も殺さぬような優しげな顔をしながら、この男はカインを殺すのだろう。騎士団の仲間たちはどうにか逃すことができたものの、一矢報いることすらできなかった。剣は届かず、付け焼き刃の魔法などその前髪を揺らすこともできない。手も足も出ないとはこのことだ。花を手折るよりも容易く、この命は摘み取られる。死を前にしたカインの胸に去来するのは、恐怖よりも悔しさだった。せめて怯えてなどやるまいと気力を振り絞って睨みつけると、魔法使いはどこか楽しげに唇を歪めた。
「だけど、ただ殺すなんてつまらないから、死よりも酷い屈辱をあげるよ」
白く細い指先がカインの左瞼に触れる。徴を与える神の遣いのような厳かさで。
次の瞬間、左眼に灼熱が走った。熱した鉄を眼球に押し当てられたような激痛に、喉から絶叫が迸る。気を失えば楽になれるだろうが、灼けるような痛みがそれを許さない。
「はは、情けない顔。このくらい、死ぬよりは痛くないのに」
花が綻ぶかのような微笑みを浮かべる魔法使いの左眼は、いつのまにか柘榴の赤から琥珀色に変わっていた。己の目の色だと、一拍遅れて気づく。
左眼を奪われたのだと直感が告げていた。そして代わりにこの男の瞳を楔のように埋め込まれた。与えられた屈辱を、決して忘れることがないように。魔法使いはカインに呪いを掛けた。自分を討ち倒すことでしか解けない呪いを。
「またね、騎士様」
遠くでそんな声を聞きながら、カインの意識はそれきり闇に沈んだ。
1.Night
十人の魔法使いを石に変えた<大いなる厄災>を撃退し、賢者は異世界へと還った。
大惨事となった前回の教訓から魔法舎で訓練を積んだ賢者の魔法使いたちは、その甲斐あって大きな痛手もなく厄災を退けることに成功したのだ。世界が『役目を終えた』と判断したためなのか、別れを惜しむ暇もなく賢者は姿を消していた。
明くる年の<大いなる厄災>は手応えもなく簡単に押し返すことができた。
とはいえ、月を砕いたわけではないから、賢者とその魔法使いは変わらず世界に必要とされ続けた。これまでの数千年の繰り返しと同じように、新たな賢者が塔に訪れて、彼か彼女と共に厄災を退け、いずれ賢者は去って行く。きっとこれからの数千年もその繰り返しなのだろう。
厄災が脅威ではなくなり、魔法使いたちが共同生活を送る理由もなくなった。むしろ各国の情勢を鑑みれば、中央の国が魔法使いたちを抱え込む構図はあまり好ましくはない。魔法舎は年に一度厄災を押し返すためにやってくる魔法使いのための宿場へと戻ることになった。
皆で過ごす最後の夜に「お別れのパーティをしましょう」と提案したのはルチルだった。苦楽を共にした賢者に別れを告げることは叶わなかった。せめて、みなさんとはきちんとさよならをしたいんです。そう微笑むルチルに、他の魔法使いたちも思うところがあったのだろう。その夜、魔法舎では別れの宴が開かれた。
クロエが皆に『お揃い』の衣装を仕立て、ネロは食堂のテーブルいっぱいにご馳走を並べた。シャイロックが美酒を振る舞い、ラスティカが奏でるチェンバロの音色に合わせて、まずはカインが踊り出す。つられるように幾人かがステップを踏んだ。あのファウストまでもが優雅に踊り始めて、食堂には喝采が湧く。引っ込み思案のヒースクリフもシノに手を引かれて輪の中に入っていった。人嫌いの東の魔法使いたちが率先してパーティを楽しんでいるせいか、皆つられるように歌い、踊り、魔法舎は奇妙なほど陽気な喧噪に包まれていた。双子やブラッドリーならばともかく、オズやミスラまでもが誰かに手を引かれて輪の中にいる。
オーエンは退屈だった。
ケーキや菓子を取り分けた皿を手に、窓辺でひとり月を眺める。『お揃い』はなんだか奇妙におかしくて気に入っているけれど、『お別れ』の何が寂しいのかがわからない。ずっと独りで生きてきたし、別離を惜しむような相手などいないからだ。寂しさを紛らわすように、ことさら陽気に振る舞う魔法使いたちの姿は、オーエンの目には滑稽に映った。
愛の喪失や別離を嘆く人々は、ともすれば恐怖や怒りに染まっていくものだ。だからオーエンにとっては格好の獲物だった。悪意は滴る蜜のごとく甘い。それを味わいたくて、オーエンはたくさんの別離を、喪われる愛を、間近で眺めてきた。甘美な言葉を舌に載せて、信頼を不信に、愛を憎悪に、希望を絶望に変えては、生まれる悪意の果実に歯を立てて齧ってきたのだ。けれど、オーエン自身にとってはどれも遠い夢のような感情だった。
(魔法使いが『寂しい』だなんて馬鹿げてる)
ふと強い視線を感じて、煩わしげにそちらを向くと、カインと目があった。色違いの目がじっとオーエンを見つめている。物言いたげな瞳に、オーエンはきゅっと眉を寄せた。
おまえもこちらに来い、輪の中に入れ、そんなくだらないことを言われる予感がした。だとしたら興醒めだ。
(僕はきみたちと違って、孤独が心地良いんだよ)
カインの唇が、何かを告げるために開く。その瞬間、オーエンは呪文を唱えて、ゆらりと吹き消される炎のように姿を消した。
魔法舎の屋根の上に立ち尽くして、オーエンは月を見上げる。咄嗟に転移の魔法を使い、外へ出てしまった。まるで逃げ出したように見えてしまったかもしれない。そう気づいて、苛立ちが募った。自分より弱い魔法使いからおめおめと逃げ出したなどと誤解されては屈辱の極みだ。ただ退屈で、つまらなくて、くだらない馬鹿騒ぎに付き合う気が失せてしまっただけなのに。
このまま箒に乗って、北の国へ帰ってしまおうか。別れを惜しむだなんて、まったく自分らしくもないのだから。
<大いなる厄災>はまだ手が届きそうなほど近くで、銀色に光り輝いている。あの月になれたらいいのに。オーエンはそんなことを考えていた。
どこかの哲学者気取りの魔法使いと違って、月を抱きしめて砕け散りたいわけではない。けれど、己が<大いなる厄災>だったなら、誰にも邪魔されることなく孤独を味わえるだろう。あの月に寄り添える者などいない。大抵の者は月に怯え、忌み嫌った。たとえ月を愛する変わり者がいたとしても、近づけば魂を砕かれてしまうのだ。冴え冴えと空に輝く厄災は、この世界で誰よりも孤独だ。
月明かりの下で、ステップを踏む。
観衆などいらない。喝采など欲しくもない。弔いの歌を歌いながら、オーエンはくるりとターンをした。あの月になって、誰からも忌み嫌われながら、世界を滅ぼしてしまえればいいのに。
「――独りで踊るなよ」
場違いに明るい声がして、オーエンは足を止めた。声の主――カインが箒に乗って夜空を飛んでいる。年若い元騎士団長は箒から降りると、オーエンと同じように屋根の上に降り立った。
「人気者の騎士様が、パーティを抜け出してよかったの?」
「俺のための宴会ってわけじゃないからな。みんなすっかりできあがってるし、俺がいなくたって誰も気にしないさ」
連れ戻しに来たのか、あるいは様子を見にきたのだろうか。カインの意図を探ろうとじっと見つめてみても、若い魔法使いは邪気のない笑顔を浮かべるばかりだ。少し酔っているのだろう。吹き抜ける夜風に、気持ちよさげに目を細めながら、カインもまた月を見上げている。夕陽を熔かしたような赤い眼は、元は自分のものであったとは思えないような、甘い色をしていた。
「もう帰るのか?」
「馬鹿騒ぎにも飽きたからね」
「そっか」
軽く頷くカインに、引き留める素振りはない。そう考えてから、まるで引き留められることを自分が望んでいるようで、オーエンは不愉快さに顔をしかめた。
僅かな沈黙の後、カインはオーエンの眼前に手を差し出した。
「ほら、お手をどうぞ?」
「……何の真似?」
「何って、独りで踊るよりは一緒に踊る方が楽しいだろ」
「自分と一緒にするなよ。僕は独りが楽しい」
「素直じゃないやつだな」
カインは爽やかに笑ってみせた。こいつのこういうところが嫌いなのだ。オーエンは舌打ちをして、自分の箒を取り出す。
「騎士様だってそのうち嫌でも思い知るよ。僕たちは結局、どこまで行ってもひとりぼっち。あの月と一緒で、誰とも寄り添えない」
「そんなことはないさ」
箒に腰掛けたオーエンは、まだ年若い魔法使いを見下ろして微笑んだ。
「少なくとも、僕はおまえの手なんか取らない。じゃあね、騎士様」
「またな、オーエン」
どうせ次の厄災が訪れる時には顔を合わせるのだ。どちらかが死んでいない限りは必ず。だから別れの言葉は、再会の約束でもあった。
けれどカインの挨拶を敢えて無視して、北の魔法使いは夜空を滑るように飛び去った。
2.Daytime
雲ひとつない晴天の日だった。
空は隙間なくペンキを塗ったような乾いた青をしている。
かつてこの国の騎士団長を勤めた男の母親が天に召された。齢九十を超えていたのだから、大往生と言えるだろう。彼女の夫は二十年ばかり前、妻より先に天国へと旅立っていた。夫婦揃って気さくで面倒見がよく、街の人々に愛されていた。だからこそ栄光の街では、ナイトレイ夫人を偲ぶために、祭りと紛うような盛大な葬儀が行われたのだ。
喪主として黒衣をまとい、人々の前にあらわれたのは、まだ年若い青年だった。黒衣は喪服ではなく騎士の正装だ。国と民を守ることを王に誓った者だけがまとうことを許される黒。
先の国王から賜ったという見事な剣を腰に下げて堂々と立つ青年は、九十を超えた老婦人の息子には到底見えなかった。せいぜいが、孫か曾孫だろうと思われるような若々しい男だ。
だが、彼は魔法使いだった。強い力を持つ魔法使いほど若くして不老となるようだった。人と同じように老いることはなくなり、若々しい姿のまま長い時を生きて、命が尽きれば小さな石になる。人のように大地に還ることもなく、星のかけらのような透き徹った石だけを残して去ってゆく。
神様の悪戯のように人の世に生まれ落ちた魔法使いは、人の世に還ることは許されない。どれだけ人を愛しても、結局のところ魔法使いは異端の存在だった。
長く生きた魔法使いたちの諦観を、カインはようやく思い知った。
死んだ老婆の息子であると名乗った瞬間の、畏怖の混じった人々の視線を、たしかに見てしまったのだ。仕方の無いことだとは思う。自分たちと同じように時を重ねない者を、同じ人間であるとは認めがたいのだろう。
友人や家族が年老いていく中で、いつか親しかった人々が去り、自分だけが取り残されていくのだろうと薄々は悟っていた。あと十年もすれば、この街にカインの生い立ちを知る者はいなくなる。
川辺のベンチに腰掛けて、カインはぼんやりと空を眺めた。
葬儀は滞りなく終わり、今になって気が抜けてしまったのかもしれない。仕える王にはしばらく休暇を取るように言い渡されているが、休暇と言ってもやることがなかった。
この街で昔の仲間たちと語らうことはできないだろう。カインのかつての友人たちは皆、既に孫もいるような老人になっていた。中には既に寿命を迎えてこの世を去った者もいる。気のいいやつらばかりだから、青年の姿のまま時を止めたカインのことも「気にしない」と言ってくれるに違いない。けれど気にしないと言いながら、老いることのないカインに対して畏怖のこもった視線が向けられる。そのことに、今は耐えられそうになかった。
「まるで萎れた花みたい」
歌うような声がして、カインは振り返った。
聞き覚えのあるテノール。少し楽しげで、それでいたどこか冷たい声。振り向くと、予想に違わず、白いスーツ姿に軍帽を被った、カインと揃いの色の目を持つ男がたたずんでいた。
「……オーエン」
「だから言っただろ。僕たちは結局、どこまでもひとりぼっち」
カインと背丈も見た目の年頃も変わらない男は、無垢な少女のように微笑んだ。
赤と黄の色違いの瞳が、欠けた月のように細められる。朱に染まる月と、蜂蜜色の月。かつて彼に奪われたカインの左眼は、もうすっかりオーエンの眼窩に馴染んでいる。まるで、生まれた時から彼のものであったかのように。あるいは、自分の赤い左眼も、この身体にすっかり馴染んでしまったのかもしれない。
「親しい人間が死に絶えた魔法使いは、自分が置いて行かれたのにようやく気づいて、孤独に耐えきれずに石になる。夢の森にもよく来るんだ。そうやって終わりを求める魔法使いが」
長命の魔法使いは、はじめから孤独である者が多かった。反対に、人の中で育った魔法使いは、自分だけが時の中に取り残されていく事実に耐えられなくなる。よすがを求めて子を儲けたとしても、その子が人間であれば自分より先に死んでしまうだろう。人の中で、人に愛されるほど、喪うものは多かった。
孤独は毒のように魔法使いを蝕み、緩やかに死に至らしめる。
「騎士様も、石になりたい?」
彼らしからぬ優しい声で、オーエンが囁く。つまりそれは、心にもない誘惑だった。こうやって甘い毒をまき散らして、数多の魔法使いを殺してきたのだろう。彼自身があの夢の森のようだった。けれどオーエンにとっては皮肉なことに、その毒はカインを殺さない。他ならぬオーエンのせいで。
カインは苦笑を浮かべて首を振った。
「いいや。いつかおまえに勝って、その目を取り戻す。それまでは石になるつもりはないな」
オーエンは目を瞠った。
親しい人たちが去っていく中で、カインは気付いてしまった。この歳上の魔法使いだけは自分を置いていく事はない。たとえ彼がいなくなっても、この左眼には、オーエンが生きた証が遺されてしまう。
彼がいるかぎり、カインの人生に孤独は訪れない。そして自分がいるかぎり、オーエンもまた本当の意味で独りきりになどなれないのだ。
自分で蒔いた種なのだからあきらめろ、なんて言えば癇癪を起こして暴れ出すかもしれないので、そこは胸のうちにしまっておく。
オーエンは見る間に不機嫌そうな顔になり、唇を噛み締めた。
「そんな日は永遠に来ないよ」
「じゃあ、永遠に死ねないな」
「……馬鹿じゃないの。つまんない、騎士様が石になったら食べようと思ったのに」
もう帰る。ふてくされた顔をして肩をすくめたオーエンは、おもちゃを放り出す子どものように素っ気なく踵を返した。
「またな、オーエン」
どこか稚い雰囲気を残した、頼りない背中に声をかける。
けれど案の定返事はなく、魔法使いは煙のように姿を消した。
3.Dawn
窓から差す光が眩しくて、オーエンは目を眇めた。まばゆい白から逃れるように視線をゆらりとめぐらせると、光の中で赤い髪が揺れているのが目に映った。
朝を告げる小鳥の声ではなく、となりに眠る男の暑苦しい体温で目が覚めるなんて、気分は最悪だった。けれど、ぬるま湯に浸かっているような居心地の悪さも今ではすっかり慣れてしまって、そのことにいちいち矜持を傷つけられている。
「……馬鹿みたい」
吐き出した悪態は掠れていて、夜のあいだに散々啼かされたことを厭でも思い出させられる。まだ夢の中にいる男が、目覚める気配はなかった。瞼の下に隠されているのは、己と同じ色違いの瞳だ。
呑気だなあと呆れながら、オーエンは身を起こして、眠る男を見下ろした。
二十歳を過ぎた頃からカインの姿は変わらず、若々しい青年のままだ。すっと通った鼻筋に、良く笑う大きな口。凜々しい眉は、いまは気が抜けたように緩んでいて、陽だまりの中で眠る犬を思わせた。
特別好みというわけでもないが、見目の良い男だと思う。きっと引く手数多だったろうに、自分の眼を奪った男の手を掴むなんて、どこまでも物好きな男だ。
カインが何を考えているのか、昔からさっぱりわからなかった。
オーエンは自分を侮辱する強い魔法使いが嫌いだし、自分を恐れて怯える弱い魔法使いが好きだった。けれどカインはどちらでもない。かといってオーエンの存在を無視するわけでもないのだ。オーエンが誰かを傷つければ怒るが、そのくせ怒ったあとはまた屈託なく笑いかける。矛盾だらけだ。その手を拒めない自分も。
(どちらも、イカれてる)
オーエンがカインの左眼を奪い取ってから百年あまりが過ぎていた。
「いつかおまえに勝って、その目を取り返す」
そう息巻いていた男は、宣言通り数年に一度はオーエンに挑んでくる。
たかが百歳ちょっとの若造に負けるほど弱くはないつもりだった。魔法使いの強さとは生まれ持った才能によるところも大きいが、それでも経験の差はそう簡単に埋められるものではない。しかし、そうは言っても最近は、真面目に相手をしなければ足元を掬われそうになることもあった。戦ううちに興が乗って、うっかりカインを殺しかけてしまったことも何度かある。
騎士である男は、戦いに関しては相手と自分の力量を正しく見極めるので、たいていは彼の方から白旗を上げて勝負は終わった。
ここ数十年はそんな風に殺し合いのようにじゃれ合う仲だった。それ自体は別に文句はない。弱いくせに怯えずに、懲りずに何度も挑んでくるカインは、うっとうしいけれど不快ではない。不快ではないが、戸惑いはあった。なぜ自分はこの男を殺してしまわないのだろうか。オーエンは繰り返し自分に問いかけるが、答えが見つからない。
最初は石にしたところであまり腹の足しにもならないのだと自分に言い聞かせていた。けれど今は充分に魔力が宿っている。彼のマナ石をかみ砕いて飲み込めば、オーエンは強くなれるだろう。北の国の魔法使いたちはそうやって、殺した相手のマナ石を喰らって強くなった。今更どうして躊躇うのか。
(相手がカインだから?)
騎士である男に自分が妙に執着していることは、オーエンも自覚していた。けれど、それは愛だの恋だのといった甘ったるい感情からはほど遠い。カインのことを慈しみ守りたいなどと思ったことはないし、それはカインも同じだろう。少なくとも、守りたい相手とは命がけで戦ったりしないはずだ。愛した相手であれば、その目を取り返したいなどとは思わないだろう。思考はとりとめもなく回り続けるが、やはり答えは見つからなかった。
勝負が終われば、カインはからりと笑ってオーエンの手を引いた。
曰く、どこそこのケーキが美味いから食べに行こうだの、久しぶりにネロの店に顔を出すか、だの。
昨夜はベネットの酒場に連れられて行った。店主である顔馴染みの魔法使いは、オーエン好みのとびきり甘いチョコレートのカクテルを出してくれる。店主を交えて昔話を肴に散々呑んだあとは、神酒の歓楽街にある宿に当然のように連れ込まれた。
「ねえ、騎士様」
「ん?」
「騎士様は、僕のことが許せないんじゃないの」
キスの雨をやり過ごしながら問いかけると、カインは面白そうに笑った。それからひとつ頷いて、真剣な顔をする。
「まあ、そうだな。おまえが誰かを傷つけるのは許せないし、目玉を奪われたのも許してない」
ネクタイをするりと解きながらそう答える。ならばなぜ、という問いは、唇を塞がれて、声になる前に奪われた。
「俺も昔は、おまえを許さなきゃいけないと思ってたよ」
カインの手が恭しく頬に触れた。剣を握り続けたかたい掌が慈しむようにオーエンの輪郭をなぞる。赤と黄の瞳は自分と揃いの色なのに、鏡で見る色とはやはりどこかが違って見えた。その中に僅かでも同情や憐憫があれば、きっとオーエンはこの男を殺していただろう。
「許さなきゃ、おまえに触れられないと思ってた」
俺も若かったよなあと独り言のように呟きながら、器用な指先がシャツの釦を外していく。
「……意味わかんない」
「わからなくていいさ」
眉をひそめるオーエンに、カインは片目を瞑って笑ってみせた。
「俺たちは別々の人間で、互いに孤独で、考えてることも好きなものもまるで違う。だから、俺はおまえに触れたい」
カインの考えていることは、昔からまるでわからない。相手の心を鏡のように映してみせることは得意だったはずなのに、カインの瞳に映る感情をオーエンは読み取ることができなかった。
「おまえの孤独を知りたいんだ」
(さて、僕の孤独は、どんな味がした?)
そう聞いてやりたい気もしたが、間抜けな寝顔を晒す男はまだ起きる気配がなかった。
平和惚けした顔を眺めているのにも飽きて、オーエンは床に放り投げていたシャツを拾った。手早く身支度を整えて、情事の跡を魔法で跡形もなく消してしまう。長い寿命を生きているのだから、互いに今更貞操など気にするはずもなかった。肌を重ねるのは単なる暇つぶしの娯楽のようなものだ。それ以上の意味はない。
(ああ、だけど)
呪文を唱えて箒を手にする。
指を鳴らして窓を開けた。朝の風が部屋に吹き込んで、カーテンを揺らす。
(僕は孤独を確かめたくて、だからこの男を殺さないのかもしれない)
トランクを携えて、箒に腰掛けながら、そんなことを思う。
カインの手が身体に触れるたびに、この男と自分の断絶を思い知るのだ。自分たちはどこまでも相容れない、別の生き物であることを。
「またね、騎士様」
箒がふわりと宙に浮いた。オーエンは振り返ることなく、朝焼けの中に飛び込んでいく。赤と黄の混ざり合うような甘い色の空に。
4.Twilight
「俺の勝ちだな」
剣を喉元に突きつけてカインが笑う。
暮れなずむ夕陽を背に己を見下ろす男を睨みつけてから、オーエンは悔しげに顔を歪めた。地平の果てに太陽が沈みゆく時間だ。もう暫くすれば空には<大いなる厄災>が昇り、夜を照らすだろう。
白雪のような男は血に汚れてひどい有様だった。腹から溢れた血が地面を濡らして、黒百合の紋章のように広がっていく。何百歳も年下の魔法使いに負けたことがさぞや悔しいのだろう、屈辱に耐えかねて今にも舌を噛み切りそうな様子の魔法使いに「あ、勝手に死ぬなよ」とカインが釘を刺すと、盛大な舌打ちが返ってきた。
ようやく勝ち取った白星だ。カインも既に満身創痍で、正直なところ立っているのもやっとだった。赤黒く濡れた血溜まりに膝をついて、オーエンのかたわらに座り込む。
オーエンの頬は血の気を失って、青ざめた月のようだった。この男相手に戦って、カインに手加減する余裕があるはずもない。オーエンの身体はあちこちがおかしな方向にねじ曲がり、片方の腕はちぎれかけている。悔し紛れに自死するのはやめろと言ってはみたものの、彼が息絶えるのも時間の問題かもしれない。カインにも治癒魔法をかけてやれるほどの魔力は残っていなかった。いつだったか、肉体の損傷が激しい時は一度死んでリセットした方が楽なのだと彼自身が言っていた。ならばこのまま死なせてやる方が慈悲なのかもしれない。
オーエンは痛みを堪えるように呻いてから、カインをきつく睨みつけた。
「気が済んだなら、早く取り返せば」
血塗れの指で左眼を差しながら、吐き捨てるように言う。
この魔法使いに左眼を奪われてから、もう数百年の時が過ぎていた。いつかおまえより強くなって取り返す。そう息巻いたのも遠い昔のことだ。
中央の国の外れにある荒野。ここが二人のはじまりの場所だった。彼に奪われた物を取り返すのであればこの場所こそがふさわしい。遠い過去に想いを馳せながらカインは微笑む。
それからオーエンの薄い瞼に唇を寄せて、撫でるように軽く触れた。
「もう取り返した」
「……はあ?」
揶揄われたと思ったのだろう。オーエンの声は怒気に満ちていた。死にかけているくせに、己のプライドを傷つける者には容赦なく牙を剥く。そうやって彼は強くなっていったのだろう。カインは苦笑して、軽く手を振った。
「その左眼はとっくの昔におまえの眼だよ。だから俺にはもう必要ない」
はるか遠い昔、魔法舎で暮らしていた頃に気がついたことがある。事切れたオーエンの肉体が生き返る時、彼の左眼には常に自分から奪った琥珀が嵌っているのだ。千切れた腕が新しく再生されてもそれはオーエンの腕であるように、潰れた眼球が再生されて出来たならそれはオーエンの眼だろう。少なくともオーエンにとって、その瞳は『異物』ではなく、彼を構成する一部になっていた。
琥珀の眼がカインの眼窩に嵌っていたのはたったの二十年だ。それよりも遙かに長い時間、月色の瞳はオーエンのものだった。
「じゃあなんで、ずっと僕に挑んでたわけ」
不機嫌な気配を隠すことなくオーエンが吐き捨てた。この眼を取り返すのでなければ、戦う意味などないはずだ。それは確かに正論で、けれども正しい答えではなかった。
「おまえに奪われたのは目だけじゃない。それを取り戻すためには、おまえに勝たなきゃ意味がないだろ」
抉り出された左眼とともにカインは多くのものを失った。矜恃、居場所、騎士団の仲間たち……、全てを失ったのはあの頃のカインが弱かったからに過ぎない。そしてオーエンに奪われていなくとも遅かれ早かれ失うことにはなっただろう。なぜならカインは魔法使いで、それをいつまでも隠し通せるはずがなかったのだから。
それでも、カインが騎士で在り続けるためには、奪われた矜持を取り戻さなければならなかったのだ。そして今、ようやく取り戻した。
「それに、その左眼がおまえの眼だとしても、やっぱり俺の眼でもあるし」
「なにそれ、意味がわからないんだけど」
オーエンは重たげなため息を吐いた。
もう喋るのもつらいだろうに、どこまでも意地っ張りな男だ。カインは幼い子どもに言い聞かせるように囁いた。
「それがおまえの眼である限り、おまえは永遠に孤独にはなれない」
たとえカインがいつか死んで石になってしまったとしても、オーエンの左眼にはカインの色が残る。鏡を見るたびにカインを思い出すだろうし、死ぬまで忘れられないだろう。オーエンが死ぬまで、カインは彼の中で生き続ける。オーエンが先に石になったとしても同じことだ。
もはや死は、二人を分かつこともできない。
「……は、」
吐息が弾けるかすかな音が荒野に響く。
オーエンは途方に暮れたような顔をして、己の左の瞼に触れた。
「最悪」
「独りで生きるよりは、一緒に生きる方が楽しいだろ」
「騎士様の、そういうところが嫌い」
「素直じゃないやつだな」
いつかと同じようにカインは笑う。俺はおまえのそういうところも嫌いじゃないが。そう教えたら、この天邪鬼な魔法使いはきっと機嫌を損ねるだろうから、言葉にはしなかった。
オーエンは瞼を閉じて、束の間の眠りにつこうとしていた。白い手が力なく血溜まりに落ちて、細い指先を汚していく。
「じゃあね、騎士様」
そう呟いて彼は息絶えた。鼓動は止まり、閉ざされた瞼の下で瞳は光を失っているだろう。こうして静寂の闇に沈みゆく時ですらオーエンは孤独にはなれない。そういう呪いを、カインは掛けた。
「またな、オーエン」
返事はなかった。この声はもう届いていないかもしれない。
束の間の死に眠る男の傍らで、カインは沈みゆく夕陽を眺めた。
彼が再び目を覚ます頃にはきっと、孤独の色をした<大いなる厄災>が世界を冷たく照らしているだろう。その月を共に眺める夜を思い描く。
孤独な二人が、ただ寄り添うだけの夜を。
