鬼面の話

 真蛇の面はかの西海の鬼が呉れて寄越した物である。停戦を申し入れた際に諾の返書と共に送りつけられた。信頼の証であるという。鬼が鬼面を寄越すとは洒落のつもりであろうかと失笑しながらも直ちに母の形見の簪を送り返した。毛利は物に頓着せぬ性分であるが、鬼と名乗る男は情に傾きやすい。形見と聞けばたやすくこちらを信じるだろうと思われた。愚かなことだと呆れはしたが、速やかに策を成すためには微塵の疑いも取り除かねばなるまい。
 かくして、蓋を開ければあっけないほどたやすく、男は毛利を信用した。それだけ憤怒に目が眩んでいたのであろう。鬼は情の強さ故に張り巡らされた罠に気づかずにいた。やがて真実を知り、己への怨嗟を撒き散らし、半ば自刃のように殺された。あるいは鬼に相応しい末路であったのかもしれぬ。
 そうして毛利の手には鬼が残した面があった。捨てずにいたのは別段惜しむ気持ちがあったわけではなく、気にも留めずに忘れていたためだ。それを葛籠の底に見つけ、気紛れに手に取ってようやく隻眼の鬼のことを思い出していた。
 檜に漆塗りの鬼面は、能面のようだと評されることの多い毛利よりもよほど表情豊かに見えた。見開かれた眼は実に憎々しげに、恨みがましくこちらを睨め付ける。毛利は浅く笑んで戯れに面を掛けた。今日は気紛れが過ぎると他人事のように思う。戦も終わり、気が抜けているのかもしれなかった。織田豊臣は既に亡く、徳川は鬼に討たれた。その鬼は己が討った。長く続いた戦乱の世は終息に向かいつつある。思い描いた筋書き通りに。
 覗き穴から見える浮世は朱に染まっていた。
 西向きに造られた書院は夕刻ともなれば沈む陽をあかあかと映す。そのように造らせた部屋だ。襖も畳も暮れなずむ西日に晒されて血潮かと見紛うほどに朱い。
 ふと背後に鬼の気配がした。毛利はわずかに顎を引いてくっと喉を鳴らす。日の入りの頃は逢魔が時とも呼ばれる時分である。鬼か蛇か、そうしたものが忍び寄ることもあるだろう。すっと伸びた背はそのままに振り返ることもなく、毛利はただ冷笑を浮かべた。
「貴様も未練がましい男よ、恨みのひとつも言いたくなったか」
 だったらどうする、背後の鬼が低く笑う。男はいつも銅鑼を鳴らしたような声音で喋った。炮撃に負けぬようにと張り上げた怒声は実に耳障りに思えたものだ。互いが直に刃を交える機会はそう多くなかったが、間近で打ち合う時にも騒々しい男であった。しかし今はその囁きも老人のように嗄れている。所詮、背に立つ物の怪は抜け殻に過ぎぬということであろう。毛利は鬼面を掛けたまま鼻を鳴らした。
「もとより貴様の言葉など、その刃ほどにも我には届かぬ」
 言ってくれるねえ、まったくあんたらしいが。なにやら愉快げに鬼が笑っている。男は生前から知った風な口を利いては毛利を苛立たせた。死してなお虫の好かぬ男よと吐き捨てると、肩を揺すって笑う気配がした。
 長曾我部とはあの穏やかな海を挟んで小競り合いを繰り返す間柄であった。鍔迫り合いのような真似を繰り返しても互いに互いを討つ決定打に欠いていた。長い戦に国が疲弊するのを疎んでどちらからともなく手を結んだこともある。だがそれは所詮上辺だけの盟約に過ぎず、それは互いによく承知していたはずである。毛利は国利のためならばなんぴとたりとも省みることをしない。友に裏切られたと逆上した長曾我部は、安芸の安寧のため毛利にとって最も邪魔なものが西海の鬼であるということを失念していたのだ。その時から既に勝敗は決していた。ただそれだけの話である。
「鬼風情がどの口で我を語るか。我を理解するのは我だけぞ。少なくとも貴様には無理であろうよ」
 あァ、そうだろうなぁ。ひび割れた声が応えた。結局俺はあんたの事がちっとも分からないままだった。手の内を知って少しはわかったつもりだったが、こうしてあっさり騙されちまった。人聞きの悪いことを言う鬼だと毛利は嘲笑った。騙されたのは己が短慮ゆえであろうに。見たいものだけを見、信じたいものだけを信ずるのはさぞや楽なことであろう。貴様は所詮我を見ず、彼を見ず、水面に映る己の顔ばかり見ていたに過ぎぬ、そのような将など敗して当然。一片の曇りもない刃の如き語調で切り捨てれば、背後の鬼は苦笑を噛み殺しているようである。なんだって化けて出てまで説教されなきゃならねえんだ。ならば気の利いた恨み言のひとつでも申してみよ。しばし逡巡の気配があり、珍しく凪いだ海のような静かな声で鬼が言うには、怨嗟からほど遠いやわい迷い言である。贈っておいてなんだが、そいつはあんたにまるで似合わねえな。言葉と共にふつりと糸を断つ音が聞こえた。鬼は情の塊だからなァ、憤怒だとか慈悲だとかそういうもんで出来ているんだ。からりころり、糸の切れた面はいつしか床に転がっていた。とおく冷たい星みてえに瞬きもせずにいる方が、あんたにはずっと似合いだ。なあ毛利、それでも俺はあんたと酒でも酌み交わす日が来るんじゃないかと、つまらねえことを考えちまったんだ。
 声と共に鼻腔を掠めたのは微かな火薬と潮の混じった金臭いような匂いである。それはいくさ場で碇槍を手にした男を思い出させた。毛利はとうとう後ろを振り返ったが、その先に鬼の姿はなく、ただ茫洋とした闇が蹲るばかりである。いつの間にか陽はすっかり沈み、あたりには夜の気配が濃く迫っている。
 毛利は床に転がる鬼面を一瞥し、それきり目もくれずに濡れ縁へと歩み出た。
 見上げた先、西の空には唐鋤星がひときわ明々と輝いていた。