紅の堕つ

 雪片は重く沈むように降り積もり、庭を白く覆った。
 薄墨を流した色の空は暗く、落ちてくる雪の白さばかりが眩い。庭に佇み天を仰いでいた惟盛は、音もなく降る雪片に目を眇めた。
(まるで冬木の梅のような、)
 溜息と共にこぼした呟きも白く空に散った。
 京の屋敷には冬に綻ぶ梅の木があった。雪と競うように、しかし慎ましやかに花を咲かせる姿は、惟盛の気に入りのひとつだったのだ。だが京を落ち、逃れた福原の屋敷にある木は冬枯れて、庭はただ白に埋め尽くされている。
 酷く凍える心地がして小さく身を震わせてから、惟盛は眉をひそめた。
 死の淵から呼び覚まされて以来、痛みも怖れも遠いものとなったというのに、どういう訳かふと耐え難い寒さを感じる時があった。或いは喉が焼けつくような渇きを覚えることもある。
(最早私には怖れるものなどないというのに、)
 宇治川で源氏と対峙した折より身を苛む焦燥に、惟盛は袖をきつく握る。この身は既に人ではなく、多少の傷をつけられようともすぐに塞がった。痛みもさして感じない。刀を用いずとも赤子の手を捻るように人を殺すことすらできた。
 人の身であった頃のように、怖れる必要など何処にもないのだ。
 それなのに、時折目の前が暗くなるような息苦しさが惟盛を襲った。ちょうど今のように訳もなく身の凍る心地がするのだ。肩に薄らと積もり始める雪の冷たさは感じぬというのに。

「惟盛様、還内府様がお呼びです」

 ふと背後から呼ばれ、惟盛は眉をしかめる。
 還内府――その名ほど疎ましく、惟盛を不快にさせるものも他にない。父に姿かたちが似ているというだけの紛い物を、父の名で呼ぶ者たちが惟盛には理解できなかった。見目が似ているばかりの偽者だというのに、何故誰もがあれに傅くのか。
 惟盛は苛立ちを扇で覆い隠し、伝達に来た雑兵を呼び寄せる。少し此方へと手招きすれば、訝しげに首を傾げつつも男は近くへと寄った。
「惟盛様?」
「肩に雪が」
 惟盛は柔らかな笑みを口元に佩き、細い指を伸ばす。扇を持つより能のない、武芸には向かぬと詰られたこともある手だ。しかし今は獣より強い力があった。なまくらな刀などよりよほど容易く人を狩る。
 指は男の首を捕え、枯れ枝を手折る気安さで横に曲げた。骨の折れる鈍い音が響く。潰れた蛙のような耳障りな呻き声を残して男はぴくりとも動かなくなった。
 だらりと力を失った男を細い手で吊り下げたまま、物言わぬ屍に微笑する。
「ほら、こうすれば白梅の枝の様でしょう。ああ、けれど、」
 薄らと笑んで惟盛は手にした扇で男の胸を貫いた。紅い飛沫が惟盛の顔を汚す。顔ばかりでなく、その髪も着物も返り血に染まった。屍を投げ捨て惟盛はくつくつと笑った。いつの間にか苛立ちは消え、胸のすく心地がした。
「雪に紅梅、というのも悪くはない」
 ――血の匂いの、なんと甘やかなことか。
 その鮮やかな紅を穢れと畏れていた、嘗ての己の愚かさが滑稽にすら思えた。あの頃の自分は滴る血が如何に馨しく艶やかであるかを知らなかったのだ。
 総てに怯え、目を逸らすことしかできなかった無力な生物。
 なるほど祖父が愛想を尽かすのも当然かと、惟盛は遠い日の己を嘲笑う。
(血に染むことを厭う者が、どうして武人と呼ばれましょうか) 
 
「――…惟盛」

 名を呼ばれ、惟盛は振り返る。
 通りの良い声は懐かしい人を思わせるもので、しかし記憶に残る声よりは若く明朗だ。振り返った視線の先、庭に面する簀子には亡父に良く似た顔立ちの青年が立っていた。
 常日頃彼と対峙する度に感じる言い様のない苛立ちは、不思議と湧き上がってこなかった。
 青年が痛みを堪えるような顔をしているせいか、それとも血の甘さのせいか。理由は自分でもわからなかったが、怒りや侮蔑を覚えずに彼の顔を見るのは随分と久しぶりのことだった。
 微笑すら浮かべて、惟盛は青年を見た。
「これは、将臣殿。いかがしました、そのような険しい顔をして」
「……そいつは、お前が殺したのか」
 将臣は惟盛から庭の屍へと視線を移し、きつく目を眇める。その厳しい顔付きは確かに亡父に良く似ていて、祖父が見紛うのも無理はないかもしれないと思った。それでもやはり惟盛には、父と将臣との差異の方が目に付いてしまうのだが。
「ええ、そうですよ。それがなにか?」
 真実、不思議そうに惟盛は首を傾げた。将臣の押し殺した怒りの理由がわからなかったのだ。雑兵のひとりを戯れに殺めたことに何の咎があるというのか。怨霊として蘇って以来、人の生も死も遠くにある惟盛には、命を奪うことに対する感慨は何も浮かんではこなかった。
 最早彼には言葉など届かないのだろう。
 それをこの数ヶ月の間に思い知った将臣は、ただ無闇に兵を減らすなとだけ言って口を噤んだ。惟盛は僅かに眉をひそめたが、特に異論は返さなかった。珍しく機嫌が良いのか憎まれ口もきかない。だがその機嫌の良さが庭を染める血のせいかと思うと、将臣の胸に込み上げるのは遣る瀬無さばかりだ。
 怨霊となって蘇った者たちは変容していく。
 人としての在り方を少しずつ忘れていくのだ。
 昔のままの柔らかな微笑を浮かべて、惟盛は庭を指した。白く積もった雪の上には毒々しいまでの紅が散っている。

「ほら、そのような顔をせずに御覧なさい。落ちる紅梅のように、雪に映えて美しいでしょう」

(「ほら、将臣殿。冬木の紅梅も雪に映えて美しいでしょう。――春はもうすぐですね」)

 かつて将臣の前で梅の枝を手折り、同じように微笑んで見せたことも、惟盛は覚えていない。
 紅の堕つ冬庭に佇んで、彼は総てを少しずつ忘れていくのだろう。
 ――愛しんだ美しいものも、その心も。

 解けて消える雪片のように、やがてかたちを失くしていくだけだ。