Scars of Love

 ステージには熱気が渦巻いている。
 降り注ぐスポットライト。
 興奮冷めやらぬファンの歓声。
 それらは海を焦がす残照のように、來人の眼に焼きついた。
 ライブは終盤に差し掛かるほど盛り上がりを見せた。
 情動をマイクに叩きつけるように歌う。
 こうしてステージに立って、歌い、踊ることになるなんて、少し前まで想像もしていなかった。それを言うなら傷害罪で逮捕されることも、観光区長になることも、予想だにしない未来だったが。
 先なんか見えないほうが、人生は面白い。
 そんなことを口にすれば生行は露骨に嫌な顔をするだろうが、それは紛れもなく來人の本心だった。
 幾成の歌声がマイクを通して会場に広がっていく。
 透き通るような歌を奏でるのがアンドロイドだとは誰も気づかないだろう。
 利き足を軸にして、ターンを決める。
 こめかみに汗が伝う。
 振付を覚えるのに苦労はしなかった。運動神経には自信があったし、組手の型を覚えるのと要領は同じだ。武術と違うのは、一人だけ先走ると不揃いで不恰好になってしまうことだろう。
 他のメンバーと呼吸を合わせ、指先まで神経を研ぎ澄ます。自分以外の他人に合わせるために集中する。それだけのことが來人にとっては新鮮だった。
 ファイトチームをまとめたり会社を経営する時は、他人の能力を見極めて適切に采配することが求められたが、ステージの上では來人も駒のひとつだ。
 それが面白い。
 來人は潜とペアになる振付が多かった。
 潜は気まぐれな性格だ。そのうえ來人のことが気に食わないと言って何かと突っ掛かってくる。けれど完璧主義なところがあるせいか、練習も最低限は参加するし、なんだかんだきちんと合わせてくれる。根が真面目なのかもしれない。
 ステージに立つ潜は、遠い昔に聴いた彼のピアノの旋律を思い出させた。
 機械のように精密で、それでいてどこか情熱的でもある。
 おそらくそれが、彼の本質なのだろう。
 射干玉の瞳がスポットライトの熱を弾いて煌めく。それは冷たく燃える星のようで、その瞳に射抜かれるたびに、來人は不思議な感慨を覚えた。
(俺の何が、お前を繋ぎ止めているんだろう)
 自惚れではなく、自分がいるから潜はEv3nsに残ったのだと自覚していた。
 その憎しみにも似た執着の正体はわからないが、來人がいる限り、潜がステージから降りることはない。
 視線が交錯する。
 不意に、潜の瞳が揺らいだ。彼の足元がふらついたのだと気づくより先に、咄嗟に肩を抱き寄せるように捕まえていた。
 客席から黄色い悲鳴が上がる。
 ちょうど二人のパートだったから、観客はきっとアドリブだと思ってくれただろう。
 アクシデントの気配を感じ取ったのか、こちらを見る千弥の目には緊張が走っている。問題ないと伝える代わりに來人が軽く目配せすると、ほっとしたように眉尻を下げて、千弥は客席を向いた。切り替えの速さはさすがのものだ。
 潜は微かに眉を顰めたが、すぐに涼しい顔で自分のパートを歌い上げた。
 彼が不調を見せたのはその一瞬だけで、そこからはラストナンバーまで普段通りのパフォーマンスを見せていた。そのままアンコールまで走り抜け、拍手と歓声が鳴り止まない中、舞台から去っていく。いつもの人を食ったような微笑みは絶やさずに。
(まったく……)
 半ば呆れながら、來人は潜の後を追った。
 呆れているのは潜に対してではなく、自分に対してだ。
 どこか呼吸が合わない。それは、ほんの僅かな違和感でしかなかった。
 それなのに、潜の不調に気づいてしまった。つまりはそれだけ彼を見ていたということで、裏を返せば、今までの自分がどれだけ他人が見えていなかったのか思い知らされるようでもあった。きっとこれまでにも、見ようとしないまま見過ごしてきたものがたくさんあるのだろう。
 舞台袖に戻るや否や、來人は潜を抱え上げた。
「何のつもり……」
「医務室に連れて行く。いいな?」
「……」
 普段なら猛烈に嫌がりそうなところだが、反論する気力もないのか、不機嫌そうな表情のまま目を伏せる。潜の体は衣装越しでもわかるほど発熱していた。ライブの熱気が残っている、などとは誤魔化せないほどに。
 楽屋裏で待機していた生行が、驚いたように目を瞬かせた。
「何事ですか」
「潜の様子がおかしかったんだが、どうも熱があるらしい」
「來人」
 背後から呼ばれて足を止めると、幾成が脈を計るように潜の首に触れた。薄いラヴェンダー色の双眸がじっと潜に向けられている。不思議な明滅を繰り返すのは、生体スキャンをしているからだろう。
「どうだ?」
「三十八度六分。脈はやや速いが、呼吸音は正常。外傷はなし」
「……っ、プルシュは悪い子だね。断りもなく、僕を裸にしようだなんて」
 腕のなかで、潜が嘲笑を浮かべる。無断でスキャンを走らせたことに対する嫌味のようだが、この場合は幾成の判断が正しい。
「要するに、風邪か?」
 來人の問いかけに、幾成は首を横に振った。
「わからない。自分には医学的な診断機能までは備わっていない。念のため病院に搬送することを推奨する」
「救急車を呼んできます。裏口で待機していてください」
 幾成の言葉を聞いて、間髪入れず生行が指示を出す。わかったと答えて、潜を抱え直すと、幾成が両腕を差し出した。
「自分が運ぼう。そのほうが効率的だ」
 潜は長身で体格も良い。確かにアンドロイドである幾成のほうが安定して運べるだろう。來人は軽く頷いて、幾成の腕に潜を預けた。
「……ふふ、優しく運んでおくれよ」
 重い吐息と共に、かすかな囁きがこぼれた。
 頭でも痛むのか、あるいは熱に浮かされているからか、うっすらと開いた瞼の下、黒い瞳の端に涙が滲んでいる。
 そんな状態でも軽口を叩こうとするのが、この男らしかった。
 苦笑を浮かべて、來人は背後を振り返る。
 事態を見守っていた太緒と千弥は、不安そうな表情を浮かべていた。
「くぐりぬ、ライブ前から具合悪かったのかな」
「昼はちゃんと食ってたみたいすけどね」
 普段は飄々としている潜の弱った姿を見て少なからず衝撃を受けているようだった。特に千弥は潜に懐いているようだったから余計に気にかかるのかもしれない。
 來人は努めて明るく笑ってみせた。
「ライブでも歌い切っていたし、きっと大丈夫だろう。二人は先に寮に帰っていてくれないか。みんなの荷物を持ち帰ってほしい」
 沈痛な面持ちをわずかに緩めて、太緒が「わかりました」と頷いた。不安そうに口籠る千弥の手を引いて歩き出す。
 こういう時には何か役割を与えられたほうが、気が紛れるはずだ。手持ち無沙汰だと余計なことを考えすぎて心が疲弊していく。
 ほどなくして救急車が到着し、生行が救急隊員を連れて戻ってきた。
 サイレンの音はない。
 ライブが終わったばかりの会場にはまだ大勢の観光客が残っている。余計な心配や憶測を生まないようにという配慮だろう。
 付き添いのために救急車に乗り込もうとした生行を、來人は引き留めた。
「俺が同行するから、お前は千弥たちについて寮に戻ってくれないか」
「……これはマネージャーの仕事だろ」
「俺はリーダーの役目だと思う」
 生行の目には苛立ちと困惑が浮かんでいた。
 マネージャーとしてメンバーの体調不良に気づかなかった自責と、來人の言葉や態度に対する反発があるのだろう。同時に、不安そうに立ち竦んでいた千弥のケアも必要だということは理解しているはずだ。
 やがて、根負けしたように視線を逸らして、生行が吐き捨てた。
「勝手にしろ」
「千弥たちのフォローを頼む。幾成もな」
「オーダーを受理。マネージャーに同行する」
 來人が救急車に乗り込むと、やはりサイレンを鳴らすことなく車が動き出した。行き先は大黒病院――可不可の根回しに違いない。
 意識を失っているのか、瞼を伏せた潜は静かだ。
 來人の脳裏に、千弥の青褪めた顔が浮かぶ。
 おそらく生行が刺された時のことを思い出していたのだろう。
 状況がまったく違うし、幾成の言葉を聞く限り潜に命の危険はない。
 サイレンも鳴らさずに走る救急車がそれを裏付けていた。
 しかし、あの一件が千弥にとって少なからず心理的外傷となっていることは薄々感じ取っていた。千弥には何ひとつ責任はないのに、原因の一端が自分にあると思い込んでいるようだった。
 來人はといえば、事件の前後の記憶がほとんどない。
 今と同じように救急車に同乗していたはずだが、そのあたりの記憶が抜け落ちていて、気がつけば病室にいた。
 ただ、ずっと取り乱して、怯えたように生行の名前を呼んでいたのは覚えている。あんな風に錯乱したのは、生まれて初めてだったかもしれない。
 己の死を予言された時ですら、もっと静かに受け止めていたはずだ。
 本当は恐ろしさのあまりわめき散らしたかったのかもしれないが、まだ子どもだった來人は、己の死に顔を前にして取り乱すこともできなかった。
 今は素直に恐ろしい。
 自分という存在が消える日のことを想像すると、膝から頽れそうになる。
 子どものように泣きわめいて、うずくまってしまいたい。後悔のないように生きると決めていたのに、何をどれだけ成し遂げたら後悔がなくなるのかわからなかった。
 この孤独を。
 この、さみしさを。
 自分以外の人間は、どうやってやり過ごしているのだろう。
 誰かと愛し合うことができれば、寂しさは埋められるのか?
 恋しい相手とやらが出来れば、孤独は癒やされるのだろうか。
 恋ではなくとも、誰かに心を傾けることが愛なのだと諭されて、「愛している」という言葉を躊躇いなく口にすることができるようになった。かつては声に出そうとするだけで、罪悪感のあまり吐き気すら覚えたが、今は違う。
 けれど一方で、來人がいくら愛を告げても、同じものを返されることはないのだと気づいていた。
「お前が囁く張りぼての愛なんて、誰も欲しがってはいないのさ」
 いつだったか、潜はそう嘲笑った。
 來人は眠る男の顔を眺めた。
(だったらキミは、どんな愛が欲しいんだ)
 独白に答えは返らない。
 車窓から差し込む街灯の光が、蒼白む瞼を撫でるように過ぎ去っていった。

 『災害』の後しばらくは幻肢痛に悩まされた。
 喪ったはずの指先が痛くてたまらない。病院のベッドの上で歯を食いしばり、ナースコールを押そうとして、肘から先に何もないことに気づく。
 鎮痛剤を打ってもらっても効果はなかった。本来ないはずの痛みなのだから当然だ。
 ぐったりと枕に沈み込み、天井を見上げながら、潜は腱鞘炎になりかけた時のことを思い出した。小学校に上がる前だったか、鍵盤を叩くたび手首に痺れるような痛みが走るようになったのだ。
 ピアノを弾くと手首が痛むことを恐る恐る告げると、母親は怒りに任せて潜の頬を打った。彼女が潜を罰する時は決まって頬を打つ。指や腕はもってのほかで、足だってペダルを踏むために大切にしなければならない。その点、息子の顔なんて彼女にとってはどうでもよかったのだ。ピアノを弾くためには必要ではないから。
「どうしてもっと早く言わないの。ピアノが弾けなくなったらどうするつもり?」
 それは息子を案じての言葉ではなく、潜の腕が使い物にならなくなることを危惧しただけだったのだろう。練習のし過ぎで腕を故障し、挫折するピアニストはごまんといる。どれほど才能があっても、怪我のせいで続けられなくなることはあるのだ。
 その時の怪我は軽症で、すぐに練習を再開できた。
 それ以来、母親に命じられて、潜はアスリートのような生活を送った。食生活に気を遣い、身体を鍛え、セルフケアする方法を学んだ。
 しかしそんな努力も一瞬で無に帰したわけだ。
 潜が病院に運び込まれてから、母親が見舞いに来ることは一度もなかった。
 『災害』についてはJPNでも大々的に報じられただろうし、潜が入院しているという報せは病院から行っているはずだ。
 けれど、ピアノを弾けない息子など彼女にとってはなんの価値もないのだろう。
 母親の中で、潜は死んだも同然に違いない。
 そんな母親に対する失望もなかった。本当は薄々気がついていたのだ。潜は母親にとって都合の良い人形でしかなかった。壊れた人形は捨てられるのが道理だ。
 医師の勧めに従い安物の義手を装着してからは、幻肢痛の頻度は格段に減った。
 しかし時折、ないはずの腕が焼けるような痛みに苛まれる朝があった。
 それはきまってピアノを弾いている夢を見た夜明けのことだ。
 静かに雪の降る夜の底で、潜はピアノを弾いていた。
 凍てつくような寒さも、潜の指を止めはしない。なめらかに鍵盤の上をすべり、紡がれた旋律は闇に吸い込まれていく。
 すぐ傍らに、金髪の青年が立っていた。
 若葉のように瑞々しい、美しい瞳が潜を見つめている。
 顔を上げなくてもわかる。
 彼はきっと、優しい微笑みを浮かべているのだろう。あの夜のように。
「     」
 名前を呼んだ。
 その瞬間、両腕が炎を上げて焼け落ちていく。
 赤々とした炎は瞬く間に燃え広がり、いつしかピアノも燃え尽きていた。あのひとも黒く炭化して闇の中に消えた。残ったのは、腕をなくした燃え滓のような己だけ。
 かみさま、と喉元に込み上げた悲鳴をどうにか飲み込む。
 神などいない。
 いたとしても、それは潜からすべてを奪っていった。祈る言葉などあるものか。
 神が目の前に現れたら、殺してやりたいくらいだ。

「……潜?」

 誰かが囁く声がして、それに引きずられるように夢は途切れた。
 瞼を押し上げると、まずは無機質な天井が見えた。消毒薬の匂い。カーテンレールに区切られたベッド。吊るされた点滴。嫌というほど見慣れた病室の景色だ。
 気配を感じて視線を巡らすと、傍らに人影があった。ベッドのすぐ傍に用意された椅子に誰かが腰掛けている。視線を上げて、目を凝らした。
 木洩れ陽を紡いだような金の髪に、鮮やかな新緑の瞳。
 フレデリク。
 咄嗟に名前を呼ぼうとして、しかし声にはならなかった。唇は乾いてひび割れている。錆びた鉄の味がした。心臓の音が早鐘のように頭蓋に響く。
 どうして、と瞬きを繰り返すうちに、長い夢から醒めたのだと気がついた。
「……來人」
 この男はフレデリクではない。
 髪と瞳の色が同じだけで、まるで似ていない。
 いくら寝惚けていたからと言って、見間違えるなんてどうかしていた。
 潜は苛立ちを抱えたまま眉を顰めた。そもそもどうして病院に運ばれたのだったか――思考を巡らせるうちに己の失態を思い出し、ますます不愉快な気分になる。
 ライブの最中に古傷が疼いて、それをよりにもよって來人に気取られたのだ。
 パフォーマンスは最後までやり遂げたはずだ。あのまま寮に帰らず、どこかで適当に休むつもりだったのに、この男のせいでとんだ醜態を晒してしまった。
「大丈夫か? ずいぶん魘されていたが」
 來人の指先が潜の額に触れる。
 そのまま汗で額に張りついた前髪を撫でつけるようにして払われた。
「熱は下がったみたいだな」
「……余計なことをしてくれたね」
 幻肢痛はコントロールできない。
 どういうタイミングで発症するのかは潜自身にもわからなかった。
 だが、もう長年のことで慣れているし、自分だけで対処はできたのだ。むしろ医者に見せたところでどうにもならない。鎮痛剤はまるで効かないから手負いの獣のように息を潜めてやり過ごすだけだった。
 來人がしたことは、潜にとっては迷惑なだけだった。
 嫌味を言ったところでこの男には響かないだろうが、また同じことをされてはたまらない。次からは放っておいてくれと釘を刺すと、來人は苦笑を浮かべてみせた。
「そうは言ってもな。具合が悪いのに気づいたら、心配はするだろう」
「それが迷惑だと言ってるんだ。お前に心配される謂れはないよ」
「キミを心配するのに理由が必要なのか?」
 來人は困惑したように眉根を寄せた。
 馬鹿馬鹿しい。胸の内で吐き捨てて、潜は己の右腕を伸ばした。
 紛い物の腕は持ち主に従順だった。
 先ほどまでの痛みが嘘のようだ。
 いま使っている義手は最新式のオーダーメイド品で、生身の腕とほとんど同じように動かせる。その分こまめなメンテナンスを要するが、食事をしたり、ハンドルを握ったり、あるいはステージの上でダンスをする際にも不自由は感じない。
 だが、どれだけ本物に似せて作っても、これはただの模倣品だ。
 人並みにピアノを鳴らすことはできても、かつてのように自在に鍵盤を操ることはできない。だから、潜はこの先もう二度とピアノに触れるつもりはなかった。
 この男と『愛の夢』を連弾する日など来ることはない。
 潜は身を起こしてベッドから降りた。
 手を伸ばし、來人の頬に触れる。
 指先には高性能のセンサーが埋め込まれて、やわらかな輪郭と体温は、数値として脳に伝達される。
 だがこれは、ぬくもりと呼べるだろうか?
「――潜?」
 こちらを見上げる來人の瞳には戸惑いが浮かんでいる。
 困惑と、かすかな警戒。
 潜は喉奥で笑った。いつもは傲岸不遜な男が、どこか不安そうに自分を見る。それがひどく滑稽だ。きっと、触れられることに碌な思い出がないのだろう。
 たとえば、無理をして作った『恋人』に、こんなふうに迫られたことがあったのかもしれない。
「哀れだね、來人」
 期待には応えてやらなければ。
 そう決めて、顔を近づける。
 ぎくりと体を強張らせて、來人は息を呑んだ。視界の端に、戸惑ったように揺れる瞳が映る。穏やかな風に梢を鳴らす新緑の匂いを思い出した。
 羽のような軽さで、唇を奪う。
 薄い皮膚に触れてみたところで、ぬくもりと呼べるほどの熱は感じられない。
 少しかさついた、やわらかな感触があるだけだ。
「……ハハ、酷い顔」
 だが、ほんの一瞬の交接は多少なりとも嫌がらせにはなったようだ。
 舌も差し込まない児戯のような口づけさえ、來人の顔を強張らせていた。
 荒野の果てで誘惑に耐える聖職者にでもなったつもりだろうか。
 ようやく溜飲が下がった心地がして、潜は微笑んだ。
「今夜は帰らないから」
 そう言い捨てて病室を後にする。
 呼び止める声はなかった。
 軽やかなステップを踏むようにして、潜は夜の街へ向かった。

 潜が寮に戻らないのは、よくあることだった。
 むしろ部屋に戻ってくる夜のほうが珍しいかもしれない。だから、ライブ後にふらりとどこかへ出かけたようだ、という方便を誰も疑わないだろう。
 先に帰寮した太緒から届いたメッセージによると、潜はいつもの夜遊び、來人は急な仕事が入ったのでそれを片付けてから帰る、ということになっているようだ。
 もちろん可不可や楓には生行から報告が行っているだろうが、他の班のメンバーにまで余計な心配をかける必要はない。
 家族でもない來人は詳しい説明を聞かされなかったが、病院に搬送された時点で潜の容体は安定していた。目を覚ましたら帰っても問題ないだろうと言われ、大事はなさそうだと生行に報告した。潜が目を覚ましたら寮に連れ帰るつもりでいた。
 しかし、嘘から出た真実とでも言えばいいのか、目を覚ました潜は本当にどこかへ出かけてしまった。
「今夜は帰らないから」
 そう言って病室を後にした潜を、引き止められなかった。
 退院の手続きも取らずに抜け出した潜の代わりに病院の窓口でお叱りを受けたが、まあそれも些細な話だ。
 自動運転のタクシーが夜の街をすべるように走る。
 後部座席から街並みを眺めながら、來人は無意識に唇を撫でた。
 
「……ハハ、酷い顔」

 病室で突然キスをされた。
 憐れむようなその微笑みを見て、緊張のあまり息を詰めていたのだと気づく。
 よほど間の抜けた顔をしていたのだろう。
 触れるだけのキスなんて、別に初めてというわけでもないのに。
 自分は普通の人間なのだと思いたくて、過去に何度か『恋人』を作ったことがあった。作ったと言っても、単に好きだと告白されて、それを受け入れてみただけの話だ。そして『恋人』に請われるままに手を繋ぎ、肩を抱き、キスをした。熱っぽい視線を向けられて、嬉しいと告げられて、呆然と立ち尽くしたことを覚えている。
 何が嬉しいのか、まるでわからなかったからだ。
 互いの熱を分け合う行為に、何の意義も見出せなかった。二人でいることに喜びはなく、逢瀬の時間が終わるとほっとした。会いたいと言われることを重荷に感じ、だんだんと理由をつけて約束を反故にすることが多くなった。そのうちに、相手のほうが耐えきれなくなって別れを切り出すのが常だった。
 なんて薄情で不実な人間だろうか。
 そう後悔しながらも一度の失敗では諦めきれずに、來人は同じ過ちを繰り返した。
 そんな愚かな過去のことなどすっかり忘れたつもりでいたのに、あの一瞬の口づけのせいで、苦い記憶が蘇った。
 子どもが読むような童話でさえ、キスは呪いを解いてくれるものとして語られる。だが、來人にとっては口づけこそが呪いだ。
 寮に戻る頃には午前三時を過ぎていた。さすがに皆寝ているだろう。とはいえ夜鷹が店から戻るには少し早い時間だ。
 來人は静かな足取りで廊下を歩き、すぐに足を止めた。リビングの入り口から灯りが漏れていたからだ。寮の照明はすべてAIで管理されているから、リビングが無人であれば自動的に消灯するはずだ。
 リビングを覗くと、案の定ソファに腰掛けた生行がタブレットを弄っていた。來人の気配には気づいているのだろうが、顔をあげようともしない。
「ただいま。まだ起きていたのか」
「悠長に眠れるわけがないでしょう。――百目鬼さんは?」
「すっかり元気になって、どこかへ出掛けて行った。今夜は戻らないらしい」
 生行はようやく顔を上げた。
「はあ? お前は何のために付き添いしてたんだ」
「そうは言うがな、潜が素直に俺の言うことを聞くわけがないだろう」
「開き直るな」
 呆れたように嘆息して、生行はソファから立ち上がった。
 マネージャーとしての責任感から二人の帰りを待っていたのだろう。しかし肝心の潜がいないのだから、生行が呆れるのも当然かもしれない。
「俺はもう休みます。朝になったら夏焼くんや主任にきちんと報告してください。特に夏焼くんはすごく心配してましたから」
「わかってる。おやすみ、生行」
 返事はなく、生行は黙ってリビングを出て行った。
 シャワーを浴びて自室に戻ると、幾成が静かに眠っていた。
 部屋着に着替えてベッドに潜り込む。泥のような疲労感が体に重くのしかかったが、そのぶん目は冴えていた。
 少しでも眠ろうと瞼を閉じれば、間近に見えた黒い瞳が脳裏に浮かんでくる。
 戯れじみた口付けよりも、冴えざえと夜を映したような瞳に気を取られていたのかもしれない。
 潜の眼差しは、心の奥底に閉じ込めていたどす黒い感情を暴いていく。
 病室を抜け出す背中を呼び止めることもできなかったのは、口づけに驚いたからでも、傷ついたからでもない。ずっと抱え込んでいた怒りや嫉妬が溢れ出しそうだったからだ。
 潤んだ瞳で「好きだよ」と言われる度に。
 手を繋いで、抱きしめてと請われる度に。
 そうやって誰かを好きになれる人間を心底羨ましいと妬んでいたのだ。
 愛を抱ける人間になりたかった。正しく恋を受け取って同じものを返せる人間なら、世界から爪弾きにされたような心細さを感じることもなかったはずだ。
(――なんて、我ながら拗ねた子どもみたいだな)
 天井を見つめながら、苦く笑う。
 潜の言葉はいつだって鏡のように、來人の弱さを映し出す。
 張り付けた笑顔の下に必死で隠した醜さを暴かれてしまいそうで、最初は彼のことが苦手だった。いたぶるように傷つけられて、憎しみさえ覚えた。人を愛せない自分が、人を憎むことはできるのかと自嘲したものだ。
 けれど一度すべてを曝け出してしまえば、毒のような言葉を恐れる理由もなくなる。
 潜が來人に突っかかるのは、それだけ來人のことを見ているからだ。その執着の理由はわからないが、恋や愛ではないことだけはわかる。潜の眼差しは、今まで來人に愛を告げてきた人たちとはまるで違った。
 それがどれだけ嬉しいことか、潜にはきっとわからないだろう。
 恋ではなくても誰かと繋がることができるかもしれない。そう思えたことは、來人にとっては紛れもなく希望だった。
(潜が帰ってきたら、話をしよう)
 キミのことが知りたい。
 どうして俺を壊したいのか。
 キミが本当は何を求めているのか。
 それを俺は与えられるのか。
 尋ねたところで、はぐらかされるだけかもしれない。
 けれど、答えを知りたいなら諦めずに足掻き続けるしかない。終着点がどこだとしても、それまでにできる限り足掻いておきたかった。
 いつか二人で『愛の夢』を弾くために。

 適当な巣穴を選んで夜を明かした。
 潜の気を引くために奉仕したがる人間などいくらでもいる。夜中に突然訪れた潜のために食事と衣服とベッドを用意して、傅いて褒美を待つような愚かな子羊たち。
 いい子だね、と顎を撫でてやるだけで、感極まって足もとに縋りつく。犬であれば千切れるほど尾を振っていただろう。
 その献身を愛らしく思うこともあれば、煩わしいと思うこともあった。いずれにせよ、潜にとっては義手と同じ、替えの利く道具でしかない。愛を囁くのも、施しを与えるのも、関節をなめらかに動かすために油を差すようなものだった。
 愛とは欲望に過ぎず、しかし欲望は生きていくための糧でもある。
 満たされたいという欲望は、原始的で、単純で、人間らしい。それを恋と名付けて美しく飾り立てたところで、一皮剥けば同じこと。
 その瞳に自分だけを映してほしい。
 口づけて、抱きしめてほしい。
 あなたの特別になりたい。
 どんなに綺麗な言葉にしたところで、それは他人の心や体を侵略したいという支配欲に過ぎない。一部であれ、すべてであれ、他者を欲しがるとはそういうことだ。
(まあ、いじらしいとは思うけれどね)
 潜は己に向けられる欲望を操り、利用しながら生きてきた。
 それを悪行だとも恥ずべきことだとも思わない。利用するだけではなく、愛を与えて、夢を見せてやった。向けられる愛をただ拒絶してきたあの男とは違う。
「……」
 目が覚めた時には日が暮れていた。
 スマートフォンには千弥からのメッセージが何件も届いていた。
『大丈夫?』『元気?』『はやく帰ってきてね』
 健気なものだと呆れつつ、アプリを閉じる。既読がついたことで、潜がメッセージを読んだことは伝わるはずだ。
 このまましばらく寮に帰らなくてもいいかと思っていたが、この調子だと一度戻らなければ面倒なことになりそうだ。また失踪したと騒がれて捜索でもされたら、そのほうが煩わしい。
 ねぐらから寮まではさほど遠くない。車を手配するのも面倒だったので、潜は歩いて帰ることにした。
 外へ出ると、しんと冷たい冬の空気が頬を撫でた。墨を流したような暗い空から、ひらりひらりと白い雪片が降ってくる。傘を差すほどの雪ではなかった。地面に降り積もることもなく、すぐに融けてしまうだろう。
 雪の夜は静かだ。
 外の音が吸い込まれて、世界が無音になる。
(「世界中から隠れて、ピアノを弾きたいな」)
 歩きながら、遠い夜を思い出す。
 すべてを失うとも知らずに、ささやかな幸福に胸を躍らせていた夜。

「潜!」

 名前を呼ばれて、足を止めた。
 振り返るまでもなく聞き覚えのある声だ。よく通る、自信に満ちた声。それでもつい振り返ってしまったのは、思い出に浸っていたせいだろうか。
 潜と目が合うと、來人は明るく笑った。早足で潜の隣にやってくる。
 金の睫毛に雪が積もっているのが見えて、思わず息を呑んだ。
「おかえり。千弥が心配してたぞ」
 立ち竦んだ潜には気づかず、來人は微笑んだ。昨日の晩のことなど忘れているかのような屈託のなさだ。もっと気まずそうにしていると思っていたのに。
(つまらない男)
 ちらりと視線をやると、來人は買い物袋を持っていた。葱だか何だか、所帯じみた中身が見え隠れする。こんな夜中に散歩かと思えば、どうやらスーパーに出かけていたらしい。
 潜の視線に気がついて、來人は荷物を掲げてみせた。
「そろそろキミが帰ってくるころだと思ってな。ラーメンの具材を買ってきた」
「僕のために作るみたいなポーズやめてくれる? 頼んでないし、僕は食べない」
 心外とでも言いたげに、來人は瞠目した。
「どうして」
「逆にどうして僕が食べると思うんだよ」
 この男と二人きりで話していると心底疲れる。
 うんざりとした気分で、潜は寮へ向かった。
 嫌がらせにキスをしたくらいじゃ、まるで割に合わない。こうやって話しかけてくるということは、それだってたいしたダメージになっていないようだし。誤算もいいところだ。
「潜の好みに合わせて、塩ラーメンにしたんだが」
「勝手に僕の好みを捏造するな」
「だが、きっと気にいると思うぞ。奮発して鯛と魚介で出汁を取って――」
「その不快なお喋りをやめないなら、もう一度キスして口を塞いであげようか」
 潜が睨みつけると、來人は眉尻を下げて困ったように笑った。
「それは遠慮しておこうかな。キミとの距離は、今のままが心地良いんだ」
 呆気に取られて、思わず足を止めてしまった。
 どうした? と振り返る來人を、じっと見つめる。
 この男はやはりどうかしている。だが、このままでは言い負かされたようで癪だ。
 溜息を吐いて、歩き出す。潜を待つように立っていた來人の襟元を掴んで、力任せに引き寄せた。
 そのまま唇を合わせる。
 昨日よりもゆっくりと、感触を確かめるように口づけた。冷え切った唇にじわりと体温が滲んでいく。舌を入れなかったのは、そういう気分じゃなかったから。
 どさりと買い物袋が地面に落ちる音がした。
 ハ、と吐息で笑いながら顔を離す。ざまあみろ。
「酷い顔」
 にこりと笑って、立ち尽くす男に背を向けた。そのままひとりで歩き出す。
「まったく、キミってやつは……」
 ぼやくような來人の声に胸がすくようだった。
 この男にとって心地良い存在になるなんてごめんだ。それなら來人の心臓に深く突き刺さるような棘でありたい。優しい思い出などではなく、いつまでもじくじくと痛む傷として、この男の記憶に残るほうがずっといい。
『愛の夢』には程遠いが、自分たちには似合いだろう。