京で花の盛りが終わる頃、奥州にはようやく遅い春が訪れる。
長く地面を凍らせていた雪が解け、ぬかるんだ土から冬篭りの虫が這い出てくるのがその合図だった。地に染み込んで渓流となった雪の代わりに、山の裾野は菜の花や若草、あるいは膨らんで綻ぶのを待つばかりの花の紅に彩られる。
山の中でじっと息をひそめて雪解けを待っていた獣らが這い出る頃には、平泉の地は一足でその景色を春の色へと変えていく。
そこには都のような華やかさはない。
しかし長く凍った冬を忘れさせる涼やかさがあった。これぞこの世の浄土だと父が笑って言ったのは遠い日の話だ。普段は磊落な男が、この浄土を守ることこそが我々の務めであり喜びなのだと語った横顔は、今もまだ目蓋の裏に焼き付いている。
早春の頃、まだぬかるむ山道を馬で駆けていた泰衡は、ふと視界を過ぎった白色に手綱を引いた。
草木の陰、黒い土に浮き上がるようなその白い色合いに、未だ解け切らぬ冬の名残りが落ちているのかと思ったのだ。高く嘶く駿馬を宥め、名残の雪などに気を取られてしまった自分を訝しみながらも、泰衡は確かめるように眼を凝らし、そして瞠目した。
土に解け残った雪かと思ったそれは、よくよく見れば人のなりをしていた。
地に倒れ伏しているので顔は見えず、しかし泥と血に汚れた甲冑を纏う姿から、落武者のたぐいだろうかと思いつく。銀糸の髪が目を引くその男の身なりは、薄汚れてはいるがけっして粗末ではなく、野盗には見えなかった。しかしこの近辺で戦が起こったという話は聞かない。そんなことがあれば真っ先に泰衡の耳に入るはずである。季節はまだ夏を迎える前、西を騒がす源平の争乱もこの奥州まで届いてはいない。
興をひかれた泰衡は、馬を木に繋いで雪色の男に歩み寄った。
近づいて、その酷い有様に眉をしかめる。血と泥にまみれた男は、矢傷や刀傷のせいばかりではなく澱んだ死の気配が強い。呪術をかじる泰衡にはそれが呪詛による穢れであろう事が見て取れた。
ただの屍であったかと、いささか興を削がれた泰衡が踵を返そうとしたその時、男の手が僅かに動いた。
「まだ生きていたか」
ほんの少しの感慨を滲ませて泰衡は呟いた。
この血と穢れを負ってなおも生き延びるとは随分と丈夫な男だなと思う。どの道このまま放っておけば屍になるもの時間の問題ではあったが。
ふと気紛れを起こして、泰衡は爪先で男の腹を蹴り仰向けに転がした。死の淵にある男がどんな顔をしているのか見てみたくなったのだ。天を向かせたその顔は、血の気が失せて紙のように白い。泥と血で汚れてはいたが元は端正だったろうと容易に想像ができた。
「生きているか」
低く問う泰衡の声に呼応するように、白い目蓋が震えて押し上げられた。そこにあったのは深く、底の見えない奈落のような眼だった。
何も映さない、月のない夜のごとく空ろの眼が泰衡を捕え、ゆっくりと瞬く。それから、掠れた声が一言、はい、と吐息のように応えた。
「おまえは何処の者だ」
重ねた問いに、男はもう一度瞬きをし、しかし今度は言葉を返さなかった。そして暫しの沈黙の末にぽつりと消え入るように、「わかりませぬ」と呟いた。
「私が何者か、私も知らないのです。名も、家も、何もかも、持っていたかどうかさえ覚えてはおりません。こうして伏している理由さえ、私は知らないのです」
切れ切れに、男は言葉を紡いだ。
その言葉が真かどうかはわからない。しかし恐らくは真実だろうと思った。名も忘れ、何も持たないからこそこの男は空洞のような眼をしているのだと、妙な得心がいったのだ。
感情のない空ろな声のまま、男は続けた。
「私はもう死んでいるのだろうか、ならば此処は浄土だろうか。そう思いましたが、違うのですね」
それはもはや声ですらなく、掠れた吐息のような言葉だったが、不可思議なほどにはっきりと泰衡の耳を打った。
「俺は此処が浄土だと思っていたんだ。だがそれは違うのだな」
仔犬の頭を撫でながら九郎がそう言ったのは、幾たびか前の秋の頃だ。
黄金色の稲穂が風に吹かれるさまを眩しそうに見ながら、常日頃の喧しさが嘘のように穏やかな顔をしていた。
春の花の色も、夏の濃い緑も、秋の穏やかな景色も、冬の果てのない雪原さえも。平泉の地を彩る美しさを九郎は深く愛しているようだった。この地に生まれ育った泰衡よりもよほど楽しげに暮らしていた。その真っ直ぐな気性を可愛がる秀衡と共に、平泉をこの世の浄土とし、守って行くのだと語らっているのを見ることも度々だ。
泰衡は、そんな九郎に小言を言いながらも、この男ならばきっとこの楽土を守り抜くのだろうと思っていたのだ。ならば彼に手渡す前に平泉をこの世の浄土と為し得るのが己の仕事だろうとも。
しかし鎌倉からの文が届き、九郎はこの地を離れると告げた。兄の元に馳せ参じ平氏追討に出るのだと言う男に、「所詮は血の縁が大事なのか」と泰衡は詰った。
「そうじゃない」
首を振りながら、九郎の声は穏やかだった。
「確かに俺は源氏として戦わなければいけないが、どのみち戦が続けばこの平泉にもいつ飛び火するともしれない」
その前に俺は戦を終わらせるんだ。足元に擦り寄る仔犬の頭を撫でながら九郎は言う。その目に宿る光の強さに泰衡は押し黙った。
「平泉がこの世の浄土たり得るのは、お前や御館がこの地のために尽しているからだろう。此処は最初から浄土だったわけではない。お前たちがこの地を苦しみのない、美しい地にしているんだ。だから俺も、俺の戦い方で、この場所を守りたい」
その真摯な声音に、泰衡は目を眇めた。
この男が約束を違えたりしないことも、都合の良い嘘を吐くような器用さを持たないことも重々知っていた。しかしこちらとて、そうかと素直に背を押してやれるような性分でもないのだ。
「俺は知らん、何処なりと行って野垂れ死ね。二度とこの地を踏むな」
吐き捨てる調子で言って、泰衡は踵を返した。その後を、くうんと鳴いて犬がついてくる。九郎が拾い、泰衡が引き取ることにした仔犬である。泰衡はふと足を止めて後ろを振り返った。身を返した先には、一面の稲穂を前に佇む九郎の背があった。稲穂は夕暮れの陽を浴びて、黄金の海のように揺らいでいた。
足元の犬の背もまた、風に揺れる稲穂のような黄金色をしている。
「くがね」
泰衡が名を呼ぶと仔犬はそれに応えるように一声鳴く。
その黄金もまたこの浄土を彩る色のひとつだと、気紛れに名前を与えてやったのは泰衡だ。お前にしては安直な名付け方だと九郎は笑った。笑いながら、だが良い名だと嬉しそうに言った。
「帰るぞ」
その日を遠くに感じながら、泰衡は今度こそ九郎に背を向けて歩き出す。
この地は本当の浄土ではない。
だが九郎ならばこの美しい景色を真の楽土にするのではないかと、己らしからぬ期待を胸に抱いていたことに今更ながらに気づかされ、泰衡は自嘲に口元を歪めた。
冬の名残の、雪のような男だと思ったのだ。
「――しろがね」
倒れた男を見下ろした泰衡の口からふとこぼれた声に、男は不思議そうな顔で首を傾けた。しかし男よりも驚いたのは泰衡自身だ。口に出してしまってから、下らぬことを思い出したせいだ、と内心毒づく。
男の纏う甲冑は薄汚れていたが、元々は華美なものだろうと想像が出来きた。ただの一兵卒であるはずがない。拾ったところでこの平泉に益になるどころか、害を成す可能性の方が高いだろう。
しかし男の銀糸の髪が、黒土に残る雪に見えてしまったのだ。
秋の日に九郎が拾った犬の背が黄金の色をしていたように、冬の地を覆う真白の雪を連想してしまった。この浄土を彩る色のひとつを。
「名が必要ならばそう名乗れ。死にたければこのまま去るが、そうでなければ俺が拾う」
泰衡はつとめて感情の籠もらぬ声音で言い捨てた。
これは哀れみでも感傷でもなく、ただの気紛れに過ぎない。
どちらを選ぶかと問う泰衡に、男は言葉の意味を確かめるようにゆっくりと瞬いた。
「もう一度、その名を呼んで下さい」
「銀、だ。春先にまで残る雪のようで、しぶとく死なずにいたおまえには似合いだろう」
しろがね、と男は声には出さずに音をなぞった。そして「今はもう春なのですね」と小さく笑う。空洞のような目に、僅かに光が宿った。
「名を与えて頂きました。今よりこの身は貴方のものです」
