「生きているか」
問う声は冷たく素っ気ない。
黒竜に背を預けて蹲っていたツァイスは鉛のように重い目蓋を押し上げた。
それだけの動作がひどく億劫だ。じくじくと、鈍い痛みを訴える右腕に眉をひそめながら僅かに目線を上げれば、声と同じく温度を感じさせない黒瞳と視線がかち合う。
しなやかな獣のようにまっすぐに、シンが立っていた。地に蹲るツァイスを、鋼色の眼で見下ろす青年はいつもと変わらない無表情だ。
しかしその鋼の瞳の中にほんの少し心配そうな色を見つけて、ツァイスは驚きにニ、三度瞬いた。慌てて「一応は」と答えると、安堵の混じった溜息と共に「動かないから死体かと思った」と返され、益々驚きに息を呑む。
極端に寡黙で無表情なこの青年のことを冷酷無情だと思ったことなど一度もない。それどころか実は人一倍情に強い事も知っている。けれど、だからこそシンが自分を赦すことなど絶対にないだろうと思っていた。ましてや心配されることなど考えてもいなかったツァイスは、酷く動揺した。
自分は、彼が憎むべきベルン人なのだ。今は祖国に敵対しているとは言え、彼の一族を滅ぼしたベルンの竜騎士である事実は変わりない。同じ軍に身を置く仲間として言葉を交わすうちに、以前のように敵意を向けられることはなくなったが蟠りがなくなった訳ではないだろう。
(なのに何で)
「立てるか?」
しかしツァイスの動揺など与り知らないシンは、それが当然であるように手を差し伸べてきた。
その手に無意識に触れようとして、軋む四肢に小さく呻く。痺れて上手く動かない手足に、ツァイスは漸く今の己の有様を思い出した。
黒衣の軍服のお陰で目立たないものの全身は血に濡れている。最早、自分の血なのか返り血なのかは判別が難しいがこの有様ではシンが一瞬死体かと思ったのも無理はないだろう。
身体のあちこちには大なり小なり傷を負って、怪我をしていない場所を探す方が難しいのではないだろうか。
中でも最後のひとりを倒した時に、腕に受けた矢はどうやら毒が塗られていたらしく手足が痺れて騎乗すらしていられなくなった。
転げるようにルブレーから落ち、今に至る。
「そんな訳で、痺れて立てないんだ」
まさに満身創痍だと自嘲すると、シンが僅かに眉を顰めた。
「油断するからだ、馬鹿」
「うん、ごめん」
素直に謝ると、シンは更に眉間の皺を深くしながらも口を噤んで、蹲るツァイスの真向かいに膝をついて矢を受けた腕を取る。
返り血を浴びてごわつく赤い髪が、風に吹かれてぎこちなく揺れた。
腕の傷を検分する真剣な横顔を、ツァイスはそっと盗み見る。
黒い眼、黒い髪。そしてサカの民特有の、自分とは違う色の肌にツァイスは先程まで刃を向けていた相手を思い出す。そうして重く息を吐いた。
*
いよいよベルンへと兵を進めようというリキア同盟軍は、草原を抜ける進路を選んだ。
サカを抜けるにはベルンに下ったジュテ族と刃を交えるのは必至だろう。草原に進軍する前、漸く故郷に戻れる喜びなど微塵も感じさせない冷淡さで言ったシンの横顔をツァイスは忘れることが出来ずにいた。
喜べるはずもない。シンの言葉通り、常の牧歌的な様相を一変させて、草原は血の海と化した。
(――同じ血が流れているはずの敵を前に、彼は何を思うのだろう。)
機動力と戦力の高さからツァイスもシンも前線に送られることが多い。今回も先陣を切る先鋭部隊に命じられ彼らはそれぞれの愛騎に跨り戦場と化した草原を駆った。
相手は狡猾さでこの戦乱を生き延びてきた部族だった。幾らクトラの生き残りであるシンがいるとはいえ、地の利も向こうにある。日も傾きかけるサカの草原で、ツァイス達は思いのほか苦戦を強いられた。
広がる平原の上空を単騎で駆ける竜騎士は敵の格好の的だ。いくら並の追随を許さない強さを誇るツァイスといえど、単騎で大勢を相手にするには限界がある。図らずも多数の敵をひきつけることとなったので、先陣としての勤めは果たせたと投げ遣りに考える頃には、ツァイスは乱戦の只中に居た。敵陣にひとり囲まれ、味方からの救援は望めない。
ある意味絶望的ともいえる状況に立たされ、ツァイスはただ生き残りたい一心で槍を振るった。そこには憎悪も正義もなく、生への渇望があるだけだ。死にたくない、それだけが彼の腕を動かして手綱を引かせ、槍を振るわせる。
やがて槍も腰に刷いていた剣すら血糊に潰れて使い物にならなくなる頃、ツァイスは漸く自分を囲んでいた敵の最後のひとりの胴を薙いだ。
敵の血と返り血で全身を赤く濡らした竜騎士を、憎悪の眼差しが射抜く。胴を横薙ぎにされながら敵兵はツァイスに弓を引いた。
その、敵意のこもった黒い眼に既視感を覚え、一瞬身体が強張る。
(「何だよ射かけて来るなんて!俺は味方だぞ!」)
(「…ああ、そういえばそうだったか」)
背筋が粟立つような、あの凍てつく眼。
いつか向けられた敵意を思い出し、動きが止まる。その一瞬の動作の遅れで、空を裂く鏃をかわしきれず。咄嗟に身を庇った腕に鏃は深々と突き刺さった。
「ツァイス!」
遠く、己の名前を呼ぶ声にからだが震える。(俺は、そんな声で呼ばれる資格なんて、)否、震えが止まらないのはどうやら鏃に毒があったらしいと、徐々に痺れて動かなくなってゆく四肢から冷静に判断する。(お前の故国で、お前の同胞の血を浴びて生きながらえたのに、)そうしているうちに痺れは酷くなり手綱を握ることすらできなくなった。
(――どうしてお前は、俺を許すんだ)
もう一度自分を呼ぶ声を聴きながら、ツァイスは竜の背から転がるように落ちた。
「悪運の強い奴だな」
傷口を検分しながら、シンは呆れたように言った。
それもそうだろう。全身傷だらけになりながらもツァイスは致命傷のひとつも負ってはいなかった。一番深い傷が最後に受けた矢傷だ。
幾ら戦場に在っては最強と謳われるベルンの竜騎士であろうと、多勢に無勢の乱戦では無傷である方がおかしい。単騎で敵を一掃し、腕の一本も失わずに済んだのは充分僥倖といえるだろう。
最も、毒がまわれば腕どころか命すら危ういだろうが。
そうでなくとも、失血のせいか傷が熱を持ったのか眩暈と耳鳴りが止まない。目蓋は鉛を含んだように重く、気を抜けば意識を失いそうだった。
「なあ…」
何か話していなければすぐにでも意識が飛びそうで、ツァイスはとりあえず口を開いた。しかし言葉は続かない。
訊きたいことはあった。どうして自分を許したのかと、それを訊きたくてしかたなかった。しかしそれを訊いた所でいったい何になるだろう。きっと口には出さない葛藤を抱えているだろうシンの心を抉るだけだ。
「――俺、死ぬのかな」
結局言葉に迷いあぐねてそう嘯くと、鏃を抜くため傷口に小刀を当てていたシンが煩げに視線を上げた。
「サカ特有の毒だがそれほど強くはないし、どちらかといえば痺れ薬に近い」
素っ気なく言い捨てながら彼は器用に鏃を引き抜いた。肉を裂く痛みに小さく呻くツァイスには頓着せずに赤く滲む傷口から血を吸い、地面に吐き捨てる。何度かその動作を繰り返してから、シンは頭に巻いた布を取って傷口をきつく縛った。
その唇はツァイスの血に濡れて紅い。
鮮やかなその色に目を奪われツァイスは息を呑んだ。気がつけば痺れの取れない手を伸ばしていた。
「血、が」
指先がそっと頬に触れてもシンは身じろぎもしなかった。
草原に沈む朱、草原を濡らす赤、目の前の顔を汚す紅。暗くなってゆく視界でその色だけがはっきりと目を灼く。ぎこちなく頬から細い顎へ指を滑らせても、目の前の青年は振り払う事もなくただじっとツァイスに視線を向ける。
眩暈がした。
ふらつく腕に力を込めて、かき抱くようにしてシンの頭を引き寄せた。
舌でなぞるように唇を合わせると、錆びた鉄の味が口腔に広がる。
(…――甘い)
それは、酷く鮮やかな命の、
