飯食いに来いと何度か上司に連れられて行ったことがある。独り身で地縁もない、転任したばかりの部下を気遣ってのことだったのだろう。昔堅気でやや強引な性質のその男は本来であればどう考えても苦手なタイプの人間だというのに、そうして気遣われるのは嫌な気分ではない。それが自分でも不思議だった。
珍しく互いに残業もなく同じ頃に上がれそうな日に、堂島はやはり「飯食っていくか」と声をかけてきた。一も二もなく足立は頷いた。給料日前の懐事情は厳しい。おまけに堂島の家に行くということは途中までタダで車に乗せてもらえるということだ。堂島の家からならば自分のアパートには歩いてでも帰れる。田舎町はバスの本数も少ないので途中まででも足があるのは有難かった。
もっとも堂島は妻に先立たれており、彼自身は料理などしない。夕飯に誘われると言っても出来合いの弁当を買って帰るのが常である。ところがその日はジュネスにも寄らずに手ぶらのまま家に向かった。
「夕飯、買わなくていいんですか」
「ああ、今日はあいつが作るっていうんでな」
「あいつって、あの甥っ子さんがですか?」
堂島の娘は歳の割にはしっかりしているが包丁を持たせるにはさすがに幼すぎる。そうすると消去法で残るのはこの春からやってきた堂島の甥にあたる少年しかいない。
「そうだ。まあ、あれも学生だし毎日ってわけじゃないが、部活のない日なんかはたまに作るようになったな。毎日店屋物や弁当じゃ菜々子がかわいそうだって言ってな、ありがたい話だが正直耳が痛い」
堂島はハンドルを握りながら苦笑を浮かべる。
「へえ、だけど料理のできる男子高校生ってのも珍しいですね。今時の子は違うなあ」
「何言ってるんだ、お前が焚きつけたんだろうが」
「僕がですか?」
「連休前だ、あいつに向かって弁当作ればいいって言っただろう。あれから台所に立つようになったぞ」
「ああ、そういえば」
そういえばそんな話もしたかもしれない。別段他意があったわけではないが、冷静沈着を絵に描いたような少年をからかってみたかったのだ。涼しい顔の少年が慌てたように表情を崩すのを見るのはなかなか愉快だった。もっともそんなことは口が裂けても堂島には言えやしないが。
そんな他愛もない話をするうちにやがて堂島の家に着いた。
すでに夕食の支度は整っているようで、建て付けの悪い玄関の扉を開けると香ばしい匂いがした。人の気配の濃い家というのは馴染みが薄く、足立はいつも少しばかり気後れする。とんでもなく場違いなところにいる気がしてくるのだ。けれど堂島は足立のそんなささやかな戸惑いになど気づかずに「まあ上がれ」とぞんざいに促して、自分はさっさと三和土を上がってしまう。
「おい、帰ったぞ」
堂島が叫ぶと奥から軽やかな声が応えた。程なくしてぱたぱたと軽い足音とともに菜々子が出迎えてくれた。
「おかえりなさい、お客さん?」
堂島の背後に気配を感じたのだろう。菜々子は少し戸惑うようにして父親を見上げた。
「こんばんは、菜々子ちゃん」
「……こんばんは、足立さん」
父親の後ろに隠れてしまう幼い少女に対してどう接すればよいかなどわかるはずもなく、ごまかすようにへらりと笑う。
「久しぶりだねえ。あ、お邪魔しまーす」
間延びした調子は我ながら滑稽だけれど、警戒心を持たれないようにするにはちょうどいい。菜々子はほっとしたように「お夕飯、できてるよ!」と居間に戻っていった。
廊下を抜けた先に台所と居間があり、年季の入った卓袱台にはすでに湯気の立つ白いご飯に味噌汁、コロッケと付け合わせのキャベツの千切りが乗った大皿並べられていた。どこから見ても完璧な『晩ご飯』だ。 あらかじめ聞いていなければとても男子高校生が作ったとは思わなかっただろう。
転校早々に友人に囲まれて部活にバイトに忙しそうにしながら平然と家事もこなす。まさにミスターパーフェクトだ。もはや嫌味でしかない。馬鹿らしい、高校生のうちから何をそんなに一生懸命なんだか。足立からするともはや嘲笑の対象だった。
「足立さん、いらっしゃい」
半ば呆れて立ち尽くしていると後ろから静かな声がして思わずぎょっとした。振り返ると、くだんの少年がエプロンを外しながら居間に入ってくるところだった。
足立にとっても浅からぬ因縁を持つ少年は、どちらかというと生活感を感じさせない不思議な雰囲気を持っていたから、エプロン姿がしっくり馴染むことに少なからず衝撃を受けた。思わず凝視しているとその視線に気づいた少年が「どうかしましたか」と首を傾げた。
「もしかしてコロッケ、嫌いですか」
起伏のない平坦な声はやっぱり作り物めいていて薄気味悪くさえ思える。けれどもそんなことはおくびにも出さずに足立はへらりと笑ってみせた。
「そうじゃないよ、感心しただけ。高校生でこれだけ料理ができるなんて、さぞかしもてるんじゃないの」
軽口を叩くと涼しげな目元をした少年は「そうでもないですよ」と軽く否定した。それがいかにももてそうでますますむかついたけれど顔には出さない。
少年はくたびれた座布団を敷いて足立に座るように促した。言われるままに胡坐をかいて「美味しそうだなあ」とわざとらしくへらへら笑って箸をとる。
堂島家の食卓はそれぞれ定位置が決まっているようで、上座の家長の向かいにはその愛娘、その間に少年が座った。自分のちょうど向かい側だ。手を合わせて「いただきます」を唱和する。
(まるでホームドラマのワンシーンみたいだ。)
足立は腹の中で嘲笑した。自分がその中にいるのがひどく滑稽に思えた。
他愛もない話をしながら食事が進む。菜々子が怖がるので事件の話はなしだ。ビールを傾けながら堂島と足立はもっぱら聞き役に回った。菜々子が学校での出来事や「お兄ちゃん」と一緒に遊んだ話を熱心に話している。それに耳を傾けながら皿に箸を伸ばす。そうしているうちにすっかり皿はからになった。
「美味しかった、ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
素直な感想とともに箸を置くと少年はいささか照れたように僅かに目を伏せた。そんな子どもっぽい表情もできるのかと新鮮な気分で盗み見る。灰髪の少年はどこか人形めいた端正な顔立ちで見るものの心臓をざわめかせた。
「君さあ、そんなにきれいで料理も上手くて、きっといいお嫁さんになるよね」
からかうように言えば、少年は、「全然嬉しくありません」と拗ねたように言った。当たり前だ、嫌味で言ったんだから喜ばれても困る。そう考えていたら堂島に頭をはたかれてどきりとした。
「何言ってるんだおまえは、こいつはまだ高校生だぞ」
「そこですか!?」
見当違いの説教をされて足立は堪えきれずに吹き出した。見れば堂島の手元には空になったビールの缶がいくつも転がっていた。すっかり酔っ払った叔父を、少年は呆れたように眺めている。
「すみません、けっこう弱いくせに飲みたがるんです。足立さんの方が知ってるかもしれないですけど。……叔父さん、寝るならせめてソファで」
愚痴のような言葉には身近な者に特有の親愛が透けて見える。
「いいなあ、こういうの」
船をこぎ始めた堂島を甲斐甲斐しくソファに座らせる少年を横目に、足立は知らずにそう呟いて、自分の言葉に驚いていた。こんなふうに馴れ合うのなんて気持ちが悪いと思っていたのに、口からこぼれたのは正反対の感情だった。
「ひとと一緒にご飯食べるのは楽しいね」
少年はぱちりと瞬きをしてから「よかったら今度は足立さんの好物を作りますよ」と言った。
「何か好きなものあります?」
足立は腕を組みしばらく逡巡してみせる。
「そうだなあ、うにの軍艦巻きとか?」
「それは寿司屋じゃないと無理です。今度出前取る時にしてください。そうじゃなくて普通のおかずで」
「ならロールキャベツとか」
「キャベツ好きなんですか。そういえばこの間も買ってたけど」
「好きだねえ、安いし何にでも合うし、いざとなったら塩を振っても食べられるし」
「まあ、確かに。味噌汁とかも美味しいですよね」
「味噌汁?」
「食べたことないですか?美味しいですよ」
「菜々子、キャベツのお味噌汁好き! 」
「へええ、菜々子ちゃんのオススメなら食べてみたいかなあ」
「じゃあ、決まりですね」
いつのまにかまた食べにくるのが前提になっている。なんだって僕はこんなところにいるんだろうかと何度目かわからない疑問がわいた。
またこうやってガキの作った飯食ってへらへら笑ってみせるのか、僕は。――馬鹿らしいにもほどがある。
あまりに滑稽で足立は笑い出したくなった。その衝動のままに大声で笑って、馬鹿にしてやろうかとも思った。けれども実際にはくちびるが僅かに歪んだだけだった。ちくしょうと胸のうちで吐き捨てる。
(家族ごっこなんて反吐が出そうだ)
◇
あかい空にとぐろを巻いたような黒が目に痛い。
いつの間にか、ぼんやりと卓袱台の前であぐらをかいていた。こんなやばそうなところ誰が入るかと思っていたけれど、実際転がり込んでみればテレビの中の世界はそう悪いものでもなかった。見慣れた街はぐちゃぐちゃに破壊されて廃墟のようなありさまだった。退屈な田舎町はどこもかしこも気に喰わなかったからいっそ清々した。何より誰もいないというのが良かった。
(誰もいないとしずかだ)
もともと騒がしいのは好きじゃない。だから時折シャドウのうめき声が聴こえるだけの世界というのは悪くはないと思えた。はやく全部終わればいいのに。卓袱台に並べられた空っぽの皿を眺めながら考える。からの皿なんて自分にはずいぶんお誂え向きだと他人事のように思った。この皿が満たされることはもう二度とないだろう。
それでいい。あんなままごと、ほんとうはもうごめんだ。
(だって勘違いしちゃいそうになるだろ。僕にも居場所があったんだなんて)
けれどそれは現実ではなかった。戻る場所などどこにもないし、戻る気もなかった。だって何もかもがもう遅い。時間は巻き戻せないし、やり直すこともできない。
だからリセットボタンを押すみたいにすべてが終わるのをじっと待っている。
(はやく終わらないかな)
赤黒い空を見上げながら強く願った。
願わくばあの子どもがやってきて、僕の名前を呼ぶ前に。
